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上海リニアモーターカーが営業休止となる日も遠くない?

 先日「地下鉄2号線が正式に上海浦東国際空港と市内を直通運行に」の中でも少し触れたが、2号線が市内と直通運転となったことで、上海リニアモーターカーの存在意義が揺らぎ始めている。

 上海リニアモーターカーは2002年に開業し、既に今年で開業17年目を迎える。

上海リニアモーターカー

 開業当初は、上海浦東国際空港へ繋がる軌道交通機関が他になかったため、地上交通としての重要性を発揮しつつ、上海の発展の先進性の象徴として存在感を放っていた。
 その後、2010年の上海万博に向けて、上海―杭州間にリニア線を建設する計画が持ち上がるなど、中国全体での未来へ向けての押せ押せムードの中で、リニアモーターカーへの期待度は高まっていく。

 しかし、建設費や運営費などのコストが高い上に、電磁波などの影響を懸念する沿線住民などからの反対の声も多く、上海万博には杭州延伸などが間に合わなかったこともあって、万博時期を経て押せ押せムードはしぼみ、新規建設計画などのニュースは聞かれなくなる。

 同時に、2010年に地下鉄2号線が上海浦東国際空港へ直接乗り入れたことにより、リニアの唯一の固定交通機関という立場も崩れてしまう。

 一応2号線側がリニアに配慮したのか、広蘭路という駅で市内側の8両編成から4両編成への乗り換えが必要という障壁は残ったのだが、空港への足としての経済性という意味では圧倒的に不利になった。

 具体的には、上海リニアは7~8分で済むところを、地下鉄2号線は45分ほどかかってしまうが、運賃はリニアが50元(航空券持参などで40元)なのに対して地下鉄はたった6元で済むのである。
 また経済的に余裕のある場合なら、タクシーを使えば200元程度で、一人で乗車すると割高かもしれないが、複数人で乗ればリニアとの差はほとんど感じなくなる。
 リニア駅から目的地までの移動を考えれば、複数人ならタクシーが圧倒的に有利である。
 また 空港と市内間の所要時間も高速道路の整備でさほどかからなくなった。

 そして、上海側の地元民は上海浦東国際空港へマイカーで直接乗り入れて利用される方もとても多くなった。
 上海浦東国際空港では懸命に駐車場の増設を試みているが、なかなか整備が追い付かない勢いで増えている。
 結局このように、地下鉄、マイカーなどへの乗客シフトにより、上海リニアモータカーは空港への足としての地位は低下しており、観光アトラクション化している印象は否めない。

 実際、龍陽路駅での上海リニアモーターカーの利用状況を見ていても、観光客と思しき方以外はほとんど利用している様子がないのである。

 そして昨年発表され、来年にも開通すると言われている(恐らく無理なのできっと数年後)、上海浦東国際空港と上海虹橋国際空港を結ぶ空港連絡線が実現すれば、上海リニアモーターカーの利用客はさらに減るだろう。

 加えて、日本では2014年に東海リニア新幹線が着工され、2027年にも東京―名古屋間(286キロ)が開業する予定となっているため、リニアモーターカーという種別の交通機関の先進性も地位を譲る時が近づいている。
 東海リニア新幹線が開通すれば、どうしても上海リニアモータカーが比較に引き出されるはずであり、プライドの高い中国にとっては面白くない状況ということになる。

 日本に対抗して、新たな延伸計画とかの策を打てれば良いのだが、現状ではそういった機運にはなっておらず、専ら従来型の新幹線の軌道距離を伸ばすことに精力を注いでいる。
 高速鉄道の世界一の営業距離というのが現在の中国の鉄道のプライドになっており、リニア方式は眼中から外れているだろう。
 さすれば、上記の空港連絡線の開通のタイミングで、役割終了を理由に早めに運行を止めて、東海リニア新幹線との比較を避ける状況に動くのではないか?そんな気がする。

 上海の空港連絡線が開通するであろう2022年の冬季北京オリンピックの頃に何らかの節目がやってきそうであり、上海リニアモーターカーが営業休止となる日もそう遠くないと私は感じている。

平成はインターネットの時代だった。

天皇陛下の交代を一か月後に控え、新元号が「令和」に決まったと発表された。

この新元号に関してはあまり好印象を持って受け止めていないのだが、海外生活を続ける限りにおいてはほとんど目にすることもないので、取りえず気にせず受け流すことにした。

さて、新元号登場の代わりに終わり行く平成の元号だが、自分の中で時代を総括すると平成というのはインターネットの時代だったなと受け止めている。

上海の電子マネーの広告

我々一般人の間にインターネットが大きく浸透したのは1995年(平成7年)にOSウィンドウズ95が登場した時だが、実はアメリカで商用インターネットが始まったのが1988年(昭和63年)で、平成が始まる前年のことである。

つまり単に日本という一国家の元号であるにもかかわらず、平成という時代はインターネットの黎明期からその発展とともにシンクロして存在していたことになる。

現代は既に、インターネット無しでは我々の生活は成り立たないほどインターネットは社会生活の一部として浸透し、大半の人がスマートフォンパソコンを持ち、インターネットで通信やエンターテイメントを楽しんでいる。

これが平成に入る前には全くなかったのだから今思えば隔世の感がある。

同様に昭和(1926~1989)は電波メディアの時代であった。

アメリカで昭和の始まる前の1920年にラジオの商業放送が始まり、昭和元年を迎える前年の1925年に日本のラジオ放送が始まっていたことから、昭和の時代は電波メディアとともに時代が進んだという印象である。

テレビやラジオを通じて、世界中の情報を知ることが出来る世の中になっていったのであり、一つのニュースがメディアを通じてあっという間に世界中に伝わる世の中になった。

さらに遡って大正(1912~1926)は、まあ短かったのでそれほど固定的な総括は難しいが、敢えて言えば映画などのエンタメ・大衆文化の時代で、チャップリンが頭角をあらわしたり、音楽でも刺激的なストラヴィンスキー作曲の「春の祭典」の初演や、イタリア・レスピーギ作曲のローマ三部作が作曲されたのもこの時期であり、日本国内でも宝塚歌劇団がスタートしたりしたと華やかな大衆文化がスタートした時代であった。

そして明治(1868~1912)とは言えば、電気の時代であり、1870年の発電機の発明や、1875年の電話の発明など、電気・電話の普及によって、革命的に我々の生活の仕組みや文化が変わっていった時代だった。

こうやって振り返ると、これらはぞれぞれの時代を象徴する動きであるとともに一本で繋がる流れでもある。
すなわち、電気の普及により照明が生まれ、電話が生まれ、電話の普及により遠隔の1対1の通信が始まった。

また電気の活用により、広い会場や夜間のエンタメ活動も可能になり、映画や舞台など娯楽文化が広がった大正時代。

そして電波メディアの普及により、1対1からより1対多数への文化伝達が可能になったのが昭和時代である。

 そして国際イベントは世界同時中継が行われるようになり、オリンピックやワールドカップが、世界で同時に見られるような時代になった。

 ちなみに音楽ネタでいえば、ラヴェル作曲のボレロが初演されたのが、1928年で昭和の始まりであり、ソロから次第にオケ全体に音が広がる音楽形式はまさに昭和を象徴するような形式であり、それを全く日本と関係ないラヴェルがこのタイミングで作曲したというのは偶然とも思えない部分もある。

そして、平成になりメディア放送や各個人がインターネットと結びつくことによって、1対多数から多数対多数の情報伝達となり、それぞれ情報の発信元と受け手の物理的場所までが自由になった時代となった。

 このように各元号は、いずれもそれぞれの時代で劇的に庶民の生活に変化を与え、前の時代にはなかった価値観を生んできたのであり、日本の元号と言えどもどうも世界の動きと連動してきたような世相を見せている。

さて、平成がそういった時代だと定義して、新しい「令和」はどういった時代になるのだろうか?

少なくともこれまでの流れから言えば、新しい時代の変化の兆しはもう既に芽が出ている可能性があることになる。
パッと思いつくのは自動運転車とか電子マネーとかだが、その程度の出現だと実現しても世界が圧倒的に変わるようなものでもない気がする。

このほか例えば現在実験が進んでいる店舗無人化などは、働き方改革などとともに、ベーシックインカムのような制度と組み合わさって、働くとか生きることの意味が変わってくるかもしれない。

また所有という概念がさらに薄れたり、ビットコインなどにより通貨やそれを定義する国境という意味がなくなるかもしれない。

さらに、もはやスマホではなくICチップを体内に埋め込むことによって自動的な健康管理が行われ通院の必要がなくなったり、思っただけで意思疎通、通信などが出来るような研究も行われておりそれが実現するかもしれない。

このように、変化の可能性は無限大にあるが、果たしてどうなるのだろうか?

もちろん私の頭で思いつくようなことであれば、社会が劇的に変化するなどとは呼べないかもしれないが、今後数十年で何かが劇的変化するのであろうであるわけで、楽しみのようやら怖いやらである。

嘉納治五郎先生と私

 日本の大河ドラマの「いだてん」の視聴率が不調であるようなことがニュースになっていた。

 そもそも大河ドラマ自体を見る習慣のない私にとっては、視聴率の話には興味がないのだが、そんな私から見てもかのドラマはどうも取り上げる人物が違うかなという気がする。
 もちろんNHKの意図としては来年開催される予定のオリンピックに向けての盛り上げ企画として金栗四三氏をとりあげたのだろうが、どうもインパクトが弱い。
 それゆえに、視聴率低迷は仕方ないだろうに思う。

 個人的には、同じような意図でオリンピックを盛り上げるのであれば、「日本体育の父」と呼ばれた嘉納治五郎先生を取り上げるべきではなかったという気がする。

 金栗氏を慕う方には申し訳ないが、私の印象では、嘉納先生の方が金栗氏より知名度が高く、先駆者性やカリスマ性でもはるかに高い人物の印象である。

 終戦を待たずに亡くなってしまった方ではあるが、東京オリンピックへ繋がる大河ドラマの主人公としては相応しい風格と軌跡があるよう気がするのである。
 とはいうものの、私自身嘉納治五郎先生の人生をそれほど知っているわけではない。

 そこで、ウィキペディアなどで調べて見たのだが、調べていくうちに実は私自身が嘉納治五郎先生に多少なりのがある人生を送っていることに最近気が付いた。

 もちろん、私の父親が生まれる前に亡くなったような時代の方なので直接の接点があるわけではない、

 その縁の一つは、私自身が高校まで柔道をやっていたことに基礎がある。
私が小学生の頃に通っていた町道場には嘉納治五郎先生の写真が飾られており、毎日稽古で道場を訪れるたびに、嘉納先生の姿を目にしておりとても偉い先生なのであることは感じていた。

 天井に木製の梁がむき出しになったお寺の書院のような道場であり、もちろん冷暖房などは全くなく、真冬は冷たい水で雑巾を絞って裸足で氷のような道場の畳掃除をやったことを覚えている。

 今思えばお寺の小僧さんたちのような修行である。
 その道場の大先輩には、なんと元関取の麒麟児さん(後の北陣親方)もいたことを当時教わっていた師匠から聞いた。

 そしてその道場を所有していた大先生が亡くなったのが1982年頃で、亡くなったときの詳しい年齢は存じ上げないが、仮に当時70だったとすると1912年生まれとなり、1938年に亡くなった嘉納先生とは十分接点があり得る年代だったことになる。
 道場の大先生と嘉納先生がどれだけ直接的な接点があったかは調べようもないのだが、道場に写真を掲げるくらい崇めていたのだろうから、講道館などで直接教えを受けた可能性は十分にある。

 そうすると私自身が嘉納先生の孫弟子である可能性もあるのである。
 もっとも、嘉納先生自体が柔道の祖であることから言えば、柔道に関わった者はほとんどが嘉納先生の「孫弟子」なり「ひ孫弟子」になってしまうので私だけが特別な縁なわけではない。

 ただ、もう一つの縁として嘉納先生は私が高校時代から住んでいた我孫子に別荘を構えていたことを最近知った。
 我孫子は明治の白樺派の文人たち手賀沼近くに別荘を構えていたことは知っていたが、私自身が志賀直哉や武者小路実篤の作品に興味がなかったため、彼らの別荘が実際にどこにあるかも興味がなく、調べもしなかった。

 しかし、最近嘉納先生の別荘が我孫子にあったことを知り、その位置をネット上の情報などで調べていくと、かの文人たちの別荘も含めて「ああ、あんなところにあったのか」と思うほど結構身近な場所に存在していたことを知ったのである。

 こういうことを知ると、俄然と縁を感じ、嘉納先生の足跡を知りたくなる。

 そしてさらにもう一つ、嘉納先生がかつて校長を務めた東京師範学校の流れを汲む某大学に入学しかかったのだが、諸事情から入学を断念し、嘉納先生の教えの流れには加わらなかったということも私の人生の中にはあった。

 そして嘉納先生は「弘文学院」という留学生のための施設も作ったようで、そこで中国人留学生をも受け入れており、実はかの魯迅もそこで直接嘉納先生から学んだこともあったようだ。
 魯迅は最終的には今私のいる上海を終の棲家とし、上海で亡くなっている
 ここにも遠縁ながら、現在上海にいる自分との縁を感じる。

 まあ私にとっての嘉納先生とはそういうなんやかんやの間接的な縁を感じる存在であり、あの悠然と構える写真の姿を目にするたびに、子供の時の道場でのことを思い出すのである。