Category Archives: 社会のこと

女人禁制は男尊女卑ではない

 先月初め、日本の大相撲の地方巡業の場において、急病人を救助しようとした女性が土俵上に上がり、それを止めた職員がいたことにより女人禁制を謳う大相撲の土俵ルールの是非が話題になった。

 まあ、この事件の是非を問う前に、まず女人禁制の意味からよく考えてみたい。

 女性を土俵に上げない女人禁制のルールは男尊女卑的であるような声もあるが、私はそうは考えていない。

 女人禁制というのは女性そのものに問題があるというより、男性が女性という存在に弱いということに起因するものから発したものと考えられるからである。

 どういうことかと言えば、男性に女性が近づくことによって男性側の風紀というか意識が乱れるという問題である。

 古代より男性にとって女性は、社会的にどういう関係であろうと、常に性的な存在である。
 女性にとっては全く性を意識しないような状況や関係に見えても、男性は常に女性との関係に性を意識している。

 女性が性的な存在であるがために、身辺に存在することによって常に一定程度の神経を奪われてしまう。
 もちろん、全てが性衝動に繋がるわけではないが理性でコントロールされてはいても性は常に意識されている。


 古い女人禁制の代表的なものにトンネル工事の女人禁制というものがある。

 トンネル工事の空間に山の中に女性を入れないというのは、山の神が怒るからだという言われ方をするが、本質的には男性杭夫たちの意識が乱れて、安全意識への配慮に不足が生じてしまうから事故が起きやすくなるからだと推測する。

 もちろん、山の中という閉鎖された空間では、意図せず女性の貞操そのものが直接脅かされる危険性もあり、それ故近づけさせないという理由も当然あるだろう。
 山は古くは修験者の修行の場でもあり、女性が踏み入れると修行の邪魔になり、意識が乱れて危険を伴うという意味もあり、山の神は女性で有るとして女性を排除してきた。

 同様に、相撲の土俵上においても、土俵は山を模したものという意味もあり、土俵の中(山の中)に女性という存在をそこに入れてしまうと、稽古の邪魔になったり、集中力に欠いてケガに繋がる可能性もあるから、女人禁制として女性を遠ざけているのだと思われる。
 つまり相撲のような野性的な闘争心を研ぎ澄ませて上がる場所に、女性の香りがあってはまずいのである。
 例えば、土俵上の俵は、単なる競技場の枠線ではなく、女性を排除するための結界としての俵と見るのが妥当である。

 いずれも禁欲を修行の一つと捉え、女性を男性にとっては煩悩欲を刺激する存在として、意識的に遠ざけるために、修行の場を女人禁制にして、女性を排除してきたのだというのが相撲やそのほかの女人禁制の歴史だと思われる。

 恐らくこのような問題は、先日の甲子園の女子マネージャー問題などにも同様の構造があり、私は「甲子園女子マネ問題に見る安易な時代錯誤論」でもちょっと触れたが、単純な男女平等の社会組織だけでは図り切れない人間の根源的な性衝動を背景にした理由が存在するような気がする。

 さて、このような女人禁制の由来の背景を前提にして、現代の女人禁制をどう扱えばいいのだろうか?

 確かに、男女平等の現代法の観点から言えば、女人禁制などというものは一切排除するのが正論かもしれないが、女人禁制の根拠が「性」という人間の根源に根ざした考え方である以上、表面上の男女平等や男尊女卑を無理やり押し付けるべきではないという気がする。
 
 さりとて、今後も表彰式などで女性市長は登場し続けるし、土俵上の緊急事態に医療関係者の力が必要な場面もまたやってくるのが現代社会である。

 しかし、いろいろ考えてみても個人的な意見としては、大相撲としての土俵上は今後も女人禁制を継続してもいいのかなと考えている。
 その上で土俵上の神聖度というか意味合いをさらに明確化するため、力士や行司以外の関係者も土俵上に上げず、表彰式などは土俵外で行うようにして、一般人も含めて部外者を排除するのが良いと考える。

 同時に常に男性の医療関係者を待機させ、緊急の場合でも女性が土俵上に上る必要が無いような体制を整えるである。

 一方で、女性相撲などは、相撲をスポーツとして行う競技を大相撲興行とは切り離した形で整備し、他の格闘技スポーツ同様に男女別の競技を行い、土俵とは違うような専用競技空間とルールで実施してもいいのではないかという気がする。

 つまり現代の大相撲興行のように、女性が直接力士として参加する社会環境が整わない段階においては、現在の土俵上の女人禁制のルールは継続するのが妥当という気がしており、女性相撲がスポーツ的に興隆してきた段階で改めて考えれば良いのではないかと思っている。

 この考え方は女性の方にはあまり納得頂けないかも知れないが、男性は女性の存在に対して女性が想像する以上に惑わされる生き物であり、時には女人禁制にしてでも、物事に真剣に取り組む時間や空間を確保したいと考えていることを理解していただきたいと思っている。


「健康で文化的な最低限度の生活」というマンガ

 最近、「健康で文化的な最低限度の生活」というマンガを読んでいる。

 いわゆる自治体窓口のケースワーカー、つまり生活保護の窓口担当の女の子の奮闘を描く話となっていて、この主人公を通して社会の底辺の側面が描かれている。

 何故この漫画を読み始めたのかというと、日本国憲法の条文をそのまま引用した刺激的なタイトルに惹かれたというのと、この作者の柏木ハルコさんが実は母校の先輩ということもあり妙な親近感を覚えていたというのもある。

 柏木ハルコさんは学年的には近いので、在学時に学校内で顔を見ていた可能性もあるが、残念ながら面識はないし、ネット検索で出てくる本人らしき写真を見ても記憶には残ってはいない。
 ただ彼女の作品を読んでいると、他の漫画にはない私の母校独特の話法リズムというか、かつての雰囲気がなんとなく漂っているから親しみがわくのである。

 この「健康で文化的な最低限度の生活」以外にも柏木ハルコさんの作品は読んでいるが、彼女の作品は赤裸々な性描写が多く、一歩間違うと単なるエロ漫画家の誹りを受けてしまいかねない作風となっている。

 しかし個人的には柏木ハルコさんの作品は性を通して社会のタブーに切り込んでいるというか、一人の人間が抱えている様々な内面を切り出して、漫画として分かり易く伝えているのだと評価している。

 この「健康で文化的な最低限度の生活」という作品も、生活保護受給者というやはり社会から誹りを受けがちな底辺の人々の生活や人生を、主人公を通して一つ一つ丁寧に掘り出して描かれており、いろいろな学びを与えてくれる。

 自分も生活保護こそ受けたことは無いが、お金には常に苦労している口なので、描かれている人々の不安や苦労はよくわかり、あまり他人事ではない。
 まあ作品自体は漫画なので、恐らくそれなりに演出的バイアスがかかっていると思うが、社会の現実を知る上では良い教材と言える作品だとは思う。

 社会では生活保護の風当たりが強くなっており、受給者を批判をする人々の心理も良くわかるが、切り捨てることでは解決しない問題であり、そこをこの作品は教えてくれるので、是非皆様にも手に取ってもらいたいという気がする。

大晦日に聴く落語

 もう2017年も残すところあと僅かで、今日とうとう大晦日を迎えた。
 上海にいると、年末年始の特別な雰囲気はなく、たまたま昨日今日が土日で明日が元日としての祝日が有るだけで、仕事納めを経て正月を迎えるという気分にはなりにくい。
 中国では春節の旧正月が正月なので、中国で1月1日は普通の祝日程度の扱いにしかならないのである。
 個人的にも家族をもたず、日本のテレビも見ない環境では盛り上がる必然性もなく、ちょっと不完全燃焼気味な年末を迎えてしまった。
 で、なんとなく気分を盛り上げようと、大晦日ネタの落語を探した。
 昔のツケが普通だった時代に、掛け取りが駆けずり回るのが大晦日で、大晦日を題材にした落語は非常に多い。
 例えばその代表格は有名な「芝浜」で、話の最後は大晦日のエピソードである。
 それ以外にも「掛け取り(万歳)」、「睨み返し」「加賀の千代」など借金取りを押し返す話もある。
 また、話の主舞台ではないが「帯久」という話も、大晦日の忙しい日に起きた事件が話の展開のきっかけとなる。
このほか「尻餅」などという艶っぽい話も有り、大晦日の風景は良く落語に描かれる。
こんな落語を聞いて、大晦日気分に浸るのが精一杯のこの年末である。