Category Archives: オーケストラ

中国人はテクニシャンが好き?

 上海でずっとコンサートを聴き続けていると、中国の聴衆に喜ばれる音楽家のタイプが自然と分かってくる。

 特にソリストに聴衆の好みの差が強く見える。

 どういったタイプが中国の聴衆に好かれるのかというとずばり「テクニシャン」タイプの演奏家ということになる。

 つまり、中国の聴衆には奥深い味わいのある演奏より、どうも超絶技巧的な速弾きを行うような演奏がウケているようである。

 中国人ソリストたちの演奏を見ていても、まさに体育会系的演奏スタイルと言うか、力いっぱい自転車をこぐかのように力を入れて熱演する。
 まあそれはそれで音楽演奏スタイルの一つの要素なのだが、音楽の魅力というのはそんな形式的なところだけはなく、もっと深い内面的なところにあるはずである。

 しかし中国の演奏家たちはどうもテクニックを磨けばいい演奏になるのだと信奉しているようなフシがみえる。

 実際、彼らの音楽には「歌い」があまり感じられず、内面から飛び出してくる音のゆれというか心の動きが感じとれないのである。
 確かにテクニックとしてはうまいのだろうが、あれでは芸術ではなく単なる楽器芸であり、極端な言い方をすれば大道芸の延長でしかなく人の心を震わすようなものにはならない。

 また聴衆にも問題がある。

 演奏家がそういったテクニック偏重の演奏をするものだから、「歌う」演奏というものに慣れず、聴衆も心で音色を聴くという姿勢で音楽に接していない。

 つまり初めから音楽によっての心が震えるような体験を期待しておらず、ステイタス的な満足感や、超絶的な技巧や単に心地よいだけの音、激しいだけの音楽を観に来ている聴衆が大勢いるような印象である。

 それ故なのか、演奏後の拍手もどこか形式的であり、楽章間に拍手が起こったり、指揮者が指揮棒を下ろしていないのに総休止の部分で音が途切れた途端に拍手が起きてしまう。

 まあ楽章間の拍手については、事前知識や慣れの問題でもあり、時に楽章そのものがすごい演奏だったり、交響曲のフィナーレを思わすような終わり方だったりする場合があるので、拍手をしたくなる気持ちもわからないではないので。あまり目くじら立てて非難するものでもない。
 しかし、曲が終わっての興奮鎮まる前の早すぎる拍手や、むやみにやたらに猿の遠吠えごとくホーホーと無意味な歓声を上げ盛り上げようとする聴衆にはやはり辟易する。

 特にこちらがそれほど良い演奏じゃなかったと感じたような時でも、中国人ソリストが超絶技巧を見せたときはホーホーと言葉になってない歓声で盛り上げだけ演出する。

 これを聴くとああ、彼らは音を聴いていても音楽は聴こえていなかったんだなとがっかりするのである。

 どうやら上海は音楽鑑賞文化がまだ成熟しておらず成長過渡期のようで、今のところまだじっくり音楽を聴いて感動したいというより、ステイタスで聴きに行くといった人が多いようで、テクニシャンの芸を観に行く鑑賞スタイルのようである。


チェリビダッケのブルックナー7番のライブ映像

最近YOUTUBEを覗いていると、時々懐かしい映像に出くわす。
 その一つが、チェリビダッケが1990年に手兵のミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団を率いて、東京赤坂のサントリーホールで行った演奏会の映像で、非常に懐かしさを覚えた。

 忘れもしない1990年10月18日の夜で曲目はブルックナー作曲の交響曲の第7番である。

 何故懐かしいかというと、実は当日会場に足を運んでおり、この演奏を会場にて生で聴いていたからである。

 ただ、今でこそブルックナー好きを自認していて、この組み合わせと曲目であれば垂涎の内容であり、金がなくても借金しても行くかもしれないほど惹かれるのだが、実は当時はブルックナーの音楽というものを私は丸で知らなかった。

 もちろん知識としてブルックナーという作曲家がいることは知っていたが、作品を聴くことはほぼ初体験だった。

 そんなブルックナー初心者の私が、ファンからすれば超プラチナのチェリビダッケの演奏会に何故行ったかといえば、母親の知り合い経由で幸運にもチケットが回ってきたからである。

 協賛企業向けのチケットのようで、当然S席であり、前から15列目くらい超良い席だった!

 いまなら考えるだけでも気絶しそうなほど、すごい体験だったのである。

 しかし、上述のように当時の私は残念なほどのブルックナー初心者であった。

 というか生のオーケストラ演奏会でさえ、通算片手で足りる程度のビギナー聴衆であり、海外オーケストラも当然初体験だった。

 故に、これだけのプラチナ演奏会でありながら、当時の自分にはその価値を味わい切ることができなかったのである。

 居眠りこそしなかったが、ブルックナーの長くゆるやかな曲は非常に長く感じられ、自分の中でどう受け止めて良いかわからなかったのである。
 もちろん、音色は非常に美しく、音も非常に分厚く柔かったことは非常に印象に残っているが、いかんせんブルックナーやチェリビダッケ音楽性を理解するには当時の自分は未熟すぎたのである。

 今思えば非常に勿体無い体験だったのである。

 しかし、この時の縁というか体験が、その後の音楽鑑賞行動に大きな影響を与えてくれることになる。

 チェリビダッケの音楽の凄さの価値を認識してのめり込むようになったのは、NHKの特番か何かがきっかけだと思うが、禅を通じて音楽を語るチェリビダッケ氏の言葉に強く惹かれていくことになる。

 そしてブルックナーとチェリビダッケの偉大さを知った後、改めて当時の映像を確かめてみると、鳥肌が立つほど素晴らしい出来栄えだったということが分かった。

 改めて当時の自分がこの演奏を理解しきれなかったことを悔やむと同時に、結局はあの日があったからこそその後に感化された今の自分があったのかなと思うと、人生の出会いの不思議を感じるこの映像なのである。
 

ブラームス交響曲第4番

 クラッシックと呼ばれる曲は星の数ほどあり、私も数多く聴いてきているが、私にとってこのブラームスの交響曲第4番は特別な曲である。
 この曲は名曲の一つとして列挙されることも多いが、その評価ほどには演奏される回数もそれほど多くないのではないかという気がする。
 ブラームスの交響曲といえば、1番や2番がよく演奏され、それに比較すると4番が演奏プログラムに載ることは少なめな印象である。

 それは何故か? 

 まぁ私は演奏家では無いので詳しいことは分からないが、この曲は演奏が難しいというか深い表現力が要求される曲だからではないかと推察する。
 巷の名曲と呼ばれる曲などの中には、アマチュアオケなどのように演奏者の技術レベルが低くてもそれなりに曲の力で聴けてしまう曲もあるが、このブラームスの交響曲第4番はそうはいかない。
 この曲は演奏者を選ぶというか、それなりの技術を持っていい音色を響かせるオーケストラと、しっかりとそれをドライブ出来て表現力を引き出せる指揮者でないと、音楽が音楽にならず聴くに耐えない状態になってしまう。
 
 実際、先日YOUTUBEで日本のアマチュアオケの演奏会の様子がアップされていてちらっと見たが、始まってすぐに聴くに耐えられなくなり切ってしまった。
 普段ほかの曲ではアマチュアとてそこまで差を感じることはないのだが、この曲は演奏者の力量というか経験がモロに出てしまって辛かったのである。

 このブラームスの第4番は、言葉で説明しようとするするのはとても難しく、言葉が曲を薄っぺらくさせてしまうことがとても怖いのだが、敢えて勇気を出して書けば、人の心の憂いだとか迷いとかがこの曲の根底に流れていて、ため息をつきながら逡巡する人の心模様が表現されている曲となっている。
 ただそれは必ずしも暗く沈んだものではなく、心の内面に沸々と湧き上がる熱さと力強さ故の逡巡でもあり、前を向くが故のもどかしい心の葛藤であり、メロディがそういった心を時に鼓舞し、時に心に寄り添うように優しく包み込んでくれる。
第一楽章、第二楽章と、心の葛藤に向き合った後、第三楽章で一瞬華やいだ明るさを取りすが、第四楽章で再び悟ったように葛藤の中に戻る。
 そういった一人の人間としての人生を悩むような心の葛藤がここに存在している。

 この曲は、特に未来への希望の途中で心の孤独に耐えて自分と向き合わなければならないようなときには、非常に心に染みる。
 このような意味で、私にとって若い頃から非常に心の支えとなっている曲である。

故に迂闊に中途半端なレベルの演奏を聴きたくない曲であり、やはりそれなりに力がある指揮者でないと聴く気がおこらないのである。