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平成はインターネットの時代だった。

天皇陛下の交代を一か月後に控え、新元号が「令和」に決まったと発表された。

この新元号に関してはあまり好印象を持って受け止めていないのだが、海外生活を続ける限りにおいてはほとんど目にすることもないので、取りえず気にせず受け流すことにした。

さて、新元号登場の代わりに終わり行く平成の元号だが、自分の中で時代を総括すると平成というのはインターネットの時代だったなと受け止めている。

上海の電子マネーの広告

我々一般人の間にインターネットが大きく浸透したのは1995年(平成7年)にOSウィンドウズ95が登場した時だが、実はアメリカで商用インターネットが始まったのが1988年(昭和63年)で、平成が始まる前年のことである。

つまり単に日本という一国家の元号であるにもかかわらず、平成という時代はインターネットの黎明期からその発展とともにシンクロして存在していたことになる。

現代は既に、インターネット無しでは我々の生活は成り立たないほどインターネットは社会生活の一部として浸透し、大半の人がスマートフォンパソコンを持ち、インターネットで通信やエンターテイメントを楽しんでいる。

これが平成に入る前には全くなかったのだから今思えば隔世の感がある。

同様に昭和(1926~1989)は電波メディアの時代であった。

アメリカで昭和の始まる前の1920年にラジオの商業放送が始まり、昭和元年を迎える前年の1925年に日本のラジオ放送が始まっていたことから、昭和の時代は電波メディアとともに時代が進んだという印象である。

テレビやラジオを通じて、世界中の情報を知ることが出来る世の中になっていったのであり、一つのニュースがメディアを通じてあっという間に世界中に伝わる世の中になった。

さらに遡って大正(1912~1926)は、まあ短かったのでそれほど固定的な総括は難しいが、敢えて言えば映画などのエンタメ・大衆文化の時代で、チャップリンが頭角をあらわしたり、音楽でも刺激的なストラヴィンスキー作曲の「春の祭典」の初演や、イタリア・レスピーギ作曲のローマ三部作が作曲されたのもこの時期であり、日本国内でも宝塚歌劇団がスタートしたりしたと華やかな大衆文化がスタートした時代であった。

そして明治(1868~1912)とは言えば、電気の時代であり、1870年の発電機の発明や、1875年の電話の発明など、電気・電話の普及によって、革命的に我々の生活の仕組みや文化が変わっていった時代だった。

こうやって振り返ると、これらはぞれぞれの時代を象徴する動きであるとともに一本で繋がる流れでもある。
すなわち、電気の普及により照明が生まれ、電話が生まれ、電話の普及により遠隔の1対1の通信が始まった。

また電気の活用により、広い会場や夜間のエンタメ活動も可能になり、映画や舞台など娯楽文化が広がった大正時代。

そして電波メディアの普及により、1対1からより1対多数への文化伝達が可能になったのが昭和時代である。

 そして国際イベントは世界同時中継が行われるようになり、オリンピックやワールドカップが、世界で同時に見られるような時代になった。

 ちなみに音楽ネタでいえば、ラヴェル作曲のボレロが初演されたのが、1928年で昭和の始まりであり、ソロから次第にオケ全体に音が広がる音楽形式はまさに昭和を象徴するような形式であり、それを全く日本と関係ないラヴェルがこのタイミングで作曲したというのは偶然とも思えない部分もある。

そして、平成になりメディア放送や各個人がインターネットと結びつくことによって、1対多数から多数対多数の情報伝達となり、それぞれ情報の発信元と受け手の物理的場所までが自由になった時代となった。

 このように各元号は、いずれもそれぞれの時代で劇的に庶民の生活に変化を与え、前の時代にはなかった価値観を生んできたのであり、日本の元号と言えどもどうも世界の動きと連動してきたような世相を見せている。

さて、平成がそういった時代だと定義して、新しい「令和」はどういった時代になるのだろうか?

少なくともこれまでの流れから言えば、新しい時代の変化の兆しはもう既に芽が出ている可能性があることになる。
パッと思いつくのは自動運転車とか電子マネーとかだが、その程度の出現だと実現しても世界が圧倒的に変わるようなものでもない気がする。

このほか例えば現在実験が進んでいる店舗無人化などは、働き方改革などとともに、ベーシックインカムのような制度と組み合わさって、働くとか生きることの意味が変わってくるかもしれない。

また所有という概念がさらに薄れたり、ビットコインなどにより通貨やそれを定義する国境という意味がなくなるかもしれない。

さらに、もはやスマホではなくICチップを体内に埋め込むことによって自動的な健康管理が行われ通院の必要がなくなったり、思っただけで意思疎通、通信などが出来るような研究も行われておりそれが実現するかもしれない。

このように、変化の可能性は無限大にあるが、果たしてどうなるのだろうか?

もちろん私の頭で思いつくようなことであれば、社会が劇的に変化するなどとは呼べないかもしれないが、今後数十年で何かが劇的変化するのであろうであるわけで、楽しみのようやら怖いやらである。

嘉納治五郎先生と私

 日本の大河ドラマの「いだてん」の視聴率が不調であるようなことがニュースになっていた。

 そもそも大河ドラマ自体を見る習慣のない私にとっては、視聴率の話には興味がないのだが、そんな私から見てもかのドラマはどうも取り上げる人物が違うかなという気がする。
 もちろんNHKの意図としては来年開催される予定のオリンピックに向けての盛り上げ企画として金栗四三氏をとりあげたのだろうが、どうもインパクトが弱い。
 それゆえに、視聴率低迷は仕方ないだろうに思う。

 個人的には、同じような意図でオリンピックを盛り上げるのであれば、「日本体育の父」と呼ばれた嘉納治五郎先生を取り上げるべきではなかったという気がする。

 金栗氏を慕う方には申し訳ないが、私の印象では、嘉納先生の方が金栗氏より知名度が高く、先駆者性やカリスマ性でもはるかに高い人物の印象である。

 終戦を待たずに亡くなってしまった方ではあるが、東京オリンピックへ繋がる大河ドラマの主人公としては相応しい風格と軌跡があるよう気がするのである。
 とはいうものの、私自身嘉納治五郎先生の人生をそれほど知っているわけではない。

 そこで、ウィキペディアなどで調べて見たのだが、調べていくうちに実は私自身が嘉納治五郎先生に多少なりのがある人生を送っていることに最近気が付いた。

 もちろん、私の父親が生まれる前に亡くなったような時代の方なので直接の接点があるわけではない、

 その縁の一つは、私自身が高校まで柔道をやっていたことに基礎がある。
私が小学生の頃に通っていた町道場には嘉納治五郎先生の写真が飾られており、毎日稽古で道場を訪れるたびに、嘉納先生の姿を目にしておりとても偉い先生なのであることは感じていた。

 天井に木製の梁がむき出しになったお寺の書院のような道場であり、もちろん冷暖房などは全くなく、真冬は冷たい水で雑巾を絞って裸足で氷のような道場の畳掃除をやったことを覚えている。

 今思えばお寺の小僧さんたちのような修行である。
 その道場の大先輩には、なんと元関取の麒麟児さん(後の北陣親方)もいたことを当時教わっていた師匠から聞いた。

 そしてその道場を所有していた大先生が亡くなったのが1982年頃で、亡くなったときの詳しい年齢は存じ上げないが、仮に当時70だったとすると1912年生まれとなり、1938年に亡くなった嘉納先生とは十分接点があり得る年代だったことになる。
 道場の大先生と嘉納先生がどれだけ直接的な接点があったかは調べようもないのだが、道場に写真を掲げるくらい崇めていたのだろうから、講道館などで直接教えを受けた可能性は十分にある。

 そうすると私自身が嘉納先生の孫弟子である可能性もあるのである。
 もっとも、嘉納先生自体が柔道の祖であることから言えば、柔道に関わった者はほとんどが嘉納先生の「孫弟子」なり「ひ孫弟子」になってしまうので私だけが特別な縁なわけではない。

 ただ、もう一つの縁として嘉納先生は私が高校時代から住んでいた我孫子に別荘を構えていたことを最近知った。
 我孫子は明治の白樺派の文人たち手賀沼近くに別荘を構えていたことは知っていたが、私自身が志賀直哉や武者小路実篤の作品に興味がなかったため、彼らの別荘が実際にどこにあるかも興味がなく、調べもしなかった。

 しかし、最近嘉納先生の別荘が我孫子にあったことを知り、その位置をネット上の情報などで調べていくと、かの文人たちの別荘も含めて「ああ、あんなところにあったのか」と思うほど結構身近な場所に存在していたことを知ったのである。

 こういうことを知ると、俄然と縁を感じ、嘉納先生の足跡を知りたくなる。

 そしてさらにもう一つ、嘉納先生がかつて校長を務めた東京師範学校の流れを汲む某大学に入学しかかったのだが、諸事情から入学を断念し、嘉納先生の教えの流れには加わらなかったということも私の人生の中にはあった。

 そして嘉納先生は「弘文学院」という留学生のための施設も作ったようで、そこで中国人留学生をも受け入れており、実はかの魯迅もそこで直接嘉納先生から学んだこともあったようだ。
 魯迅は最終的には今私のいる上海を終の棲家とし、上海で亡くなっている
 ここにも遠縁ながら、現在上海にいる自分との縁を感じる。

 まあ私にとっての嘉納先生とはそういうなんやかんやの間接的な縁を感じる存在であり、あの悠然と構える写真の姿を目にするたびに、子供の時の道場でのことを思い出すのである。

半月無視の日本の新暦七夕は間違っている。

昨日は7月7日の七夕ということだったが、七夕の由来を紐解いていくと日本の七夕は間違っているもので、意味のない行事に成り果てていることに気が付く。

 昨年に書いた「2014年07月21日 中国の七夕の絵は大間違い」というブログで書いた内容とほぼ同様の論理となるが、日本の七夕が明治の改暦以後、新暦つまり太陽暦の7月7日に実施することになった時点で意味が分からない行事となっているのである。

 
 何故ならば「七夕」というのはその文字が示す通り、7日の夕べ(夜)という意味を持つ行事であり、7月7日に実施することに意味がある行事なのであるが、太陰太陽暦上で初めて意味が成立するのであって、新暦上では意味が成立しないのである。

 では何故に太陰太陽暦の7月7日なのか?

 新暦で言えば7月7日は、1年をほぼ12等分した月で数えた7番目の月の7日目になり、つまりその年の190日目の日ということになるが、この基準だと毎年太陽の位置こそほぼ同じになるが、結局それだけの意味しかない日なのである。

 これに対して旧暦の太陰太陽暦で暦を数えると7月7日という日は特別な意味を持っていることがわかる。
 太陰太陽歴では1ケ月を月の満ち欠けを基準として定めているので、新月を起点として数えれば毎月15日は必ず満月であり、毎月7日や22日は必ず半月となるのであり、つまり7月7日は必ず半月なのである。
(有名な三日月がその名称で呼ばれるのは、旧暦の月の数え方に由来するものである。)

 故に、七夕の伝統行事というのは、必ず半円の半月の状態が空に浮かぶ夜だったということになり、日本でも明治の改暦以前は太陰太陽暦の7月7日の夜に行われていたものとなる。

 そしてこの時期、天体ではちょうど天の川の銀河が南中するころであり、天の川を挟んで、彦星のわし座アルタイルと、織姫星の名のこと座ベガが向き合う姿が見えるころであり、これに白鳥座のデネブを加えて夏の大三角形などとも言われる風景が見える時期なのである。
 この彦星と織姫が向き合うところに船に見立てられる半月が天の川を渡ることから七夕の伝説が成立しているのである。

 つまり、太陰太陽暦の7月7日の夜であるからこそ、彦星と織姫という役者が天体に揃うのであり、半月という脇役が揃っている時期なのである。
 これが新暦で数える7月7日では、半月になるとは限らず満月や新月など月の形は毎年一定ではないし、彦星と織姫も夜中に観察に適さない位置となる。

 ましてや関東などは梅雨真っ盛りであり、空の星を観察するのに全く適さないのである。

 つまり明治の改暦で新暦の7月7日に移動させられた七夕は、日付こそ7・7だが本来の伝説の元になった天体ショーとは全く切り離された明治政府による官制行事であり、伝統行事として意味を持たない間違ったニセ伝統行事になったのである。

 それ故に、私はこの新暦の七夕はいい加減に止めたほうが良いと思っており、太陰太陽暦に基づいた日付に移すべきだと考えている。

 まあ今の日本政府は太陰太陽暦による暦の数え方を公式には認めていないようだが、明治の改暦以後意味の分からなくなった節句の数々のことを考えると、季節に基づいたほかの節句もやはり元の太陰太陽暦に基づいた位置に戻すのが正しいであろうと考える。

 先日明治時代の産業発展の遺跡群がユネスコの世界遺産に認められた際に、強制労働という負の遺産に対して韓国から横やりが入ったが、私からすればかの明治の改暦もやはり影の部分を現代に残していると負の遺産だと感じ、明治が残した負の遺産は想像より遥かに多いのではないかというのが私の認識となっている。