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カーリングが4年に一回しか盛り上がれない理由

平昌オリンピックが終わり、日本選手団が先週帰国し、メダリストたちがマスコミにちやほやされている状況がネットを通じてこちらにも伝わっている。

 特にカーリングの女子チームは「そだねー」の流行語とともに注目を浴びている印象だ。
 まあ今回メダルを取ったというのもあるが、日本国民が彼女らに好感を抱く決定的な理由が他の種目に比べ存在すると分析している。

カーリング女子のインタビュー風景

 それは競技時間の長さである。

 冬季オリンピックの他の競技を見ればわかると思うが、ほとんどの競技は一競技で一人の人間が映る時間はせいぜい数分であり、しかも屋外競技の場合はゴーグルと帽子でほとんど競技中は顔が映らない

 これに対して、カーリングは一つの試合の試合時間が、2~3時間と長くその間に何度も何度も素顔がアップになる。
 この素顔が沢山映るという意味ではフィギュアスケート人気にも共通する面がある。

 しかもチームメンバーは、原則たった4人のため、否が応でも顔や表情を覚えてしまう。

 さらに、今回「もぐもぐタイム」とネーミングされた栄養補給の休憩時の素直な表情や、ピンマイクから拾われる彼女たちの音声が彼女たちの素の姿を映し出し、人柄を知ることになる。
 このように人となりを知れば、自然と好感を持つ可能性が高まり人気が出るのである。

 つまりこの競技時間の長さが、カーリングが他の競技と圧倒的に違って好感を持たれる理由であると思う。

 但し、実は逆にこの競技時間の長さがカーリング人気を持続させられない理由でもある。

 オリンピックでこそ、各テレビ局とも非常に注目が高いため一試合3時間もかかる試合を、何試合も中継してくれるが、オリンピック以外の国際大会レベルだと、さすがにあそこまでの中継体制は取れないため、映像を見ることは出来ない。

 テレビ放映枠というのは無限にあるわけではないので、現在人気の高いMLBの野球でさえテレビ中継を意識して時間短縮の為に申告制敬遠などというルールが導入される時代なのである。
 そのような時代に、カーリングのような動きの地味なスポーツが放送枠を確保してもらえることはありえないのである。

 まあコストのかからないインターネット中継などであれば放映は実現可能かもしれないが、それとて年間を通じて何十試合も中継するのは難しいだろうに思う。

 つまり結局視聴者から彼女らを見る機会を維持することは難しく、カーリング選手が視界から遠ざかれば、日常は忘れてしまう可能性が高くなるのである。
 よってカーリングの試合観戦は、ほとんどの人が次にスポットの当たる次のオリンピック中継まで待たなくてはならす、故に持続的な人気の確保は難しいと思われる。

 今回、彼女たちのオリンピック銅メダルという結果を受けて、盛り上がったカーリング人気を何とか持続させてやりたい気持ちはあるが、前途はなかなか厳しいという気がしている。


カーリングに再び夢中

 特に大きな予定もないまま春節を迎えてしまったが、オリンピック中継の存在に救われている。
 もちろん、昨日のフィギュアスケート男子シングルの羽生結弦選手の金メダルは、中国CCTVのインターネット放送ではあるが、しっかり見届け、感激を覚えた。
 余韻としては今現在も残っており、VPNを繋げば、gorin.jpで競技の様子もフルバージョンで見ることも出来、実際に何度も見た。
 ただ、競技としては一種目であり、長い春節休みをカバーするには短すぎる。

CCTVでの羽生選手の表彰式

 そこで、この休み期間中の私のテンションを保たせてくれているのがカーリングであり、特に女子チームの試合はかなり見ている。
 日本チームも当然見ているが、中国、イギリスのチームは前回や前々回のメンバーがのこっているし、韓国チームも地元ということで注目していたので、試合を見るようになりすっかりメンバーも覚えた。
 もちろん、各チーム美人選手が多いというのもその理由にある。(笑)

イギリスチームのスキップ ミューアヘッド選手

 カーリングの何が面白いかというと、月並みな表現だが一投ごとに局面の変わる戦況と、駆け引きや心理戦が非常に面白い。
 氷上のチェスト評されるほど、スポーツでありながら半分は頭脳戦なのである。

 もちろん、時間制限もあるので将棋のような長考はないが、ポイントとなる場面ではチームメンバーが集まって、色々な可能性について意見を出し合い作戦を決めていく。

 オリンピック代表選手なので、基本的にはみな精度の高いショットを出すが、コート表面の氷の状況など、狂いが生じる可能性がある。
そういったリスクをどこまで織り込んで、次のターゲットを決めていく。

こういった勝負を全10エンド制で行い、攻守を交代しながら点数を取り合ってこなしていく。

ただ、以前「1点をとってはいけないカーリング」で書いた通り、そのエンドで1点をとることが必ずしもプラスにならないため、それを考慮して目の前にある点を取るべきかなどの作戦を立てていくという難しい要素もある。

これが、この競技奥深さであり、面白さとなっている。

 従って、例えばスピードスケートや、スキーの滑降などのように、せいぜい数分で結果の出てしまう競技とは一線を画し、一試合2時間以上かかる場合もざらである。

観る側もじっくりと腰を落ち着けてみる必要があって、それを楽しんでいる。
 ただ、こうやって競技特性を考えてみると、以前のブログでは
カーリングは中国人にも人気が出そうな気がする。

というような記事も書いてしまったが、じっくり考えることのあまり得意ではない中国人たちにはあまり馴染まないような気がしてきた。
 やはり次回の北京五輪が少し心配である。

一人っ子時代の暴行問題の解決方法

ここしばらく日本で騒がれている日本の大相撲の横綱日馬富士の暴行問題だが、それに関連するネット上のコメントなどを見ていて気になったのは、「暴力は法に基づいで裁かれるべき」だという論調。

その理屈自体は正論であり、否定するものでもないのだが、そういう批判をする人たちが「古い考え方」として否定する和解的な解決法というものが何故最近否定されるようになってきたのか気になったのである。

もちろん、一方的な暴力は許されるべきではないが、例えば個人対個人の喧嘩のような状況だったりする場合、お互いのケガの程度によっては、双方が和解すれば済んでしまうものも有るはずであるが、今の状況だと究極的には双方に暴行罪や傷害罪が適用されてしまう状況にある。

どうも今回の貴乃花親方の態度の如く、法やルールに照らし合わせ白黒はっきりつけないと気が済まない風潮が支配的に感じられるのである。
例えて言うなら自動車の事故の如く6:4とか過失割合を厳密に決めないと気が済まない様な雰囲気なのである。

しかし、必ずしも法やルールに依拠しなくても解決する方法も社会としてあっても良いはずというのが私の考えでもある。
まあ、その風潮の是非はともかく、現在どうしてこのような風潮になっているのかを考えてみた。

で、私なりに考えた現代の「社会の法依存・ルール依存」の要因は、社会の一人っ子時代の進行と核家族社会の進行が原因ではないかということ。

以前「中国から「おじさん」がいなくなる日」というブログでも少し触れたが、一人っ子時代の進行、つまり兄弟関係が無くなることにより、家族一つ一つの存在が社会から孤立した存在になりつつあるというのが今の社会である。

どういうことかと言えば、兄弟姉妹が多ければ多いほど、一組の夫婦やその子供にとって、親戚やおじさん・おばさんの関係が生まれるのだが、一人っ子社会ではそれが存在しないのである。

前回のブログにも書いたが「この「おじさん・おばさん」というのはある意味身内でもあり、一方で完全に家族の人間であるわけでもなく、言わば家族と世間の中間にある存在」である。

つまり、「一つの家族が社会から完全に孤立しないように繋いでくれる、社会と家庭内の風通しを行なう窓の様な存在である」はずなのである。

しかし、現実的には一人っ子が増え、おじさんおばさんが少くなっており、「家族の外はいきなり公衆・公共の場となり、そこは単なる法律的・社会的ルールにのっとった社会平等的な関係しか存在しない」社会となり、身内の情などでの問題処理が行われにくくなる社会となっているのである。

また、田舎の地縁を離れて都会で核家族化した状態で暮らす人々が増えたことも状況に輪をかけている。

隣は何をする人ぞ」の言葉にあるように、都会の暮らしでは転勤や転居の頻度が高く、十分な地縁を結ぶ時間が与えられず、やはり法律的・社会的ルールにのっとった方法でしか結びつかない社会が形成されてしまう。

そういった社会の中の家族環境で育つ人間は、結果的に血縁や地縁の情などで問題を解決したりする経験がなく、ただ社会ルールによってのみトラブルを解決方法する手段しか経験せず成長することになる。

つまり、かつて当たり前で存在していた「内々で」とか「穏便に」というのは、実は兄弟姉妹が多かった時代の一族社会、或いは地縁が豊かな地域社会の解決方法だったものであり、仲間意識によって法律や公共ルールに依拠しない形での内側のルールによる問題解決方法なのである。

しかしそれらは、そういった仲間意識や一族意識を所有しない一人っ子時代社会に育ってきた人にとっては、法律やルールが適用されない「古い社会」に映るのであり、内々に処理されることを隠ぺい体質として批判するのである。

確かに内々に穏便に処理することは「隠ぺい」とも言えるが、決して泣き寝入りさせることではなく、共通の一族意識を持った人々がいるからこそ一族を守るために働く力学でもありそれを「古い社会」として100%否定すべきものかは難しいところがあると考える。

 例えば「古い社会」では、一族や集団の為に個人が時々損をする面もあるが、全体を裏切らない限り多少の問題を起こしても内包され、個人は切り捨てられずに救われる部分がある。

一方でこれに対する「法律や公共ルールに依拠する」ことによって成り立つ「新しい社会」(具体的にこう呼ばれているわけではないが「古い社会」の対立概念として呼ぶとして)では、ルールに違反すると切り捨てられ再起をするチャンスが与えられなかったり、各自が社会との繋がりの意識や共通意識を持てず孤立化し、ルール社会の中に埋没しやすい状況が生まれる状況となる。

こういった二つの社会概念の意識の相違が、現実に進行している今回の「日馬富士暴行問題」における協会体質への批判だったり、貴乃花親方の行動や主張なのではないか、そのように感じるのである。

古い社会と新しい社会、どちらがいいとは一概には言えないが、相撲協会を「古い社会」と批判しルールや法律を振りかざそうとする意識の人々が増えていることは、社会の少子化による個人の孤立化が大きな影を落としているような気がするのである。

寅さんの名言より
「理屈を言うんじゃないよ、大事な時に!」