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嘉納治五郎先生と私

 日本の大河ドラマの「いだてん」の視聴率が不調であるようなことがニュースになっていた。

 そもそも大河ドラマ自体を見る習慣のない私にとっては、視聴率の話には興味がないのだが、そんな私から見てもかのドラマはどうも取り上げる人物が違うかなという気がする。
 もちろんNHKの意図としては来年開催される予定のオリンピックに向けての盛り上げ企画として金栗四三氏をとりあげたのだろうが、どうもインパクトが弱い。
 それゆえに、視聴率低迷は仕方ないだろうに思う。

 個人的には、同じような意図でオリンピックを盛り上げるのであれば、「日本体育の父」と呼ばれた嘉納治五郎先生を取り上げるべきではなかったという気がする。

 金栗氏を慕う方には申し訳ないが、私の印象では、嘉納先生の方が金栗氏より知名度が高く、先駆者性やカリスマ性でもはるかに高い人物の印象である。

 終戦を待たずに亡くなってしまった方ではあるが、東京オリンピックへ繋がる大河ドラマの主人公としては相応しい風格と軌跡があるよう気がするのである。
 とはいうものの、私自身嘉納治五郎先生の人生をそれほど知っているわけではない。

 そこで、ウィキペディアなどで調べて見たのだが、調べていくうちに実は私自身が嘉納治五郎先生に多少なりのがある人生を送っていることに最近気が付いた。

 もちろん、私の父親が生まれる前に亡くなったような時代の方なので直接の接点があるわけではない、

 その縁の一つは、私自身が高校まで柔道をやっていたことに基礎がある。
私が小学生の頃に通っていた町道場には嘉納治五郎先生の写真が飾られており、毎日稽古で道場を訪れるたびに、嘉納先生の姿を目にしておりとても偉い先生なのであることは感じていた。

 天井に木製の梁がむき出しになったお寺の書院のような道場であり、もちろん冷暖房などは全くなく、真冬は冷たい水で雑巾を絞って裸足で氷のような道場の畳掃除をやったことを覚えている。

 今思えばお寺の小僧さんたちのような修行である。
 その道場の大先輩には、なんと元関取の麒麟児さん(後の北陣親方)もいたことを当時教わっていた師匠から聞いた。

 そしてその道場を所有していた大先生が亡くなったのが1982年頃で、亡くなったときの詳しい年齢は存じ上げないが、仮に当時70だったとすると1912年生まれとなり、1938年に亡くなった嘉納先生とは十分接点があり得る年代だったことになる。
 道場の大先生と嘉納先生がどれだけ直接的な接点があったかは調べようもないのだが、道場に写真を掲げるくらい崇めていたのだろうから、講道館などで直接教えを受けた可能性は十分にある。

 そうすると私自身が嘉納先生の孫弟子である可能性もあるのである。
 もっとも、嘉納先生自体が柔道の祖であることから言えば、柔道に関わった者はほとんどが嘉納先生の「孫弟子」なり「ひ孫弟子」になってしまうので私だけが特別な縁なわけではない。

 ただ、もう一つの縁として嘉納先生は私が高校時代から住んでいた我孫子に別荘を構えていたことを最近知った。
 我孫子は明治の白樺派の文人たち手賀沼近くに別荘を構えていたことは知っていたが、私自身が志賀直哉や武者小路実篤の作品に興味がなかったため、彼らの別荘が実際にどこにあるかも興味がなく、調べもしなかった。

 しかし、最近嘉納先生の別荘が我孫子にあったことを知り、その位置をネット上の情報などで調べていくと、かの文人たちの別荘も含めて「ああ、あんなところにあったのか」と思うほど結構身近な場所に存在していたことを知ったのである。

 こういうことを知ると、俄然と縁を感じ、嘉納先生の足跡を知りたくなる。

 そしてさらにもう一つ、嘉納先生がかつて校長を務めた東京師範学校の流れを汲む某大学に入学しかかったのだが、諸事情から入学を断念し、嘉納先生の教えの流れには加わらなかったということも私の人生の中にはあった。

 そして嘉納先生は「弘文学院」という留学生のための施設も作ったようで、そこで中国人留学生をも受け入れており、実はかの魯迅もそこで直接嘉納先生から学んだこともあったようだ。
 魯迅は最終的には今私のいる上海を終の棲家とし、上海で亡くなっている
 ここにも遠縁ながら、現在上海にいる自分との縁を感じる。

 まあ私にとっての嘉納先生とはそういうなんやかんやの間接的な縁を感じる存在であり、あの悠然と構える写真の姿を目にするたびに、子供の時の道場でのことを思い出すのである。

師匠の死

 実は最近、小さい時分に柔道を習った先生が次々に他界したことを知った。最近亡くなったのは直接教わった方ではないが、いろんな意味でお世話になった方である。

 私は上海にいる身分で葬儀には行けなかったが、幸い父親とも親交があったので、父親に行ってもらった。
 実はその席で私が最初に柔道を教わった先生が今年の5月に亡くなったことを知ったのである。

 私にとってはこちらのほうがショックであった。まだ54歳であったとのこと。

 小学校2年生から約4~5年の間、人生の礼儀の基礎を学んだような師匠であり原因は忘れたが道場で遊んでいるのを怒られ、一時間正座させられていたような思い出がある。

 道場の天井のスス掃除のために梁に上らさせられたこともあった。
 正月に食べた鏡開きのお雑煮は格別に美味しかった。
 筆字が非常に上手であったことも覚えている。

 その師匠との関係が縁遠くなってしまったのは、私が高校のとき練習時に骨折したときからである。

 当時高一だった私は二級上の先輩とも互角に練習できたが、調子に乗ったところ蟹バサミにあい、受身が取れず鎖骨を骨折した。

 で、接骨院であったその師匠ところに運ばれ治療していただいた。
 ところが私はその状態にも関らず、二週間後に高校生クイズに参加するために当時に西武ライオンズ球場に出かけてしまった。

 暑さの中動きまわったため、案の定状態が悪化し、傷口が開いた状態になり入院が必要になり夏明けまで約1ヶ月半入院することになる。

 その間の入院費はその師匠が責任ということで払っていただくことになったが、今度はその師匠が心労が重なって脳溢血で倒れてしまった。
 幸い一命を取り留めたがその後、体に麻痺が残ってしまった。その後私は無事退院できたが、ほとんど、その師匠とは会わなくなった。
 どうにも、そのとき師匠が倒れた原因が自分にあるような気がして顔を会わせずらくなったのが本音である。

 その後、大学に進学以降は柔道からも離れたが、いつかちゃんと挨拶に行かなければならないとずっと心にひっかっかっていた。

 故郷に錦を飾るではないが上海でもっと胸を張った仕事ぶりができるようになったら会いに行こうと自分の中で言い訳をして会いに行かなかった、
 そんなところへの先日その訃報である。

 自分の心の弱さを非常に後悔した。

 もう心の懺悔をする機会がなくなってしまったのかと思うと非常に辛い。

 今度帰国したら、家族にあやまりたい気分でいっぱいである。

ギリギリののところで粘れるか粘れないか

 思い起こせば私の人生は挫折とピンチの連続である。でもなんとかギリギリのところの踏ん張り切り抜けてきた。

 小学校時代に習っていた柔道の試合、中学時代の部活、大学入試、卒業、社会人になってからの諸々の仕事や事件、そして中国渡航まで最後のギリギリのところで踏ん張ってなければ恐らく、人生が変わっていた、いや終わっていたかも知れない出来事ばかりである。

 普段からコンスタントに努力していればギリギリになって慌てずに済んだのになぁといつも振り返って反省するのだが、まあ途中だって手をぬいてさぼって生きてきたわけじゃない。

 確かに多少斑があるが、どのステージも結構いろんなことに全力でぶつかっていて、ちょっとほったらかしになっていたことをぎりぎりにまとめて処理するから苦労するのである。
 夏休みの自由研究に夢中になって時間を消費し、最後になってドリルの宿題をまとめてやるようなものであろうか。

 まあ、そんなこんなで今があるのだが、こういう生き方は宿命のようなものでいつも同様の状況に追い込まれている。

 ピンチを迎えてギリギリののところで粘れるか粘れないか、これはとても重要で、世の中には嵐が過ぎるまでじっと耐えなければならないピンチと、必死にもがかなければ解決しないピンチの2タイプがあるが、前者は何もしなくても乗り越えられる場合があるが、後者の場合は何もしないでいては結局ゲームオーバーになるだけなので粘らざるを得ない。

 もちろん状況をだまって指をくわえて見ていても何も解決しないし、解決しないどころか、時間が過ぎるごとに状況が悪化していく。ギリギリまで何とか粘ってもがいてピンチを脱出するしかない。そうやらないと乗り越えられないし、生きていけない。
 まあ毎回いつものこと(?)とはいえ、毎度毎度結構大変なのだが、粘りが「信条」の私にとっては、土壇場で何もできないまま負け犬にはなりたくないのである。

 粘り続ければ、何らかの活路が見えてくる。

 そう信じている。