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あの元大臣は私の地元選挙区選出

先日辞任されたあの某大臣は実は私の地元選挙区選出である。
選挙区どころか、実はもう少し縁があるのだが、私自身の出自に繋がるのでこの話は控えさせていただく。(苦笑)

さて、かの元大臣は色んな失言など、マイナス面で知名度が全国区(世界規模?)となってしまい、選出選挙区の有権者としては、日本全国に対しては面目ない思いでいっぱいではある。

柏そごう

ただ私自身の名誉のために言えば、あの議員に票を投じたことは一度もなく、彼を国会に送り込む手助けはしたことはないのである。
とは言え、彼のあの人となりを知って、票を投じなかったということでもない。
(もちろん、知っていれば当然投じなかったと思うが)

かつてその対抗馬だった方に、多少の縁があってそちらを応援していたので、私は彼に票を投じなかったのである。

しかしながら正直に言えば、その応援していた方もやはり人となりをそれほど知って応援していたわけでもなく、言うなれば双方とも人となりをほとんど知らない2人の中から選んで投票をしていたのが現実であった。

政見放送くらいは見た気がするが、路上の選挙演説でさえ両方とも一度も出くわしたことがない気がする。
そんな実態で、選挙で票を投じていたのである。

 ただこれは私だけのことではなく、元大臣の彼は大臣に任命されるまでに毎度の選挙で何回も当選を繰り返し、毎回何万票も票を投じられてきたはずだが、果たして彼に投じた人の何割が彼の人となりを知って彼に票を投じたのであろうかという疑問が湧く。

 おそらく大半の方が彼の個人キャラクターなど殆ど知らない状態で、党首の政策に賛成か反対で投票行動を決めてきたような気がする。
 もし現実に彼の人となりを知っていたら投じない人も増えただろうし、逆に人当たりは良い人だというから、知っていたら投じた人も増えていたかも知れない。
しかし、いずれにしても本人の人となりを知らないで票を投じた有権者が大半だったという気がする。

これがもっと地方に行けば、その代議士と地元の関係性はより濃くなるので、国会議員がどういうキャラクターなのかということは語らずとも知れ渡っている可能性はあり、それによって投票行動を決める可能性は十二分にある。

しかし彼のような東京郊外のベッドタウンエリアの選挙区では地元の横の繋がり自体が希薄で、代議士のキャラクターが伝わってくるような機会は非常に少ないのが現実であり、人となりを知って投票行動をするのはとても難しい。

まあ建前の理想を言えば、提出されたマニュフェストの政策・主張を基準として投票行動を決定するべきなのだが、いずれの党・候補者とも玉虫色の理想を語るので、投票行動を決めるほど決定打にならず、結局投票行動の基準は所属政党の色となる。

今後、彼が次の選挙で当選するのかどうか(立候補するのかどうか?)はわからないが、彼を選出してきた選挙区の責任として、有権者として候補者との距離感を含め、見極め方をもう少し工夫して考えていくべきだなと思った先日の彼の大臣辞任の一件である。

ショーケンさんの「ラストダンスは私に」

 少し時間が経ってしまったが、萩原健一さんことショーケンさんが先月亡くなった。

 彼本来の活躍の時期には私はまだ幼かったので、全盛期の状況を知っているわけではなく、その後のCMやドラマに出ていた姿を何度か見かけたが、私の印象のなかでそれほど重要な存在持っていた芸能人ではない。
 ただ、大人になってから参加していた芝居の中で、彼の歌をラストシーンの中で使ったことがあり、その点によって強烈に印象に残っている。
 その使った曲というのが「ラストダンスは私に」という曲。

 この曲はそもそもアメリカの黒人グループ「ザ・ドリフターズ」(日本のコミックバンドのザ・ドリフターズの由来となったグループ)が歌っていたもの、世界中でカバーされており、日本だと越路吹雪さんのレコードが有名で、木の実ナナさんや今井美樹さんも録音があるようだ。
 そういった中で、ショーケンさんもシングル発売しこの曲を歌っていた。

 どうしてこの曲を使ったのかと言えば、当時の演出家の方がショーケンさんのファンであり、その芝居の内容が社会からドロップアウトした状態の社会を描いており、その締めくくりとして、ドロップアウト的な雰囲気が魅力のショーケンさんの曲を使おうと考えたようだ。

 実際、音響操作していた私から見ても、想像以上に曲がハマったような印象で舞台後のアンケートでも、曲に触れるコメントは無かったものの、好印象の感触だった。

 そんなことを思い出しているうちに、その芝居のラストシーンで掃除婦役として登場していた劇団員の女の子がいて、その子もその後白血病で亡くなってしまったことも思い出した。
 かなり太っちょで、私にとっては妹分のような後輩だった。

 また今思い出してみれば、当時のあのシーンの意味は社会の掃除だったのかなと、今やっと気が付いた気がする。
 街が表面上は綺麗になっていく中で、過去の情景は消し去れていくような意味があったのかもしれない。
 上海に12年も住んでいるとその意味がよくわかるような気がする。

 そんな20年近く前のことを思い出させてくれたショーケンさんの訃報であった。

日米地位協定の壁は日本の司法制度と日本政府

先日のニュースで、米軍が沖縄に派遣される海兵隊向けに1998年に作った指示書において、「日本の裁判手続きは悪名高い」と説明されていたと報道されていた。

昨年から続くゴーン氏を取り巻く司法の手法の例を見るように、日本の司法制度は世界から見ても異例であり、自白偏重主義と言われるように、自白を得るまで何度も別件逮捕拘留延長を繰り返して、徹底的に長期間身柄を拘束するような取り調べを行うことが知られている。

 冒頭の「悪名高き」は恐らくこういった日本の取り調べ手法を指して評価したものと思われる。

昨年の籠池夫妻の拘束も10カ月に及んでかなりひどい扱いだと感ぜられ、本人らが言うように、対立する官邸サイドからの口封じの国策捜査とに見えるほど異様な拘束期間であり、個人的にもこういった日本の司法手続きはやはり異様と感じる。

一方、沖縄では在日米軍軍人の犯した罪について、日米地位協定の存在によって日本の司法によって裁きにくくなっているという状況が存在する。
米軍は沖縄への派遣そのものを勤務中であるとして、それを理由に日本の裁判ではなく米国の軍事裁判を優先したり、検察庁が起訴するまで身柄の引き渡しが認められず十分な捜査が出来ないなど、日本にとっては身分不平等な状況が発生しているとされる。

 もちろんこれは沖縄だけでなく、日本全体で存在する状況だが、沖縄で事件が多いため特に沖縄関連の問題として取り上げられている。

 この状況に対して、地元沖縄や各識者などからは日米地位協定の見直しをアメリカ側に求めるように政府へ働き掛けているようだが、政府が実際に動いているのか動いていないのか分からないくらいに状況は全く進展しないで今に至っている。

それは何故か?

恐らく冒頭のニュースの認識がアメリカ中に蔓延しているからにほかならないだろう。

つまり日本の司法手続きは「悪名高い裁判手続き」なのであって、法の正義や人権に対してきちんと保護が配慮された司法が整っていないと認識されているからである。
アメリカの司法がどの程度人権を守っているかなどの具体的な詳細は分からないが、少なくともアメリカ人からは日本のそれはアメリカより遥かに酷いと認識されているのである。

故に、日本で裁判など受けようものなら、罪が確定してもいないのに罪を自白するまで拘置所に長期間拘束され、下手をすると冤罪で牢屋に入れられる可能性があると、受け止められている可能性が高いのである。(実際そうであるが、、)

つまり、日本の法の正義のための手続きが、アメリカ人側に全く信用されていない状況となっている。
よって、そんな日本の司法土壌のまま、日米地位協定についてアメリカ人に改訂を求めても、相手は首を縦には振らないのは当然のこととも思える。

では何故日本の司法手続きは悪名高いままなのか?

これは個人的な見解になってしまうが、日本の司法が酷い理由は、司法が司法として権力から完全に独立しておらず、権力者の手先として機能している面が少なからずあるからであろうに思われる。

これまでの長い歴史を振り返っても、国を訴えて起こした裁判は圧倒的に国に有利な判決が出ており、日本の司法は国政者の統治ツールとして機能している面がある。
 その流れにおいて、完全な独立性を持つような司法制度への変化は結局権力者側からは望まれず、今をもって「悪名高き」司法制度は手付かずのままが続いているということになる。

こう考えると、日本の司法制度がもっと全うなものにならない限り、日米地位協定は改善されず、沖縄の人の心休まる日々は戻ってこないということになる。

つまり日米地位協定が改善されない壁の正体は、実はアメリカ側にあるのではなく、日本の司法制度こそが壁なのであり、日本政府の仕組みなのではないかという気がするのである。