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宇宙に宇宙人や生命体がいるか調べる前に考えること

先日ラジオで、この宇宙には地球と同じような生命体を持った星が確率的に必ずあるはずといったような話が展開されていた。

この話の発端は、宇宙人は何故「○○人」と呼ばれ、宇宙の生命体は何故「人」限定で呼ばれているのかという点だったと思う。

まあ我々人間が人であるから、宇宙の生命体も「人」であるかのように思うのはごく自然な話ではあるので、致し方ないところではある。
ただ、私としてはこの話を聞いていて、宇宙人が「人」でなくなれば解決する話なのかという疑問を持った。

つまりその地球外生命体的な概念を「宇宙人」ではなく「宇宙生命体」と呼び変えたとしても、結局は人間の勝手な観念の枠組みを出ないものだという気がするからである。

すなわち生命体とか生命という概念自体が人間が勝手に作り出した概念に過ぎないわけで、つき詰めれば人間が生命だと思っている現象も、宇宙の中では一つの物理的現象に過ぎないと言えるかも知れないからである。

我々人間は、ある物体を指して勝手に生命を持っている、持ってないなどと勝手に区別しているが、それも実は物理的現象の一つの状態の違いに過ぎないのかも知れず、生命という絶対的区分があるかどうかは実は怪しいのである。

例えば死生の区分一つとっても、私という一人の人間の肉体が動かなくなれば、まずは社会的には個体の死として整理されるが、もし私に子供がいてDNAが受け継がれれば、DNAが死んだということにはならない。

さらにもし子供がいなくて私の肉体が朽ちてバクテリアなどに自然分解されれば、それもまた命を繋いでいるということが出来る。

これらのことを考えれば、元の個体の肉体は死んだとしても生命の受け渡しがあり、命が繋がっているとも言える。

そして宇宙的に突き詰めて言えば私の肉体を構成していた分子原子の要素が物理的に消滅しなければ、その物質はどこかに何らかの形で受け継がれるわけで、言うなれば人の死もまた物質の物理的現象の一つでしかないとも言えるのである。

 そして肉体だけではなく、我々人間は日々の時間を自分の意思を持って生きたり、或いは宗教的観念に支配されて生きていると自我を意識して生活しているが、実はこの意思すら人間という個体の中での物理現象の表出に過ぎない可能性もあるのである。

 つまり人間の自由意思など本当は存在せず、そういう意思があると思い込む脳内物質の動きによってそう感じているにすぎないという可能性があるということであり、物理的法則に支配された結果、何かを感じたり考えている可能性があるのである。

 なんだか複雑な話で恐縮だが、とどのつまりは人間が地球を飛び出し広い宇宙の中で生命体を探すという行為自体が、実はナンセンスなのかもしれず、まずは生命という現象区分自体をもう一度物理的尺度で見直す必要があるのではないかという気がする。

 そこが分かって無いと、他の惑星に高度な文明がある星があるかもしれないなどと考えて広い宇宙を探し回ることになり、まあこれらは人間的なロマンとしては面白くても、実は的外れな宇宙の捉え方なのかもしれないのである。

身を寄せ合う上野のニホンザル

身を寄せ合う上野のニホンザル

自己満足な東京五輪誘致

2020年のオリンピックに東京が再び立候補し、オリンピック委員会に申請書を提出したというニュースが入ってきた。

 まあ誘致活動そのものには反対はしないのだが、ニュースを見る限りどうも訴えるコンセプトにインパクトがない。

 東京オリンピックを積極的にやろうという思わせる動機に欠けるのだ。

 確かに東日本大震災からの復興というのは一つの動機づけにはなるが、今回開催しようとしているのは東京であり、東北ではないが故に微妙に焦点がぼやけてくる。

「何故、東京なのか」という報道陣の問いに対して、今回招致委員会が掲げたテーマは「日本復活五輪」と「東京の都市力を世界に示す」ということなのだそうだが、これはどうも自己満足な言葉にしか聞こえない。

 もちろん日本人にとって、オリンピック開催を東日本大震災からの復興や経済低迷からの復活の足ががりにしたい気持ちは十分理解できるが、実はこのこと自体は世界から見ればある意味どうでもいいことなのである。
 まあ世界の国々は日本の震災に対し道義的人道的立場から復興を願ってくれているかもしれないが、それが単純にオリンピックという形に結びつくとはどうも考えにくい。

 つまり復興はして欲しいが、それは一般的人間の慈愛であり、そこにオリンピックを開催する意義までは見いだせないのではないかと思われる。

 また同様に「東京の都市力を」と言われれても、やはり世界の人にとっては東京に都市力があろうがなかろうがどちらでもいいことなのであり、そこにオリンピック開催の意義を見出すのはとても難しい。

 いずれにしても結局は東京の自己満足な主張でしかなく、今回東京で開催することが世界の人々にとってどういう意味があるか?という点がまるで考慮されていない。

 この点を考えると、「南米初のオリンピックを!」と掲げたリオデジャネイロに負けた2016年の開催地争いの反省がどうも生かされていない気がする。

 結局、東京が過去の「都市力」のストックを引っ張りだして使うだけでは、初開催を目指すイスタンブールなどとの争いに開催意義で負けてしまうのは目に見えていて、施設状況などで質的に他の都市を上回っているなどと考え楽観視するのは傲慢な考え方としか言えないであろう。

 じゃあ、どういった点をPRすれば東京に意義が生まれるか?

 非常に難しい話だが、やはりオリンピックぐらい大きなイベントの誘致には、世界の人が一目置くような東京から世界に向けて発信できる新たな価値を生み出していかなくてはいけないのだと思う。

 それはコンパクト五輪などといった、小手先のテクニック的な話ではなく、世界の人の心に届く理念なのではないかという気がする。

  例えば、前回もある程度あった環境関連のコンセプトをさらに推し進め、コンクリートではなく「木」の文化によって地球にやさしい街づくりをPRしたり、屋上緑化推進による省エネ都市の実現、さらには都市における森の再生事業、スポーツの自然への回帰などをテーマにして、震災から復興段階にある現在だからこそ取り組めるテーマを見つけ、実際の都市再生と両輪で五輪誘致を推し進めるべきなのではないかと感じる。

 そして先進国にも発展途上国にも見習ってもらえるような市民の知恵を生かした都市の豊かさと自然保護が共存できるモデルケースを目指し、そこでのオリンピック開催を訴えれば、それなりの開催意義を感じてもらえるのではないかと思う。

 故に今回のオリンピック誘致があろうがなかろうが、その理念を実現するための努力が必要であり、それを実現させるんだという気概を都側が見せ、都民がそのことにプライドを持って取り組めるような土壌が醸成されれば、この街をオリンピックを通じて世界に見せたいという雰囲気も生まれ、そうすれば自ずとオリンピックもついてくるのではないかという気がする。

 戦後復興の最中に開催した前回の東京オリンピックもそんな雰囲気があったのではないかと想像する。

  とにかく今のような過去のストックに頼った小手先の自己満足な誘致活動では、東京の再生もオリンピック誘致も駄目なような気がする。

 オリンピックは挑戦する姿が人を惹きつけるということを忘れちゃいけない。