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甲子園はおまけみたいなもの

 数か月前に見始めたアニメ「タッチのネット配信だが、結局なんだかんだで最終話(の1話前)まで見続けてしまった。
 大まかなストーリーは昔見たのでもちろん知っていたが、ここの詳細まで全部覚えていたわけではないので、結構楽しめた。

 で、そのクライマックスのシーンの直後に対戦チームの監督が言ったセリフが「甲子園はおまけみたいなもの」というセリフ。

 多少ネタバレになるが、これは誰しもが敬遠を考えるだろうシーンで敢えて勝負にいった経過に対して言ったセリフである。
 勝負を避けて、モヤモヤとしたものを抱えて勝ち上がるより、真っ向勝負でぶつかったことに対する清々しさの感動というか称賛の気持ちがそこにはあった。

 そこはマンガだからという人もいるかもしれないが、実は同様のシーンは実際のスポーツの真剣勝負の場でも存在している。

画像はイメージ

 4年前のラグビーのW杯日本代表対南アフリカ代表との闘いである。
 あの試合の最後のシーンで2点ビハインドだった日本代表は、残り5分でキックで同点を狙うことも出来たが、失敗のリスクを恐れずに逆転のトライを狙う選択に出た。 
 そしてその勝負への気迫で相手を圧倒し見事逆転勝利を挙げるのだが、あの勝負に対する姿勢は現地でも称賛され、4年たった今でも日本のラグビー界で語り草になっている。

 明後日に日本で始まるW杯への期待も4年前のあのシーンの感動に対する余韻が今でも残っている面が大きいという気がする。

 逆にモヤモヤ感を残してしまったのが昨年のサッカーのW杯のポーランド戦の最後の15分間の戦いである。
 勝ち上がることを優先して、目の前の真剣勝負を捨ててしまったシーンであった。
 結局、あの後のトーナメントの一回戦のベルギー戦で、逆転負けを喫したらしいのだが、私は既に観戦するモチベーションを失って観戦することを放棄したので見なかった。
 見る価値を感じなかったからである。
 むしろ後から逆転負けの敗戦のニュース聞いてどちらかというとざまーみろの気分であり、あれ以降サッカーの日本代表の試合は見なくなったし、報道で伝わる動向記事もほとんど読まないし気にしなくなった。
 真剣勝負の行われないスポーツなど見る価値がないからである。
 
 こういった流れの中で、今年になって岩手・大船渡高校の佐々木投手が、決勝戦を投げずにチームが敗れたということの是非が、ネット上でも結構話題になっていた。
  まあ細かくはチェックしてはいないが、将来のためとか大人の知恵で登板を回避させたらしいが、本人の本当の気持ちはどうだったのだろうかと心配になる。

 投げることに違和感があるような状態であったならば、もちろん無理をさせてはいけないが、もし投げることに支障がない状態であったなら、真剣勝負を避けるような大人の知恵は、高校生には邪魔だったような気もする。

 まああの時、投げたとて甲子園に行けたかどうかは分からないが、真剣勝負でぶつかった結果であれば誰もがモヤモヤ感を残さずに済んだし。「甲子園はおまけだった」ことに気づいたのではないだろうか。
 今の世の中、大人の知恵で勝ち上がることや将来への道を残すことを優先してしまう傾向にあるが、それを優先しすぎてしまうと実は勝ち上がること自体の価値を失わせ、真剣勝負で得られる価値を失わせてしまうことになるのではないかと危惧するのである。

ようやく気分を持ち直す

 野球やサッカーなど贔屓のチームを持っている方は、どなたでも同様の傾向はあると思うが、私もやはり贔屓の北海道日本ハムファイターズの成績によって気分が左右される。
 いや、正確に言えばファイターズの成績によって気分が左右されるというより、気分が落ち込んでいるような状態の時にチームが勝てないといったほうが正しいかもしれない。

ファイターズスタジアム

ファイターズスタジアム

 前向きに応援できているときは、チームの調子も良いし、どうも気持ちが乗らないときや興味が逸れている時は何故かファイターズの調子も悪い。

 つまりファイターズの試合の結果に左右されていると言うより、バイオリズムが一致してしまっており、私の心の好不調の波がファイターズの状態とシンクロしてしまっているようなのである。

 よって、先々月末にスタートしたチームの急降下に合わせて私の気分というか心理状態は暑さも手伝って非常に重苦しい低空飛行を続けていた。
 ちなみに8月の成績は5勝20敗1分けで、7月末に首位に0.5ゲーム差まで肉薄していた位置から9連敗と8連敗があり一気に最下位まで急降下した。

 この間、自分の気分もかなり低空飛行であった。

 しかしようやく一昨日の金曜からバファローズ相手に3タテを果たし、ようやく下げ止まった印象で、最下位からも脱出した。
 この下げ止まった状況でようやく冷静に立ち位置を確認できるような状況になった。

 まあ数字の上では、ファイターズの自力優勝は無くなってはいたが、優勝自体の可能性はまだ完全には消滅していないようであり、CSまで含めて考えれば、まだまだ諦める段階ではないような状況であることを確かめることが出来るようになった。

 自分自身についても然りで、この週末は少し落ち着いた気分で周囲を見渡せるようになった気がする。 
 決して現時点で浮上出来ている訳ではなく、頭がすっきりした状態ではないのだが、気持ちの落ち込みからは持ち直した状況であり、週明けからはもう少し上を目指せるような気持ちになっている。

 余談だが、今年加入した抑えのエースの秋吉投手は実は私の地元の中央学院大学出身らしく、結構親しみを持って応援しているのだが、上記の連敗期間には彼が打たれて負けてしまったなどは特にこちらの落ち込みも大きかった。

 ひょっとすると、彼が私のバイオリズムがチームと同期してしまった要因なのかもしれないとも感じている。

45歳のイチロー選手

 シアトルマリナーズのイチロー選手が昨日引退を表明した。
残念ながら試合の様子は見ていないのだが、夜中にやっていた記者会見の様子はインターネットで見ることが出来た。

 ただ従来から、彼の出ている試合そのものをそんなに見ていたわけではないので、私の中でのイチローは、数々の記録の偉大さなどを含めて、ニュース上で他人が伝えてくれた評価の中での彼の人物像でしかない。

 昨夜の会見の中での受け答えを見ていて、私が感じたのは彼も45歳という歳を迎えた一人の人間だということ。

 つまり彼が、10代の頃から野球一筋の人生を歩み続け、日本球界やMLBで多くの記録を打ち立てて、ようやく野球の現役を離れた昨日現在の彼の45歳という立ち位置は、それほど特別なものではなく、誰と比較しても平等なんじゃないかなと。

 例えば自分自身と比べ(私は彼より少し年上だが)れば、生きてきた空間や中身は全く違うのかもしれないが、45歳という立ち位置に、45年過ごして今の位置に立っているという意味ではそんなに大きな差がないのではないかという気がしたのである。

 そりゃ、彼と実際比べてしまえば、生涯年収やら社会的栄誉やら何やらが全てに絶大な差があるわけだが、世の中誰一人として全く同じ人生を歩んでいる人はいないわけで、そういう意味では違うのは当たり前なのである。

 しかし違った人生を歩んできた時間でも45歳という年齢に到達し節目を迎えたという意味ではそれほど違いもないのかなとも感じるのである。

引退会見を伝えるニュース


 

 ただ、どうも昨日の記者会見の様子を見ていると、質問する記者たちが何とか彼をやたらと神格化し、記事をドラマチックに仕立て上げようとして、記者のイメージの枠に当てはめた答えを求めようとする質問が多く、それが鼻についた。

 それに対して、そういった質問はイチローさん自身が、淡々と跳ね返すように自然体で回答していたのがとても印象的だった。

 ヒーローとか偉大な人とかそういうことでなく、野球一筋に取り組んで来た人間の時間が昨日まで続き、昨日無事に節目を迎えたという意味で彼の存在の価値があるのであり、記録だのなんだのは、単なる一つの肩書でしかないのかなと思う。

 ただ、あのように周りからレジェンドだのなんだの持ち上げられても、ただ一人の45歳のイチローとして自然体で受け答えの出来る彼はそこが凄いなという印象ではある。

 イチローさん、長い間お疲れさまでした。

北海道日本ハムファイターズの日本一とラジオの野球実況技術の高さ

 一昨日、日本のプロ野球の日本シリーズで見事に北海道日本ハムファイターズが勝利を決めて日本一に輝いた。
 実に10年ぶりの日本一であり感慨ひとしおである。

 この一週間は日本シリーズのおかげで、いろんなことが手につかなくらい日本シリーズに集中していたので、ある意味やっと解放されたともいえる
 
 実はちょうど10年前の優勝の際に、私は上海にやってきており(正確にはまず蘇州に行った)あれ以来の日本一ということになる
 それ故にこの10年という長さはちょうど私が上海で過ごした時間と同じことになる。

 当時はたぶんテレビの実況中継も見てないし、インターネットの速報で優勝を知ったようなことだったと思うが、ファイターズの日本一を知って始まったばかりの上海生活の心を引き締めたような心境だったような気がする。

 で、あれから10年が経ち、相変わらず上海にいる私は未だ日本のテレビとは縁遠い生活を送っている。
 有料の海外テレビ視聴サービスも身近で提供されているのだが、コストが高いのと、日本のテレビを見始めると結局自分が怠惰になるだけなので遠ざけてきており、視聴サービスは一度も契約しないまま10年が過ごしている。

 どうしても見たいサッカーの試合などがあるときは、テレビ設置の日本料理屋などにいけば事足りたのである。

 その後VPNには加入したので、日本のパリーグテレビくらい入ってもいいかなと考えた時期もあったが、仕事や時差の関係上毎試合見られるわけでもないので、コストパフォーマンスを考えやはり見送った。
 で、結局残ったのが日本のラジオのインターネットサービスである「ラジコ」であり、このラジコを通じて日本のラジオの野球中継を聴くことにしたのである。
 
 でラジオの実況中継を聴いていて改めて感じたのは日本のラジオ実況の技術の高さである。
 ラジオなので当然音だけなのだが、会場の雰囲気から選手の動きまで手に取るようにわかるように実況され、選手の表情から天候、守備体形までが詳しく説明される。

 そしてその合間合間に解説者の解説まで織り込んで放送するのだから下手にテレビで見るよりわかりやすいのである。

 むしろテレビの実況のほうが映像に頼り切ってしまい、時には緊張感に欠ける実況が行われることもあり、盛り上がりに欠ける放送が行われる時がある。

 その点、ラジオ実況は一球一球耳が離せず、緊迫するので試合が動いたときの緊迫感や盛り上がりがひしひしと伝わってくる。

 まあ野球という競技自体が比較的定型的な動きの繰り返しなので、比較的説明が容易というのもあるかもしれない。
以前サッカーのラジオ中継を聴いていたこともがあったが、まるで場面が想像できずもどかしさばかりが募ったのを覚えている。
その点、ラジオ実況を聴いている範囲ではもどかしさを感じないほどに、状況が理解できるのである。

 こういったラジオ実況の技術のおかげで、今回の日本ハムのペナントレースやCS、日本シリーズにいたるまでライブはすべてラジオで聴いていた。

 まあ、どうしても映像で見たくなったシーンなどはYAHOOやYOUTUBEに上がってきたもので確認しており不足はない状況になっていて、ライブで映像を見たいという欲求はそれほど高まらずに済んでいる。

 ただまあ、映像で見たい欲求はそれほど高くはないが、スタジアムで一緒に応援したかったという気持ちはちょっと残り、日本一はうれしいがちょっと今後どうするべきかを悩んでいる。

 とにかく北海道日本ハムファイターズ日本一おめでとう。
 

カタカナ代表時代にオリンピックの国旗掲揚はもう不要

 先週からリオオリンピックが始まっているが個人的にはあまり盛り上がっていない。

 まあおおまかな結果程度は、YAHOOのニュースでどんどん報じられるのでそれなりには知っているのだが、どうもそこまで熱くなってはいない。

 寧ろ日本のプロ野球のファイターズの勝敗の方に一喜一憂しているような状態で、オリンピックにはあまり熱くなっていないのだ。

 その一番大きな理由として、テレビ放送を見ていないことが大きい。
 元より日本のテレビを見られるような契約をしていないのだが、中国の放送すら見ていないのである。
 それ故に開会式の中継や映像も全く見てないし、その後の競技もほとんど見てない。

 またブラジルとの時差が(中国と)11時間もあるのも大きい。
 殆どの競技は深夜から朝方にかけて行われるので、とても起きていられないのである。
 それ故に朝起きて、ネットで結果だけをざっと確認するだけのオリンピック観戦となってしまっている。
 
 さて、そんな中で今回のオリンピックでは、日本代表とされる選手たちの質が過去に比べかなり変化していることに気がつく。
 それは何かといえば、選手のボーダレス化である。

 今回の代表選手でやたらカタカナの名前のついた選手、つまり外国人とのハーフ外国人アスリートの活躍が目立つのである。

 昨年のラグビーのワールドカップの時にも既にその兆候は現れており、日本代表と言いながら、リーチマイケル選手とかヘスケス選手とか外国出身の選手やハーフの選手で溢れていたが、今回のオリンピックではさらにその状況が深くなった感がある。

 まずはつい先日柔道90キロ級で金メダルを取ったベイカー茉秋選手で彼はアメリカ人とのハーフである。
 そしてテニスのダニエル太郎選手で彼も国籍は日本だがやはりアメリカ人とのハーフである。

ダニエル太郎選手

ダニエル太郎選手

 さらに現時点で快進撃となっている7人制男子ラグビーもフィジー人2人ニュージーランド人1人が参加している。
 また陸上男子100mのケンブリッジ飛鳥選手と400mのウォルシュジュリアン選手はやはりジャマイカとのハーフであるが日本国籍の日本代表選手である。
 いずれも、日本の学校への留学や両親の血筋の関係で日本代表になったわけであるが、まぁ保守的な古い意識で見てしまえば彼らを日本代表としてしまうことには少々違和感があるだろう。

 しかし、世の中のグローバル化が進むに従って、徐々にかのように人種のボーダレス化が進んでいるのが現実である。

 オリンピック以外でもプロ野球のダルビッシュ有投手のようなハーフアスリートの台頭や、ローラベッキーといった芸能界のハーフタレント活躍がかなり目立って増えてきている。

 こういった時代になってくると、恐らく「オリンピック日本代表」というのは、徐々に日本国籍を有する人の代表ということでしか意味を持たなくなってくることになり、個人の国家への帰属意識とは必ずしも一致しなくなる。

 つまりスポーツ界における国家の存在の有形無実化である。

 先日、今回のオリンピック開催前の日本代表壮行会において、東京オリンピック組織委員会の森喜朗会長が「君が代歌えない選手は日本代表ではない」といった趣旨の発言をしたことが論議を呼んでいたが、こういった代表選手のボーダレス化を見る限りにおいては、どうも時代錯誤ナンセンスな発言のように映った。

 そもそもオリンピックの代表選手に国家の名誉を負わせられるほど、国家は選手を育てているのかという疑問が湧く。

 オリンピックに参加する選手の殆どは、個人でスポンサーを得たり、企業が育てたりしているわけで、国家が費用を出してアスリートを養成しているわけじゃない。
 しかも最終的にオリンピックへ派遣する段階でもその多くはIOCを通じてスポンサーが費用を出しており、国は僅かばかりの補助金を出しているに過ぎない。
 にも関わらず、オリンピック代表選手に日本国家代表の命を追わせるのは少々虫がよすぎると思うのである。

 そして、選手の質と育成状況がこういった時代になってくると、表彰式での国旗掲揚や国歌の演奏も少々白々しい印象にも映ってくる。

 選手がこのようにボーダレス化をし、選手育成が国家の命題ではなくなっているこの時代に、オリンピックにおいて表彰式で国旗と国歌というのはどうも陳腐な印象なのである。

 本来オリンピックとは「個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない。」とオリンピック憲章に定められている。
 つまり国家は選手取りまとめの役割を担っているに過ぎず、この意味から言えばオリンピック本大会で国旗や国歌を表に出して表彰することが果たして適切なのかという疑問が湧くのである。

 日本のアスリートのボーダレス化やロシアの国家ぐるみドーピング疑惑を受け、そろそろオリンピックの表彰式での国旗の掲揚や国歌の演奏を止めてもいいのではないか、そんな感想を持つようになった今回のリオデジャネイロオリンピックである。