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中国人に受動態と能動態を使い分けさせるのは難しい。

中国人の作る日本語の文章を見ていて、よく見つけるのが受動文(受け身)と能動文の使い分けのミス。

 ミスと言っては可哀そうだが、一つの文の中に2つの動作主体が混在し、本来は受動文で書き分けるほうがよいところを、そのまま能動文として書いてある。

 するとどうなるかというと、一つの文の中に主述関係が複数存在することになり、文の途中で動作主体が入れ替わってしまい非常に意味が捉えづらくなってしまうのである。

 まあそれとて、動作主体をきちっと書き分けてあれば意味はそれなりに通じるものの、やはり分かりにくい文章となる。

 本来、文章はある固定された視点からの動きだけで表わしていったほうが分かりやすい。
その観点からすれば、途中から動作主体が入れ替わる文章というのは、読み手を迷わせてしまう可能性があるのである。

 故に、丁寧な日本語の文章を書く人であれば、その書き手の視点というのは滅多に動かない。

 時折、小説などの文章の中では別の登場人物が現れ、文章の動作主体が変わることもあるが。直接話法や間接話法を使い分けることにより、受動態や能動態を正しく書き分けられれば、素直に読むことが出来る。

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 日本人であれば、この書き分け読み分けはそれほど難しくないが、外国人たち、、例えば私の身の回りの中国系の人たちは苦労している。

 そもそも中国語では、日本語以上に受動態(受動文)を使う頻度が少ない。

 「我給他(私は彼にあげた)」の逆は日本語だと「私は彼にもらった」と表現するのが普通だが、中国語だと能動態で「他給我(彼は私にあげた)」と表現してしまうため、受動態はほとんど使われない。

 「我被罵了(私はののしられた)」など受動態を使うケースもなくはないが、大半は能動態を使用して、主語の動作主体を入れ替えるのが普通である。
 従って、彼らに受動態の使い分けを身に着けさせるのはとっても苦労する。

 ただ、これは逆に日本人が中国語を話す際に逆の問題が生じるわけであり、受動態で言い慣れている表現を、中国語の能動態で言い換えるのは違和感があり、苦労している部分でもある。
 


日中辞書に載っていない言葉の訳語の探し方

 中国生活も長くなってきているので、他人との意思疎通については、今ではどうにかこうにか知っている単語の範囲で意思伝達を済ませられるようになってきており、現在ではたまにしか日中辞書を引かなくなった。

 とはいえ、中国語で文章を作る必要があるような場合は、時々インターネットの中日辞書の世話になるし、辞書だけでなく念のためネットで確かめたりする。

 また中文読解も、おおよその意味は理解できても固有名詞などは知らなければそれだけで意味がわからない場合がほとんどなので、ネットの中日辞書で調べることになる。

 しかし、比較的語彙数の豊富なネットの日中・中日辞書でも調べきれない単語も世の中にはたくさんある。

 例えば、コンサートでの演奏予定の曲名とか、映画のタイトル、あるいは植物の名前などは辞書にはまず載っていない。

 例えば先日中国語で「時光倒流70年」と表記されている映画の曲があったのだが、これは邦題では「ある日どこかで」(ヤノットシュワルツ監督)と表記されている米国の映画だった。

 また「假如愛有天意」と表記されていた映画は、「ラブストーリー」(クァク・ジェヨン監督)という韓国映画だった。

 これらは、よほど有名じゃない限り中日辞書に訳語が直接載っていることはありえない。
 しかし、どうしても知りたい、調べたいというようなケースも出てくる。

 このような場合はどうするか?

 まず曲名などは、作曲者と作品番号が出ていれば、それをもとにYAHOOやGoogleなどで検索すればおおよそ答えが出てくる。
 またその作曲者のウィキペディアなどを探せば、答えにたどり着く。

 しかし、映画の題名など作品番号などが示されず、発音から中国語の当て字が使われていたり意訳が行われている場合は非常に厄介であり、邦題の特定をするのに難儀する。

 ではどうするか?

 こういった直接の辞書が役に立たない場合は、英語経由の訳語探しを試すことになる。

 どうするのかと言うと、中国語の単語そのままを例えば百度(バイドゥ)などの中国語の検索エンジンで検索をかけ、百度百科などの項目を探す。

 すると、その文章の中にかなり高い確率で英語表記などが示されている。

 植物や動物の名前なども同様で、英語の学名などが記されている確率が高い。

 このように英語の名称が判ればしめたもので、あとはその英語表記を日本語のYAHOOなどで検索をかけると、かなりの確率で日本語表記にたどり着ける。
ちなみに上記の「ある日どこかで」は英題が「Somewhere in Time」であり、「ラブストーリー」の英題はなんと「Classic」であり韓国語原題も「クラシック」の発音であった。

つまり普通の辞書でたどり着けない言葉も、英語を介すことによって答えがでやすくなるのである。

 なお、気をつけなければいけないのは、百度百科やウィキペディアなど、ネット上の情報は必ずしも100%正確とは言えないということ。
まあ映画の題名などはそれほど間違うことはないが、植物などは同じ仲間であっても地域などにより別の固有種を指す場合があるので、正確性を必要とされる場合は慎重に確認を行なう必要がある。

このように日々言葉の壁には苦しみもあるが、発見の楽しみもあり、コンサートのプログラム一つに驚きがある日常となっている。

阿久悠さん没後10年に振り返る日本語の歌詞のリズム

 先日、日本のラジオで阿久悠さんの没後10年を機に、彼の業績を振り返る特別番組が放送されていた。

 阿久悠さんと言えば、物凄く幅広い作詞家であり、私のような歌謡曲に比較的疎い者でも知っている曲ばかり作詞している。

 というか、私がカラオケで歌えるレパートリーはほとんど阿久悠さんの作詞と言っても過言でもないほど占有率は高い。
 とくに1970年代から80年代にかけて耳に残っている歌はほとんど阿久悠さんだという気がする。

 6000曲も書いていらっしゃるらしいので、例を挙げるのはキリがないのは分かっているが、それでも敢えて書き出すと、

石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」、沢田研二さんの「勝手にしやがれ」、ピンクレディの「UFO」や「ペッパー警部」ほかほとんどの歌、都はるみさんの「北の宿から」、西田敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」、八代亜紀さんの「雨の慕情」、フィンガー5の「学園天国」、和田アキ子さんの「あの鐘を鳴らすのはあなた」、ザタイガースの「色付きの女でいてくれよ」森昌子さんの「せんせい」、森田公一とトップギャランの「青春時代」、河島英伍さんの「時代おくれ」、小林旭さんの「熱き心に」などなどである。

 さらに子供向けの曲でも「宇宙戦艦ヤマト」「ウルトラマンタロウ」「ウルトラマンレオ」「デビルマン」、スポーツでも「地平を駈ける獅子を見た(西武ライオンズ球団歌)」なども詩を書いている。
とても一人の作詞家が作ったとは思えないほど幅が広い。

 世界中に作詞家は大勢いると思うが、一つの国でこんなに多くのヒット曲を飛ばしている例は他にないのではないだろうか?

 阿久悠さんの詩の歌は何でこんなにヒットするのか?

 色んな理由があると思うが、私が分析するところでは、一つ重要なポイントとして阿久悠さんの詩はリズムが良いというのが挙げられる気がしている。

 彼のヒット曲の歌詞を分析すると、ほとんどの歌詞が三五七九の音で区切ることができることがわかる。

 日本には、ご存知の通り古くから俳句や和歌などで七五調などの奇数音のリズムに慣れ親しんでいる文化があり、日本人にはこの七五調のリズムが口ずさみやすいのである。

 例えば「津軽海峡冬景色」は「つがるかいきょう(七音)+ふゆげしき(五音)」で七五調なのである。
 また「きたのやどから」も七音であり、出だしの歌詞も「あなた変わりは、ないですが」も七五調になっている。

 このように、意図的なのか持って生まれたセンスから発生する自然の作詞力なのか分からないが、阿久悠さんの歌詞は七五調のリズムを常に内包しており、故に歌いやすい言葉遣いの歌詞となっている。

 もちろんこの七五調で全ての歌詞が100%構成されているわけではなく、部分的に三音区切りだったり、九音まで伸びている場合があるが、ほとんどが奇数音区切りに落とし込まれている。

 このような七五調にリズムが整えられた歌詞というのは、やはり日本語文化圏にはなじみやすく、それ故にヒットにつながりやすかったのではないかという気がするのである。

 このあたり近年のヒット曲、例えばAKBの歌の歌詞などは完全に七五調から解放されているというか自由になっており、最近の歌詞は四分音符の音に支配されているのか四音や八音が多くなっている。

 これらの曲は、彼女たちのファンには申し訳ないが、音楽のリズムやメロディは良くても 残念ながら歌詞が私の心に入って来にくいものとなっている。

 歌詞の内容自体のジェネレーションギャップももちろんあると思うが、やはり歌詞のリズムに重要な差異があるという気がする。

 阿久悠さんのような七五調の歌詞には一句ごとに言葉の余韻が生まれるが、四音の歌詞にはそれがなく、余韻を生む行間の間が消されてしまっているとでも言おうか、言葉が残らなくなっている気がするのである。

 まあ、現代にヒットしている曲がそういった四音の音を使った歌詞のリズムというならば、時代が余韻を求めていないということになるのだろうか。

 もちろん今の若者の心の音楽が未来にどうなっているかは未来になるのを待つほかないのだが、余韻のない今のヒット曲が何十年か経って今のファン層が歳を経たときに心の中に残っているとはちょっと私には想像しずらいのである。

 阿久悠さんの歌詞が今もなお多くの人が口ずさむというのは単に同時代性ということだけで説明しきれない理由がやはりあるように思えてならないのである。