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二十四節気を旧暦と混用してはいけない

 先日、ネットで沖縄の習俗に書かれている記事を読んでいた時、ちょっと微妙な記述を見つけた。
 沖縄の伝統行事は、基本的に旧暦の暦に合わせて行い、正月やお盆などを旧暦に合わせて行うとあり、その中に清明節が並列して説明されている。
 清明節の時期は4月の初旬とある。

 しかし、ここでおかしいと感じたのは。清明節が旧暦によって決まっている伝統行事かのような印象で書かれていることであった。
 清明節は確かに伝統的行事の一つではあるが、清明節は旧暦ではなく二十四節気によって時期が決まってくるものであり、記事の説明としては確かにそうなっている。
ただ、やはり一緒くたになって扱われている書き方にはやや抵抗感を覚える。

ここで旧暦と二十四節気が何かを改めて簡単に説明すると、旧暦と呼ばれる太陰太陽暦は、月の満ち欠けのサイクルを一か月として暦を数え、太陽による季節変動に合わせて、19年に7回程度の割合で閏月を加えることによって、季節のずれを最小限に修正した状態で概ね正確に進む暦である。
 これに対して、二十四節気というのは、黄道(天空上の太陽の通り道)を二十四等分し、季節の気候変化を約15日単位で示したものである。(定気法による場合)

例えば上記の二十四節気の「清明」は、立春を起点とした場合は5番目となる節季で、つまり立春を基点として太陽が黄道上を60度進んだ時点が清明となり、それが新暦(グレゴリオ暦)で言うところ4月5日頃に該当する。

 従ってその位置は毎年ほぼ固定であり、旧暦の日付のように新暦上でそれほど大幅に変動するものではない。
 つまり発想として二十四節気は太陽暦に近く、月を基準とした太陰太陽暦とは全く異なるわけであり、そもそもとして二十四節気自体は暦でもなく単なる季節の目安である。

 要するに、「清明節」は太陽暦的な尺度で清明節の日付が決まっている時点で。毎年だいたい同じ日の春分の日や秋分の日、或いは夏至・冬至と同じなのであり、「清明節」を旧暦の行事のような印象で扱う時点で間違っていることになる。

 沖縄の伝統行事の中で、清明節は大切な位置を占めてはいるが、それは旧暦文化が息づいていることとはその意味合いが違うのであり、単に我々本土に清明節の習慣が残らなかったことの意味の方が実は大きく、暦は関係ないのである。

 ただ沖縄の人たちが季節感を大事にして伝統を守っているという意味においては、旧暦で行事を行うということと清明節を守って行っていることは同義でもあると言える。
むしろ季節感を失って伝統行事を形だけにしてしまった本土側のおかしさを浮き彫りにしてくれるという意味では、沖縄の年中行事は貴重な比較対象となる。

伝統行事を伝統という壁の向こう側に押し込んで放置していると、その伝統行事が何故生まれその日に行われことが分からず、結果旧暦と二十四節気の違いさえ分からなくなってしまうのかもしれない。

日米地位協定の壁は日本の司法制度と日本政府

先日のニュースで、米軍が沖縄に派遣される海兵隊向けに1998年に作った指示書において、「日本の裁判手続きは悪名高い」と説明されていたと報道されていた。

昨年から続くゴーン氏を取り巻く司法の手法の例を見るように、日本の司法制度は世界から見ても異例であり、自白偏重主義と言われるように、自白を得るまで何度も別件逮捕拘留延長を繰り返して、徹底的に長期間身柄を拘束するような取り調べを行うことが知られている。

 冒頭の「悪名高き」は恐らくこういった日本の取り調べ手法を指して評価したものと思われる。

昨年の籠池夫妻の拘束も10カ月に及んでかなりひどい扱いだと感ぜられ、本人らが言うように、対立する官邸サイドからの口封じの国策捜査とに見えるほど異様な拘束期間であり、個人的にもこういった日本の司法手続きはやはり異様と感じる。

一方、沖縄では在日米軍軍人の犯した罪について、日米地位協定の存在によって日本の司法によって裁きにくくなっているという状況が存在する。
米軍は沖縄への派遣そのものを勤務中であるとして、それを理由に日本の裁判ではなく米国の軍事裁判を優先したり、検察庁が起訴するまで身柄の引き渡しが認められず十分な捜査が出来ないなど、日本にとっては身分不平等な状況が発生しているとされる。

 もちろんこれは沖縄だけでなく、日本全体で存在する状況だが、沖縄で事件が多いため特に沖縄関連の問題として取り上げられている。

 この状況に対して、地元沖縄や各識者などからは日米地位協定の見直しをアメリカ側に求めるように政府へ働き掛けているようだが、政府が実際に動いているのか動いていないのか分からないくらいに状況は全く進展しないで今に至っている。

それは何故か?

恐らく冒頭のニュースの認識がアメリカ中に蔓延しているからにほかならないだろう。

つまり日本の司法手続きは「悪名高い裁判手続き」なのであって、法の正義や人権に対してきちんと保護が配慮された司法が整っていないと認識されているからである。
アメリカの司法がどの程度人権を守っているかなどの具体的な詳細は分からないが、少なくともアメリカ人からは日本のそれはアメリカより遥かに酷いと認識されているのである。

故に、日本で裁判など受けようものなら、罪が確定してもいないのに罪を自白するまで拘置所に長期間拘束され、下手をすると冤罪で牢屋に入れられる可能性があると、受け止められている可能性が高いのである。(実際そうであるが、、)

つまり、日本の法の正義のための手続きが、アメリカ人側に全く信用されていない状況となっている。
よって、そんな日本の司法土壌のまま、日米地位協定についてアメリカ人に改訂を求めても、相手は首を縦には振らないのは当然のこととも思える。

では何故日本の司法手続きは悪名高いままなのか?

これは個人的な見解になってしまうが、日本の司法が酷い理由は、司法が司法として権力から完全に独立しておらず、権力者の手先として機能している面が少なからずあるからであろうに思われる。

これまでの長い歴史を振り返っても、国を訴えて起こした裁判は圧倒的に国に有利な判決が出ており、日本の司法は国政者の統治ツールとして機能している面がある。
 その流れにおいて、完全な独立性を持つような司法制度への変化は結局権力者側からは望まれず、今をもって「悪名高き」司法制度は手付かずのままが続いているということになる。

こう考えると、日本の司法制度がもっと全うなものにならない限り、日米地位協定は改善されず、沖縄の人の心休まる日々は戻ってこないということになる。

つまり日米地位協定が改善されない壁の正体は、実はアメリカ側にあるのではなく、日本の司法制度こそが壁なのであり、日本政府の仕組みなのではないかという気がするのである。

グアムが独立投票を実施するらしい

 日本のラジオでグアムが11月にも独立投票をするらしいとのニュースを耳にした。

 どうやらグアムはアメリカの領土でありながら、大統領選挙に参加できないような国政参加権の無い地域であり、アメリカ国民としての市民権を得られない植民地的待遇に不満を持っているらしいとのこと。

 急いでグアムについてウィキペディアで政治状況を調べたが、グアムは自治を行うための議会や知事は置かれているが、完全な自治権を持たない状況で、国会では非自治地域に指定されているという。
 また連邦議会の下院に議員を一人送れるものの投票権を持たないものとなっており、グアムの土地自体もアメリカ軍が収容権をもっているようだ。
 つまり言うなれば、グアム島民はアメリカの国民としての権利を与えられてないばかりか、土地を軍に自由に使われている状況となっている。
 この21世紀において迫害のようなことこそないものの、アメリカの領土でありながら参政権が認められていないというのはこれは結構驚くべき状況と言ってもいい気がする。

 そういえば、先日FIFAサッカーW杯のアジア予選にグアムが単独で参加しているのを見つけ驚いたことが記憶に残っているが、今回こういう状況を知るとアメリカチーム参加ではなく単独チームであることに妙に納得した。
 歴史を振り返っても、もともと住みついていたチャモロ人に対してスペインが植民地化し、その後アメリカに移譲された後、一時日本の占領下になったが戦後再びアメリカ領となるなど、大国の都合で振り回されてきてどこかに帰属意識が高い場所ではないようである。
 そんなグアムが参政権も得られていないアメリカから独立の是非を問う選挙を実施するのは、それほど不思議ではなく寧ろ必然の流れという気もする。

 これまで、日本の沖縄の基地問題においてグアムに移してしまえば良いという意見を持っていたが、万が一グアムが独立してしまえばそんな計画も白紙になり、日本の安全保障上に大きな影響を与える独立となる。

 そうすれば、普天間基地移転や辺野古の埋め立て問題なども、今まで予想しなかった全く違った展開になる可能性もあり得るのである。

 しかしながら、まあ現実的にはグアムはたった18万人の島民しかおらず、独立したとしてもアメリカに軍事や外交の面で頼らざるを得ないのは明々白々で、経済の上でもアメリカ軍に大きく依存しているので、国家として独立してもそうそうアメリカと距離をおけるものではないというのは島民も知るところであろう。
 それ故に、例え独立したとしてもパラオのように自由連盟に参加し、外交内政は自国で行い国連加盟権を持ち、軍事はアメリカに依存するような形になるとされ、現状とそれほど大きく変化する状況にはならないと予想される。

 とはいえ、グアムが国家として独立するとなれば、やはり日本からの海兵隊の基地移転などの事項については影響がないと言えず、さらに沖縄独立論なども再燃する可能性もあり注意して推移を見守るべきこの投票となっている。

1964東京オリンピックから生まれた「花~すべての人の心に花を~」

 先日、2020の東京オリンピックのエンブレムについて、招致ロゴが良いというブログを書き、SMAPの「世界に一つだけの花」が似合うようなことを書いたが、もっと以前に同じような感覚でオリンピックの存在を捉えている人の存在を知った。

 それは沖縄の歌手喜納昌吉さんであり、彼のバンド「喜納昌吉&チャンプルーズ」で発表した大ヒット曲「花~すべての人の心に花を~」は、実は1964年の東京オリンピックの影響を受けていたというのである。

 ウィキペディアによると、喜納さんは1964年の東京オリンピックの閉会式の中継で、選手たちが各国入り乱れ肩を組むなど、国境や人種といった人類の垣根を越えた「平和の祭典」の姿が映しだされた時に、涙がこみ上げる感動を覚え、その時聞いた実況のアナウンサーの、「泣いています・・・笑っています」という言葉が非常に印象に残り、後にかの歌に反映されたということらしい。

 つまり歌に歌われるあの花は、世界各国から集まった選手たちの平和を象徴する意味が投影されており、私がSMAPの歌に感ずる前のはるか以前に、彼はやはりオリンピックは平和の花・人が集まったような状況であると感じていたということになる。

 もちろん沖縄返還前の話であり、本土復帰を望んでいただろう喜納さんたち沖縄の人たちにとっては取り分け印象的なシーンだったに違いない。 

そして今回の2020年の東京オリンピック招致に際して、使われた招致ロゴが花を題材にしたものだったことを考えると、かの招致ロゴが何の関連性も脈絡もない単なる偶然でしかなかったとしても、1964年のオリンピックからの必然の流れが実はそこにあるのではないかと感じてしまう。

 実際この「花~すべての人の心に花を~」は世界60か国以上で非常に多くのアーティストにカバーされていることを見れば世界の心を捉えた歌になっていることがわかる。

 つまり喜納昌吉さんが1964年の東京オリンピックの時に感じた国境を超えたという感銘がそのまま歌の歌詞に載せられ世界に伝わっているのではないかという印象である。

 そしてSMAPの「世界に一つだけの花」もまた花をテーマにした曲でもまた花がテーマとなっている。
 まあ今の時点ではこの曲はオリンピックと直接結びついているわけではないが、先日某音楽番組が先日発表した「世界に誇るニッポンの歌」では、「世界に一つだけの花」が1位に選ばれており、多くの国民が国際的に普遍性の高い歌と印象を持っており、オリンピックのテーマと親しい面があるのは確かなようである。

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 こうやって考えていくと、2020年に東京で行われるオリンピックは、件の花ロゴのエンブレムへの使用の可否は別としても、平和の祭典であることを含めて『花』というのは大事なテーマなのではないかという気がしてくる
 そういえば、滝廉太郎作曲の隅田川の美しい風景を描いた曲も題名は『花』であり、江戸・東京にとって『花』は枕詞のように切っても切り離せないテーマなのかもしれない。

 喜納昌吉さんの「花~すべての人の心に花を~」は現在では沖縄の民謡のようにしか扱われていないが、実は東京にとっても大事な曲であったわけであり、2020年の2回めの東京オリンピックを控えた現在、改めてその歌の意味を皆で考えてみても良いのではないかと言う気がするのである。

中華系に狙われた富士山静岡空港

 昨日、関西空港と成田空港へ上海からの乗り入れが多いというブログを書いたが、今日の中国の環球網のニュースでもやはり関空での外国人利用客が増えていることが報道されており、2014年は初めて外国人利用客が日本人利用客を上まわったと伝えられている。

 その傾向は今年になってさらに強まり、春節や花見のシーズンに大量の中国人観光客が日本に押し寄せたのは周知の通りで、関空では今後の夏の学生の旅行シーズンに向けて24時間バスの運行を計画するなど、対策を準備しているという。

 ところで、こういった中国からの訪日観光客が増える中で、特異なほど中国からの航空機乗り入れが増えている空港がある。

 それは静岡県の富士山静岡空港である。

 この富士山静岡空港は、調べたところ国内線に関しては週42便、つまり1日当たり6便の運行しかないが、国際線は台北に週4便、ソウルに週3便のほか、中国大陸からは上海や天津など週21便(うち2便は定期チャーター便)もの運航があり1日あたり平均4便もの国際線が発着する空港となっている。

 もちろん成田や関空などの大空港に比べれば週28便という国際線の乗入れ数は多いとは言えないが、全体に占める中国系航空会社の比率は実に30%であり、乗入れ便数は那覇の週20便を上回る事態となっている。

 特に最近寧波(浙江省)、南寧(広西チワン族自治区)、塩城(江蘇省)など、地方の都市からの乗り入れが増えており、明らかにビジネス客というより中国からの団体旅行客向けの運航であり、富士山の風景や静岡の味覚、さらには関東への新幹線移動を含んだ観光をターゲットとした路線である。
 (新幹線乗車も中国人の観光の楽しみの一つとなっているらしい)

 こういった中国からの乗り入れが増える背景には恐らく、空港名につけられた「富士山」という象徴的な観光ポイントの魅力が吸引力を発揮しているともに、国内線の便数が少ないために発着枠に余裕があり、乗入れが容易だという理由があるものと思われる。

 この点に関して首都圏に位置する茨城空港も同様の立地条件はあるのだと考えられるが、残念ながら茨城空港は自衛隊百里基地との共用空港であり、防衛上の観点から共産圏からの航空機乗入れには制限があって、台湾や東南アジアはともかく中国の航空会社は容易には増やせない状況となっている。
 春秋航空がデイリーにならず水曜日の運航がないのもこの基地の存在が理由であり、ここが単独空港である富士山静岡空港との大きな差となっている。

 それゆえに富士山静岡空港は中国人の訪日観光客のターゲットとして今後もますます中国系航空会社から狙われる可能性が高く、便数が増加して中国人でごった返す空港となることが予想されるのである。

 開港当時の富士山静岡空港は富士山の見えない空港と揶揄されたが、どうやらここにきてそのネーミングが功を奏してきたのかも知れず、今になって思えば先見の明があったと言えるのかもしれない状況となっている。

中国東方航空の機体

中国東方航空の機体