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終戦記念日に思う戦没者追悼式と天皇陛下と靖国参拝問題

 昨日の終戦記念日に日本で「全国戦没者追悼式」が行われた。
 終戦記念日を「終戦」と呼ぶかどうかについて2年前に「終戦記念日と言う言葉への批判」書いたが、この日に改めて追悼式について考えてみる。

 ところで、今回の式典では異例のことが起きたと報道されている。

 天皇陛下が式典からご退席の際に、慰霊の碑をじーっと眺めて1分ほど立ち止まったというのだ。

 気になってYOUTUBEで式典を通してみてみた。
 (考えてみれば、戦没者追悼式を通して見るのは初めてである)

 すると、報道通り天皇陛下は退席の際に1分ほど慰霊碑のほうをジーと眺め、御動きにならなかった。
 まあ司会から特に言葉が無かったので、次に動くきっかけのタイミングを待たれていたのだと推測できなくはないが、美智子皇后陛下が声を掛けるまで動かなったのである。

 天皇陛下があの時に何を思ったかなどは私には知る由もないが、何となく陛下は今回の追悼式の対象に、日本人戦没者しか含まれていないことに気づかれたような気がするのである。

 まあ日本政府が主催する追悼式なので、追悼の対象が戦争で亡くなられた日本の軍人や日本の民間人であることは当たり前ではあるのだが、そこに陛下の心にひっかかった部分があったのではないかという気がするのである。

 どういうことかと言えば、天皇陛下は美智子皇后を伴ってここ数年慰霊の旅を実施しており、当初は広島、長崎、沖縄など国内が中心だったが、その後、パラオやサイパン、フィリピンにまで足を伸ばして慰霊の祈りを捧げる行動を続けている。

 もちろん、その現地はかつて日本軍が多くの戦死者を出した場所ではあるが、同時に敵方であったアメリカ軍もそれなりの戦死者を出している場所でもあった。

 それぞれの地で天皇陛下は、敵味方関係なく戦争で命を落とした軍人や現地住民たちへ慰霊の祈りを捧げており、戦争の犠牲者に敵も味方もないことを直接肌で感じ取ったのではないかという気がするのである。

 この流れから言えば、政治状況さえ許せば中国へも訪問したい意識はあるのかもしれない気がする。(まあ現在の政治状況では流石に難しいのだろうとは思うが。)

 実はそういった天皇陛下の分け隔てない気持ちは、今回の追悼式で述べられたお言葉にも現れており、今回戦没者を自国民に限定せずお話になられていることが伺える。

具体的に書きだせば

「(前略)先の大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。(後略)」

 と述べられており、自国民に限られない犠牲者に追悼の意を表しているのである。

 もちろん、日本政府の主催する式なので、日本人だけが対象ととらえられなくもないが、直前に安倍総理が式辞で「三百万余」と日本人限定を示唆する言葉を敢えて言ったことと比較すれば、天皇陛下の追悼の意を表したい相手とは、戦争で亡くなった人全てなのではないかと思えるのである。

 それがあの追悼式での立ち止まりであり「全国戦没者追悼之霊の碑」の「全国」という言葉に考えらえるところがあったのではないかと勝手に推測している。

 ところでこの終戦記念日で必ず話題になるのが、時の政権の首脳が靖国神社へ参拝するかしないかの問題であり、隣国からの非難も含めてなかなか難しい政治問題化している。
 まあこの靖国参拝問題は、本来は外国に気を使う必要のない内政のことと言い切れそうな気もするが、靖国神社自体が戦前の国家体制の象徴であるから、そう簡単な問題でもない。

 今の靖国神社をどうとらえるかは、終戦記念日を境とした前後の日本をどうとらえるかにかかっているような気がする。

即ち、靖国神社を含めた戦前の国家体制を、終戦を機に全て否定したから今の日本があると考えている人と、終戦とは戦争に負けたり憲法が変わったりしただけで明治からの日本が基本的に続いていると思っている人では、自ずと靖国への思いは違うだろうと思う。

 この違いにより、同じ戦災で亡くなった人に対しても、国のために命を捧げたと感じるのか、犠牲になったと感じるのかが違うのだろう。

ただ毎年行われている戦没者追悼式はそういった、靖国という政治的なイデオロギーを排除したところで政府が主催して行われている。
諸外国もこれに関しては口出しをしていないことから分かるように、純粋に追悼の場として認められており、靖国参拝とは明らかに意味が違うものとしてとらえられている。
 
 やはり靖国は戦前の象徴であり、私は現在の日本は戦前を否定したからこそ、平和と繁栄を得られていると考えており、靖国はもう政治家が政治の世界に持ち出すものではないと考えている。 

 故に今回閣僚全員が参拝をしなかったのは、賢明な判断だととらえている。


海外生活者にとって二重国籍問題は他人事ではない

数年前から騒がれていた蓮舫氏の二重国籍問題だが、実際海外の最前線にいる身としては政治的影響云々以前に、かなり身近な問題であり他人事ではない。

 私自身は未婚であるため現時点では子供の国籍で悩むということに直面してはいないが、外国に住む身としては、将来国際結婚をする確率は日本国内にいるときより遙かに高く、子供が出来ればやはりその問題に直面するのである。
 
しかも上海など中華圏にいる限りにおいては、蓮舫氏の両親と同じように台湾人や中国人などが配偶者となる可能性は非常に高く、やはり日本と中国・台湾間の国籍関連の法律手続きは気になるところである。
実際、私の周囲には日本人夫婦として中国に来た場合を除き、独身状態で来た場合は国際結婚に至っている場合が非常に多く、当然の如くその子供について皆さん国籍の選択や手続きについて悩んでいる。

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まあ国籍選択そのものについては正式な統計を見たわけじゃないが、伝わっている話を総合すると大半は早期に日本国籍を選択している。

これは日本の国籍を選択した方が、国際的に入国できる国が多いのと、日本人学校の入学条件として。日本国籍かつ親が労働ビザを持っていてその家族の資格であることが条件になっていることが影響していると推測する。

いずれにしても手続きが煩雑であり、皆さんいろいろ苦労されている。

それでも生まれた場所が日本国内であれば日本国籍を選択することに関しては、手続きは比較的簡便だと聞く。

ただ問題なのは中国で生まれてしまった場合である。

中国では二重国籍を認めていなので、外国人同士の夫婦間で生まれた場合を除いて、取り敢えず中国に出生届を出さなくてはならず、自動的に中国の国籍を持つ子として登録されてしまう。

そして合わせて日本の大使館・領事館に出生届を出せば、両方に国籍がある状態が成立してしまうのである。

この二重国籍状態は二十二歳になるまで許されており、二十二歳になるまで国籍選択届を出すとされている。
で、これが蓮舫氏に実際発生した状況とも共通するのだが、日本で日本国籍選択届を出したとしても、自動的にもう一方の国の国籍離脱とはならないのである。

つまりもう一方の中国や台湾の国籍の離脱手続きをしなければ、その国においては籍が残ってしまうことになる。
ただ、そのような籍が残っている状態でも、日本国籍を選択したならば日本国内で生活を続ける限りにおいては基本的には何ら支障がない。
 蓮舫氏の例にみられるように、選挙に立候補して公職に就くことも出来る。

 問題があるとすれば、籍を取り消していないもう一方の国へ入国するための居留ビザなどを取る場合である。
 この件、台湾の状況は詳しくないが、中国の場合は、日本人学校への入学などの目的で外国人として居留証を取ろうとすると、中国籍の離脱を求められてしまうのである。

 ただこういったビザを必要としなければ、両方の国のパスポートを持ち続ける場合もあるようである。
つまり、それぞれの国へ戻る時にそれぞれの国のパスポートを使って入国するようなケースであり、その便利さ故に意図的に国籍を離脱しないという人もいないとは言えないようである。

しかしながら大抵の場合は、国籍国へ生活の拠点を固定するので、取り消さなければならならない国家に戻って鉄続きをすることは非常に面倒ということもあって、怠る場合が多いと推測される。

 今回の蓮舫氏の件においても、この取消手続きが終わっていると本人は思い込んでいたが、結局は手続きが行われていなかったところに問題があったとされる。
まぁ彼女は国会議員や野党党首という目立つ立場に立ったため、より強く批判にさらされるわけになったのだが、実際の法手続きの現状や面倒臭さを考えると彼女の手続きミスを責めるのは少々気の毒に思える。

ところで、この件に関して、蓮舫氏はスパイだのなんだのと必要以上に酷い言われようをしている。

個人的に蓮舫氏を政治的な意味で肩を持つということではないが、スパイ呼ばわりまでされている状態は、国際結婚夫婦やその子供に対する酷い偏見と差別に他ならない気がする。

もちろん、実際に彼女が他国のスパイでないという証明は非常に難しいことではあるが、本物のスパイなら、一般的に考えて二重国籍(相手国の国籍取消忘れ)など分かり易いミスを残さないであろうに思う。

 もし他国がスパイとして送り込むなら、彼女のように手続きに問題が残る人物より、完全に帰化した人物や二重国籍を解消したよう人物の方が疑われる点が少なく使いやすいように思うのである。

更に言えば最初から日本国籍である人物を利用した方が遙かに怪しまれにくく、恐らくそういう人物を利用するのであり、手続き漏れをしているような人物はスパイとしては使えないだろうに思う。

いずれにしてもあのような彼女への差別的な言葉は、海外で暮らしたり国際結婚をした者にとっては他人事では無いのであり、我々の帰国後や自分が国際結婚をした際の子供が日本社会でどう扱われるかの切実な問題なのである。

統計によれば日本人と外国人との国際結婚は、現在は以前より減ったもののここ20年を均せば3~6%程度が国際結婚であった。
つまりその夫婦が日本人夫婦と同じだけ子供を生んだと仮定すると、学校のクラスに必ず1人や2人がハーフの子がいる状態が日本の現状であり、レアケースでは無くなってきているのである。

しかしながら国家間の関係の問題もあって、手続き上の煩雑さは相変わらずであり、社会の理解も一向に進まないどころか、蓮舫氏への批判に見られるようにその存在への反発の方が強くなっている印象さえあるのである。

 こういった現状や、手続き上の複雑さ、さらには差別的な言葉を見るにつけ、本来は一人の人間として何の価値も変わらないはずなのに、何故に後からつけられた国籍などという記号に悩まされなければならないのか、非常に疑問を感じるのである。
 

空き家問題に見る日本の住宅政策転換の必要性

日本の戦後の勤労者の一つの目標として自分の持ち家を持つというものがあった。

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そして、その勤労意欲が日本経済の戦後成長を支えたとも言えるのだが、その持ち家促進という政策が最近別の問題を引き起こしている。

いわゆる「空き家問題」である。

日本の戦後の住宅政策により、労働者は次々と独立し、各自の家を持って行ったのだが、残念ながらその多くが核家族住宅であった、
こういった核家族住宅というのは親子生活にはちょうどいい規模となるが、残念ながら家族や家の継続性という意味では結構不合理な規模なのである。

新たに家を建てられる方というのは将来へどういう構想を持って家を建てることを決心したのか分からないが、恐らく本人たち夫婦が亡くなるまでの間住めれば良いと考えているのが一般的ではないのだろうか?

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或いは孫の代やそれ以降の子孫まで続いたらいいなぁという、理想を描く人もいるかもしれない。
しかし残念ながらその理想には住宅の規模や耐久性が合っていない場合がほとんどであろうに思う。

一般的な住宅の規模を示す規模として2LDKとか3LDKなどという基準が良く飛び交うが、これらの核家族住宅は子供が生まれて成長するまでの20年ほどに関しては、身の丈のあった規模の住宅である。

しかし子供世代が結婚した場合、新しい家族つまり結婚相手を招き入れられる規模を持った住宅というのはそれほど多くないだろう。
逆に子供世代たちが出て行ってしまうと、夫婦世代では持て余す規模となってしまうかもしれない。

そしてその夫婦世代が高齢になり亡くなれば、家としての使命を終えることになり、主を失った家屋というのは売却されるなり処分されるなんなりとなるのが一般的だろうか。

もちろん、子供世代が戻ってきて代わりに住み続けるという選択肢もあるが、その場合は代わりにその子供世代が住んでいた家が放棄されるわけで、どちらを選択するかだけの話でありあまり大きな違いはない。
いずれにしても、現代の核家族住宅というのはその多くが三世代以上がスムーズに継承される規模を持っているわけではない。

まあこういった核家族住宅というのは、兄弟が多い多産化時代には意味があり、兄弟が多ければ親から家を受け継げる人は限られ、子供たちのほとんどは独立する必要があったので、まずは独立するための空間の確保が求められたのである。

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 それ故に社会人になったら独立して家を建てるという一つの理想観念が社会に形成された。

 しかし一方でその理想形には祖父母世代と同居するという発想が元から無いため、核家族世帯が暮らせる規模の住宅しか求められなかったのである。

こういった核家族的独立の理想形は、住宅購入ローンの税金優遇など行政の社会政策も手伝って、核家族世帯だけが住めれば十分な規模の住宅が量産されることになった。

そして時代はやがて戦後の高度経済成長の多産化時代から少子化へ移ってくることになるのだが、出生率が2.0人を切る時代になっても世の中の住宅の理想形は変わらず、戦後の経済成長期の住宅政策は続いた。

つまり子供の数が二人兄弟や一人っ子という人数になり必ずしも独立を必要としなくなったにも関わらず、相変わらず日本の住宅では核家族世帯での独立を前提にした住宅政策が続けられ核家族規模の住宅供給が続けられているのである。

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その結果、核家族世帯の子どもたちも、やはり家の規模や社会的風潮といった事情から独立へと家から押し出されることになり、やはり元の家には親世代のみが残されることになる。
 そしてその親世代が高齢期を迎えて亡くなり始め、彼らの住んでいた家だけが残される状況を迎えたのが今の空き家問題となっている。

何故空き家が増え続けるのか?

答えは簡単である。
社会が核家族しか住めない家を供給し続けているからである。

それ故に子供の有る無しに関わらず家の世代継承ができず、子供がいてもやはり新たな住宅を得て独立し外に出てしまうので、その夫婦世代の命が尽きた途端に主を失い空き家化するのである。

つまり、現代の空き家問題を解決するには、根本としては新たな住宅供給を止めたり減らしたりしなくてはならないということになる。
或いは今後新規の住宅については、核家族住宅ではなく継承可能な2世代3世代の多世代型住宅を基本とすることが必要になる。

つまり数十年後にいずれ空き家になってしまう建物ではなく、継続的に引き継げる家を建てるのである。
こうすることによって、夫婦に子供が有る限りにおいては、その家が空き家化してしまうリスクをかなり下げることができる。

 しかしながら、このような多世代住宅を準備して物理的には問題をクリア出来たとしても、実際の空き家化防止には、人間の心理的な壁がもう一つそこに立ちはだかることになる。

どういうことかと言えば、多世代住宅に親世代と子供世代が一緒に住むということは、その子供たち夫婦のうち、嫁いだり婿入りする側にとっては相手の「家」に入る印象を与えられるからである。

流石に昔のような厳密なしきたりなどで、婿や嫁を親世代が厳しく管理することは現代ではないかもしれないが、婿や嫁にとっては相手の親の目がそばにあるだけでプレッシャーが有るに違いない。

特に核家族の環境で成長した子供たちにとっては配偶者の親とは言え、目上の人の目がある場所での生活はそれほど居心地の良いものではないだろう。
つまり結婚が独立ではなく家に入る印象となるのが多世代型住宅における結婚になってしまう。

また社会的通念においても独立を理想形とする現代の意識環境においては、独立をしないという選択が甘えと見られる風潮も無いわけではなく、それが心理的障壁となる面もあるだろう。

従ってこういった「家に入る印象」という心理的な壁を乗り越えてはじめて継承可能な多世代住宅というものが成立するのであり、現代の家族観念と相まって社会形態の移行はそう簡単ではないと思われる。

さらに容易な転勤命令を企業に許している日本の経済風土も、多世代型住宅への移行を難しくする要因であり、こちらも核家族型住宅を増やす要因になっている。

しかしこういった社会形態を見直して新たな形への移行がない限り、今後も日本国内に空き家はどんどんと増え続けるだろう。

 空き家は他人の家だから関係ないという人もいるかもしれないが、空き家の増加は街の防犯上好ましくない上に、見えない形で社会コスト(税金とれず、安全管理費が増える)として自治体などの財政を圧迫し、間接的な税金の値上げなどにつながるので他人事ではない。

ではなぜ住宅の供給量や規模が見直されないのだろうか?

それは日本において住宅を沢山供給し続けることが、社会の経済的活況の原動力の一つとなっているとされ、住宅の着工が増えることが社会経済にとって良いとされてしまっているからということになる。

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つまり経済維持が重要な施策である日本政府にとって、住宅着工数の維持は一つの生命線であり、出来る限り減らしたくないのである。

しかし、そうは言っても一方でその供給過多が空き家問題の原点であることが明白になっている以上は社会コストを増やしてその経済効果を帳消しにしてしまっている面も有るので、経済を理由に現在の住宅政策を続けるのは矛盾が生じていると言わざるを得ない。

 故に近年800万戸とも1000万戸とも言われる空き家問題を生み出す現代の住宅政策はすぐにでも見直しが必要なのであり、核家族型の新規着工を減らし、多世代型住宅の推進や中古住宅活用へ誘導することに政策を改めるべきであろうに思う。

さらに国の政策だけでなく個人の意識としても住宅に対する考え方を見直す必要がある。

 ここ数十年言われてきた独立して家を建てるという人生目標は、確かに立派な目標ではあるのだが、社会環境が変わってきた現在においては、社会にマイナスの結果を与える可能性が出てきているのであり、その価値観も修正すべき状況になってきているのである。