Monthly Archives: 7月 2013

夏に春の祭典とローマの祭り

 中国にいると、国家が人が集まって騒ぐことを好まないためか、お祭り的なイベントに接する機会がほとんどない。

 そういうイベント的なものはせいぜい春節の花火くらいなもので、日本で言う夏祭りや盆踊りのようなテンションを上げてくれる機会はあまりないのである。

 上海で6年も夏を過ごしているとさすがにそういった、夏祭り的な雰囲気がちょっと恋しくなる面もある。

 まあ私の場合は祭りそのものと言うより、夏祭りのもたらしてくれる音というか、リズムが恋しいと言ったほうが正しいかも知れない。

 そういった時に一つの代用としているのが音楽であり、ここ数週間そんな意味もあって繰り返し聞いているのが、ストラヴィンスキー作曲の「春の祭典」とレスピーギ作曲の「ローマの祭」である。

 何れもストラビンスキーバレエ三部作とローマ三部作と言われている三部作の中の一つの曲である。

am500_sc071

 春の祭典は、もともと原始宗教の世界を元につくられた音楽のようで、神に対する生贄の乙女が死ぬまで踊るといった狂気的な内容が表現されている。

 それゆえ、非常に複雑なリズムとメロディが数多く入交じり、不協和音が鳴り響くスリリングな音楽となっており、そういった点で日本古来の祭りの感覚に近い物があり、映画のクライマックスに近づいていくようにどんどん引き込まれ、聞いているこちらも理性的に聞くというより、本能を煽られる感じで非常にボルテージが上がる。

 ただその斬新的な過激な内容ゆえに1913年のこの曲の初演時は、クラシック音楽史上もっともスキャンダラスな1日として語り継がれるほど大騒ぎになったようである。

 一方「ローマの祭」は作曲者レスピーギがローマの4つの情景を描いたもので、第一楽章の冒頭から、暴君ネロへの恐怖心を感じさせるような鋭い切れ込みで音が始まり、スリリングな音楽な渦の中に巻き込まれていくように始まっていく。

 私は生涯数多くコンサートに接して来ているが、その中で東京で最初に聴いたこの「ローマの祭」ほど、鳥肌が立ったことはないことを鮮明に記憶している。

 それくらい衝撃的なスリリングな音であった。

 まあ全体の四つの楽章それぞれに違う祭りを描いているので、最初から最後までスリリングと言うことではないのだが、それぞれ全く事なった雰囲気なので「祭り」という言葉の意味の深さを教えてくれる音楽でもある。

 で、この4つ楽章のうち一番派手で騒がしいのが第4楽章の「主顕祭」で街のあちこちで大道芸人が騒いでいるのではないかというようなサルタレロのリズムの狂喜乱舞する情景が描かれ、まさに祭りの大騒ぎとなっている。

 ベートーベンの第九なんかも、実はこんな風に描きたかったのではないかと思える程、楽しげに描かれており、夏の祭り気分を味わうにはぴったりな気がする。

 いずれの曲も、日本とは遠く離れたロシアとイタリアの国の人間が作った祭りの情景をテーマにした音楽であるが、祭りという行事がリズムを以て人間の本能に働きかけるという関係でいえば、共通の物が感じられる。

 1年に1度は祭りで狂喜乱舞したいという感覚は実は世界共通なのかもしれないと感じるこの2曲である。

被害者の心理と言動

先日、某お笑いタレントの男性が女性から強姦被害を訴えられていた裁判で、被告の男性側の言い分が認められ、お互いの合意の下での関係だったとの判断が下されたとのニュースがあった。

 まあ、この事件の詳細を確認した訳ではないが、訴えていた被害者側の言い分と言うか言動を見ていると、明らかに男性側に訴えられているような内容はないなという気がしたので、判決は妥当だったのではないかと見ている。

am500_pl035

 何故なら、私の偏見かもしれないが、強姦の様な辛い被害にあった女性はその事実を消してしまいたい心理の方が強く、今回のように相手を強く攻撃するような言動は取らないような気がするからである。

 相手を強く攻撃するということは、相手を傷つけたい、事件の仕返しに相手にも傷跡のをしたいという心理がその根底にあるのだが、このような相手に跡を残したい心理反応というのは性犯罪の被害者心理とは相反する面がある気がするのである。

 性犯罪の被害者は恐らく、全てを無かったことにしたい、忘れたいというのが心理であるような気がしており、それ故に加害者にでさえ、その跡が残って欲しくないと思っていて、本来は裁判にさえ出たくない場合が多いという気がする。

 故に強姦を訴える女性の多くは周囲の協力の下で被害届を出しており、原告側の強い主張があったとしても、それは本人を気遣った周囲の人間の主張であり、そのあたりは裁判関連の記事の文脈を見ていると微妙な差があることがわかる。

 逆に本人自身がこういった攻撃的な言動を取り、犯罪行為だと訴える行動は、相手に自分を認めさせたい、相手には自分という存在がいたという証拠を残したいという愛情の裏返しの憎しみの心理なのではないかという気がする。

 もちろん単なるお金目当ての美人局の場合もあるが、そうではない場合は元々愛情が存在していたのに別れた事実を受け入れられず、裏切った相手は許せない、傷つけてやれといった自らを正当化する為のエクスキューズとして相手を攻撃している気がするのである。

 それ故に冒頭のお笑いタレントの裁判の件は、原告側の主張がかなり攻撃的だったため、少なくとも最初は合意の下での関係が成立していたのだろうという推測が成り立つのである。

 このことは、実はかの柔道の某金メダリストの事件にも言え、あの裁判の一審では無茶苦茶な判決理由で被告は有罪となったが、私の推測では合意か強制かの判断で言えば当時は合意の下での関係であったと推測し、問われている準強姦罪の罪に関して言えば無罪だと感じている。

 そのくらい原告側の言動が攻撃的であるように感じ、実際報道で伝えられている2人の行動には強制的な関係だったと判断するには矛盾があると言われている。

 恐らく原告の女性は、被告と愛情関係を結べると思って行為に応じたのに、その直後に他の女性の部屋に遊びに行ってしまうほどの遊び人だと知って、裏切りを感じたのであると思われる。

 女性からすれば愛情の詐欺にあったようなものだが、結婚の約束をしたわけでもなければ自由恋愛の世界では、なかなか裏切りに対する仕返しをすることが出来ず、それ故に関係を強制されたと主張になったのであると推測でき、かの強い主張が出て来たのだと思われる。

 ただまあこのように、法律上の事実関係の点で言えば犯罪は成立していないとの推測はできるのだが、現実的に被告の行なってきた行為は社会マナーに反すると非難される行動であるのは間違いない。

 それ故に既に被告の社会的地位は失墜しており、もし上告審で無罪が認められたとしても今後日本の社会の中で生活するのは困難であるという気がしている。

 であるならば、現実の事実はどうであれ、この件に関しては一度服役したという状況を経てから社会復帰したほうが彼の為でもあるかもしれないという気がする。

 このように本来は攻撃的になりにくいはずの性の被害者が、攻撃的な主張をするというのは何処か事実に矛盾があるという気がしている。

 そういう点で言えば現在も問題になっているかの慰安婦問題も同様で、慰安婦の苦しみを訴えて銅像などを建てて後世に残したいと言う行動は、一般の性被害者の心理傾向から考えればどこかその心理に矛盾があるように感じるのである。

原文

上海の地下鉄の振動と騒音の理由

 先日地下鉄に乗った際に、以前両親が上海に来たときに「何で上海の地下鉄はあんなに飛ばすんだ」と言っていたのをふと思い出した。

 確かに言われてみれば、上海の地下鉄はかなりのスピードで走っているような雰囲気で、車両の中にいても非常に五月蠅い気がするし、よく揺れるような気がする。

100933_1

 気になってウィキペディアあたりの資料を調べてみたが、上海の地下鉄が東京の地下鉄に比べ速い速度で運行しているような資料は見つけられなかった。

 例えば東京の千代田線と上海の2号線を比較しても少なくとも最高速度設定においては時速80キロで同じである。

 では何が違うのだろうか?

 駅のホームから2号線の軌道を覗きこむと、コンクリートにレールが固定されているスラブ軌道が採用されているのが分かる。

 千代田線がどうだったかということはあまり記憶が無いが、いろいろ調べてみると床に砂利を敷き詰めたバラスト床であるらしいことがわかった。

 バラスト床は、スラブ軌道式よりは振動によって軌道が狂いやすく保守に手間がかかるといわれるが、その反面路盤とレールの間に減衰効果があり、騒音と振動ともに減少する効果があるとのこと。

 逆にスラブ軌道は保守が楽な面はあるものの、振動や騒音が大きくなるという欠点があり、近年の日本の地下鉄ではほとんどバラスト床の軌道が採用され、スラブ軌道はほとんど使われていないらしい。

 よってスラブ軌道を採用した中国の地下鉄の方が日本の地下鉄より騒音が大きくなるのは致し方ないことらしいようだ。

 加えて、日本より中国の方が敷設精度が高くないことは十分考えられ、良くて同じ水準、少なくとも中国の技術が日本のものを上回ることはちょっと考えにくい為、騒音と振動のレベルの差が生まれる可能性はある気がする。

 また同じように資料は見つけられなかったが、恐らく車両の問題もあるように思う。
 
 故に上海地下鉄2号線と千代田線では、軌道の構造上の問題から同じ速度で走っても騒音と振動に大きな差があるということになる。

 つまり、速度が速いように感じられた上海2号線は、実は速度が速いわけではなく、大きな振動と騒音により、速度が速い状態であるのと同じように感じられたと推測することができるのである。

 まあ騒音も振動もそれほど気にしないお国柄の中国では、地下鉄の振動や騒音のために保守の面倒くさいスラブ軌道の採用という発想は今後も生まれないような気がするので、この状況は当面変わらないだろうという気がするのである。

中国の物流業は不動産業

 昨日某勉強会のセミナーに参加してきた。

 まあそのセミナー自体は非公開でも何でもないのだが、これから書くことは講演者がパワーポイントにして資料にするとあまりよろしくないという中で話された範囲なので、名前等々は全て伏せて書くことにする。

 昨日のセミナーの中で、その講演者が話していたのは中国の物流業は不動産業だということ。

上海市内のショッピングセンター

上海市内のショッピングセンター

 中国の物流業の何が不動産業かというと、本来流通業の有るべき姿と言うのは、仕入れ値と売値の差、つまり売買差益で利益を出すのが基本の形なのだが、中国の物流業はそうではなく売り場を作るだけで損をしない仕組みが出来上がっているということだった。

 つまりどういう事かと言うと、ある商品をあるスーパーに納入すると、1アイテムにつき幾らと言う形で、納入料を取られるというのだ。

 例えば上海の様な大都市だと1アイテムあたり2000元などの費用となり、地方へ行けばもう少し安いが、それでも500元1000元と言う費用が発生する。

 故に全国2000店舗で、ある新商品を一斉販売しようとするだけで、1アイテムにつき100万元、10アイテムなら1000万元、つまり今のレートで言うと1.6億円かかるとのこと。

 さらにスーパー内の特設コーナーを借りるには3ケ月で幾ら等々、その都度別の費用が発生し、とにかくスーパー側は「場所貸し」、つまり不動産業だけで費用を回収するので、販売そのものに力をそれほど入れないで済むというのが中国の流通業界の実態らしい。

 しかも、困るのが末端店舗への浸透力で、例えば某大手チェーンスーパーで一括契約をしたとしても、末端の店舗で商品が必ず陳列されているとは限らないとのこと。

 つまり商品は届いても倉庫で眠っている場合があるという。
 それゆえに、納入業者はその陳列チェックまでを自分のところでやる必要があるのだという。

 故に中国のスーパーなどの商品の陳列棚や販売コーナーは、売れている商品ではなく、お金をたくさん出した業者の商品が並ぶわけで、商品の品質や人気に関係なく業者がお金を出したかどうかでその配列が決まっており、中国の資本主義の主役は消費者ではなく、売り手の論理で売り場が決まっているようだ。

 まあ納入料云々に関しては、日本でも似たようなことがないわけじゃないと聞くが、中国のそれはあまりにもあからさまで、日本のメーカー参入の障壁となっているのが実態とのこと。

 つまり例えば今後国家レベルで「貿易を自由にしましょう」などと取り決めたところで、中国の流通業のこういった商習慣が外国からの参入を阻んでいる面があり、中国への日本企業の進出はなかなか容易ならないとのことだった。

 つい先日、日本もTPPの会合への初参加を行なったが、こういった中国の商習慣を見る限りにおいては、関税だけがなくなったところで外国での商売がうまくいくものではないということを関係者は肝に銘じるべきかもしれないという気がしている。

iPhoneは現代のラジカセ

 以前から感じていたことであるが、iPhoneというのは現代版のラジカセのような位置づけなのかなという気がする。

 もちろん外観や中身が一緒というわけではなく社会的位置づけという意味である。

 ラジカセというのは言うまでもなく「ラジオカセットレコーダー」のことで、つまりラジオ、カセットレコーダー、アンプ、スピーカーがオールインワンで一体になった音楽再生機器であり、それまでバラコンと呼ばれていたステレオ機などをコンパクトにしたものとして非常に広く普及した。

 後にはCDやMDの登場により、CDラジカセやCDMDラジカセなどの商品も出来たが、それらを含めてそれまでラジオ放送や高級ステレオを持つ人しか楽しめなかった音楽を、ラジカセの普及が個人で音楽を楽しむという行為を可能にし、スタイルの普及に繋がっていったという気がする。

 また同様にiPhoneもそれまでいろいろ在野にあった電話、ネット、音楽プレーヤーなどをコンパクトにオールインワンで一つに集約し、分かりやすいインターフェイスによって簡単な直観的操作が可能になったためのヒットした商品であると思う。

 このiPhoneの登場によりそれまでITには縁の無かった人にも大きく普及することになり、ITのイロハも分からなかった人たちがITに近づいたような印象を与えることに成功したのである。

 つまり在野にあった技術をコンパクトにオールインワン化して使いやすくし、それまで音楽やITに縁遠かった初心者たちを取り込むことに成功したという点が共通しているように思えるのである。 

am500_pe037

 日本にもガラケーと呼ばれる多機能電話は既に普及していたが、インターフェイスの面でキー操作にこだわっていた点で必ずしも使い安とは言えず、魅力的とは言えなかったのだが、それを克服したのがiPhoneといえ、技術的に凄いというよりも、分かりやすさの勝利ではあった気がする。

 もちろん、ラジカセもiPhoneもオールインワンゆえの性能の限界はあり、音楽もITもハイレベルなものを求める者からするとおもちゃ同様のようなこのラジカセとiPhoneだが、結果的に売れているということは「ハイスペック」より「使いやすさ」を求めたほうが商売としてはうまくいくという一つの見本のような結果となっているのである。

 ただ、その盤石に見えたiPhoneもやはり創業者のSジョブズ氏が亡くなって以後、勢いがなくなって来ていて、どうもマイナス点がちらほら目立つようになってきた。

 例えば地図の失敗の例に見られるように、商売を欲張ったのか自社の技術を過信し、他社技術を排除しようとして失敗する状況に陥っている。

 そしてもう一つの理由として在野からiPhoneへ新たにインターフェイスに取り込める要素が底をついてしまったのかなと思えるのである。

 アップル社にはインターフェイス以外にそれほど強力な独自技術が備わっている訳でもないため、統合する要素が新たな刺激要素のはずだったが、どうも新分野を開拓できない状況に陥っているようである。

 最新のiPhone5Sに至っては、画面が大きいとかカラーバリエーションが多いとか、本体機能ではなく枝葉の部分にしか主要改善項目が見られなくなってきており、いよいよiPhoneの革新的ブームも終焉という感は否めない。

 私も昔ラジカセを買ってもらった時は嬉しかったが、だんだんその機能制約や音質に不満を感じてきて結局バラコンを求めるようなったように、オールインワンツールと言うのは入門段階としては最適だが、結局入門用は入門用でしかなく、iPhoneもまたIT初心者を喜ばせるおもちゃとしては十分過ぎるものではあったが、逆に言うとそれ以上の物でもないため、そろそろその最初の役割は終わりになりそうな気がする。

 まあラジカセの登場により音楽を語る人が増えたのと同じように。iPhoneの登場により俄かIT信者が増え、何も分かってないのに偉そうにITを語る輩が増えたのは苦々しくもあったが、普及という意味では意味のあった存在と言えるかもしれない。