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井村雅代コーチに金メダルを取らせてあげたい

 リオオリンピックが閉幕した。

 小池新東京都知事が赴いて引継ぎ式に参加しただの、安倍首相がマリオの姿などで登場したなど、お祭りが終わったという雰囲気になってしまっているが、まだパラリンピックがあるのに、この雰囲気はどうなのだろうかと思う。

 寧ろ、閉会式や引継ぎ式はパラリンピックが終わった時にやるべきで、このタイミングでやるのは中継ぎ式程度で良く、このままパラリンピックへ流れを繋いでいくべきだと思うのだが、違うだろうか?

 さて、そんな閉会式への不満はさておき、今回のオリンピックにおいて、シンクロナイズドスイミングの日本代表が「チーム」として銅メダルを獲得した。
 シンクロ種目ではこれで「デュエット」と併せて両方の種目で銅メダルを獲得したことになる。

 日本のシンクロ界は直近のオリンピックは低迷時代とされ、「チーム」は2大会連続でメダルを逃し、デュエットも前回はメダルを取れなかったのである。
 しかし一昨年から井村雅代さんがヘッドコーチ(HC)に復帰し、今回チーム・デュエットともに銅メダルを獲得し見事結果を出した。

シンクロ井村雅代HC

シンクロ井村雅代HC(引用元

 さすがメダル請負人の面目躍如といったところで、一時中国のコーチに就任した時は裏切り者扱いされたときもあったが、そういった汚名を払しょくする結果で、彼女によってようやく日本が世界のシンクロ上位国に復帰した感がある。

 井村さんの指導は非常に厳しいことでも知られているが、それは選手にメダルを取らせてあげたいという情熱の裏返しでもあり、愛情に満ちた指導だという気がする。
 まあ自分ならあの練習にはきっと耐えられないと思うが(例え違うスポーツであっても)、モチベーションを刺激する術は天下一品であり、別のことであれば叱咤激励を受けてみたい気がしており、一度会ってみたい存在である。

 さてそんなメダル請負人の名伯楽であるが、残念ながら金メダルには未だ手が届いていない

 シンクロ界ではロシアの壁が非常に高く、今回のリオを含めて目下5連覇中という高い壁になっているのである。
 日本のシンクロ界に長年貢献している井村コーチには是非一度は金メダルを取らせてあげたいと思うのだが、なかなかロシアの壁は高いのである。

 4年に一回しかないオリンピックであり、年齢から言っても今後何回もチャンスがあるわけでもないと考えると、是非次の東京で金メダルを取ってもらいたいという気持ちになる。

 しかしそのためにはロシアの壁を乗り越えなくてはならないのである。

 そこでお節介ながら日本とロシアの差がどこにあるのかと、過去の映像を片っ端からチェックしてみた。
 すると、やはりロシアとは大きな違いがあることに気がついたのである。

 何が違うと感じたかというと、日本とロシアでは拍子の取り方が違うのではないかということ。

 どういうことかというと、日本チームの演技は1、2、3、4とメトロノームでリズムを取るが如く、点と点で拍子を取るため、点から点への移動は非常にキレがあり、スピードもある。
 しかしその代わり、点から点への移動速度はどれも一律であるような印象で、結果として動きのリズムはシャープではあるが悪く言えば単調となり、ポーズの連続のような演技となっていたのである。

 これに対してロシアの演技はポーズからポーズへの移行が滑らかであり、スピードの変化が随所に加えられており、そこが魅せる要素となっていた。

 つまりリズムが点と点で途切れず、連続的につながった動きとなっているような印象なのである。

 例えていうならバイオリンで奏でられるワルツのようなもので、メトロノームで示されたリズムだけでは表現できないリズムの変化がそこにあるのである。

 ここが日本とロシアの差であり、これが単に技術的な差であるのかどうかは、私はシンクロの専門家ではないので分からないが、日本がロシアを上回るためにはこのリズム感の差を埋める必要があるように思えるのである。

 以前「フィギュアスケートと音楽」でも書いたが、シンクロナイズドスイミングは音楽が結果に影響する数少ない競技の一つであり、技術要素以外の音楽的な要素が結果に影響を及ぼす。

 それ故に、オリンピックで今より上を目指すには技術的な要素だけでなく、リズム感的要素を、それも音楽的な要素を身につける必要があるような気がする。
 もし音楽的な感覚を身につければ、ひょっとするとシンクロ競技の最大の目標である演技の同期性も音楽的なリズムで埋められる可能性もある。

 まあ、こんな素人の意見は釈迦に説教かもしれず、そんなこと分かっているよと怒られてしまうかもしれないが、井村HCファンとしては何としても次こそ金メダルを取っていただきたいのである。

夏に春の祭典とローマの祭り

 中国にいると、国家が人が集まって騒ぐことを好まないためか、お祭り的なイベントに接する機会がほとんどない。

 そういうイベント的なものはせいぜい春節の花火くらいなもので、日本で言う夏祭りや盆踊りのようなテンションを上げてくれる機会はあまりないのである。

 上海で6年も夏を過ごしているとさすがにそういった、夏祭り的な雰囲気がちょっと恋しくなる面もある。

 まあ私の場合は祭りそのものと言うより、夏祭りのもたらしてくれる音というか、リズムが恋しいと言ったほうが正しいかも知れない。

 そういった時に一つの代用としているのが音楽であり、ここ数週間そんな意味もあって繰り返し聞いているのが、ストラヴィンスキー作曲の「春の祭典」とレスピーギ作曲の「ローマの祭」である。

 何れもストラビンスキーバレエ三部作とローマ三部作と言われている三部作の中の一つの曲である。

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 春の祭典は、もともと原始宗教の世界を元につくられた音楽のようで、神に対する生贄の乙女が死ぬまで踊るといった狂気的な内容が表現されている。

 それゆえ、非常に複雑なリズムとメロディが数多く入交じり、不協和音が鳴り響くスリリングな音楽となっており、そういった点で日本古来の祭りの感覚に近い物があり、映画のクライマックスに近づいていくようにどんどん引き込まれ、聞いているこちらも理性的に聞くというより、本能を煽られる感じで非常にボルテージが上がる。

 ただその斬新的な過激な内容ゆえに1913年のこの曲の初演時は、クラシック音楽史上もっともスキャンダラスな1日として語り継がれるほど大騒ぎになったようである。

 一方「ローマの祭」は作曲者レスピーギがローマの4つの情景を描いたもので、第一楽章の冒頭から、暴君ネロへの恐怖心を感じさせるような鋭い切れ込みで音が始まり、スリリングな音楽な渦の中に巻き込まれていくように始まっていく。

 私は生涯数多くコンサートに接して来ているが、その中で東京で最初に聴いたこの「ローマの祭」ほど、鳥肌が立ったことはないことを鮮明に記憶している。

 それくらい衝撃的なスリリングな音であった。

 まあ全体の四つの楽章それぞれに違う祭りを描いているので、最初から最後までスリリングと言うことではないのだが、それぞれ全く事なった雰囲気なので「祭り」という言葉の意味の深さを教えてくれる音楽でもある。

 で、この4つ楽章のうち一番派手で騒がしいのが第4楽章の「主顕祭」で街のあちこちで大道芸人が騒いでいるのではないかというようなサルタレロのリズムの狂喜乱舞する情景が描かれ、まさに祭りの大騒ぎとなっている。

 ベートーベンの第九なんかも、実はこんな風に描きたかったのではないかと思える程、楽しげに描かれており、夏の祭り気分を味わうにはぴったりな気がする。

 いずれの曲も、日本とは遠く離れたロシアとイタリアの国の人間が作った祭りの情景をテーマにした音楽であるが、祭りという行事がリズムを以て人間の本能に働きかけるという関係でいえば、共通の物が感じられる。

 1年に1度は祭りで狂喜乱舞したいという感覚は実は世界共通なのかもしれないと感じるこの2曲である。

オーケストラを分解する

 最近、といってもここ数年であるが私自身の音楽の聴き方が変わってきたように感じる。

 音楽を聴きはじめたころは聞いたことのない新しい曲の経験を広げることに精力を注いでいたような気がするが、最近は主要な有名曲は聴きつくしてしまっており、演奏会めぐりなどという金のかかる趣味人生も上海に来てから行きづらくなってしまったので手元にあるライブラリーを繰り返して聴く回数が増えた。

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 まあいくら聞いても音楽に飽きることがないというのが私の性分だが、ただ最近聴き方に変化が起きた。

 どう変わったかというと、同じ音楽に深さを見出すような聴き方に変化してきたのである。

 それは何かというとオーケストラの分解である。

 つまりオーケストラの音楽を総合的に聞き流すのではなく、楽器一つ一つにスポットを当てて音楽を聴くようになったと言えばいいだろうか。

 オーケストラには言うまでもなく数十の楽器があり、それぞれがある時はユニゾンでひとつの旋律を、或いは全くバラバラのメロディラインを奏で結果として一つの響きを作り出す。

 この楽器一つ一つの音を聞き分けながら音楽を聴くのが私の言うオーケストラの分解で、全体の響きの中に各楽器個々の音の響きを見つけるのである。

 そうやってきくと聴き慣れた曲に実に新鮮な発見がある。

「おお、この(聴き慣れた)旋律の中であの楽器はこういう音を出していたのかぁ」

など、オーケストラの響きの中に埋没しそうな一つの楽器の響きを発見する作業はとても新鮮である。

 特に木管楽器や金管楽器など、ソロ以外の部分でどう鳴っているかを見つけるのは非常に面白く、聴き慣れた音楽の流れに新しい発見をすることができる。

 もちろん、オーケストラとして鳴っている中で一つの楽器の響きを聞き分けるのは非常に集中力を要求される作業であり、特にファゴットやホルンなど、全体の響きを支えているような楽器の音をソロ以外の場所で拾い上げるのは非常に大変で、生演奏で聞いてもなかなか拾い上げるのは大変なのに、ましてや質の悪いCD録音や安っぽい再生装置ではどんなに頑張ってもなかなか聞き分けられない。

 でもこれらの楽器の音を響きの中に見つけた時は非常に嬉しいのである。

 この嬉しさはなんというか、一つの会社を支える平社員や事務方の頑張りを見つけたような、イベントで言えばスポットライトの当たってない裏方の高度な職人芸を発見したような、そん嬉しさなのである。

 そしてこうやって一つ一つの音が拾い上げられるようになると、オーケストラの中でどの楽器とどの楽器が絡んで一つの響きやメロディを作り上げているのかが分かってくるから余計に音楽を聴くのが楽しくなり、さらに作曲家の癖なり個性に近づくことが出来る気がする。 

 もちろん演奏している彼らや指揮者などはこの分解作業を毎回当たり前のようにやって音楽を作り上げているのだから実に敬服に値することを改めて感じる。

 こんな聴き方をしているものだから、実は先月日本に帰国した時にサントリーホールに行った時も、プログラムが著名なソリストが登場したコンチェルト(協奏曲)であったにも関わらず、ソリストそっちのけでオケ側の木管やホルンの動きや響きばかり気にしていた記憶がある。

 私にしてみればソリストの演奏が上手なのは当たり前で、それをどうオーケストラの一つ一つの音が支えているかに興味があったのである。

 このオーケストラの分解作業は実に止められない、まるで機械屋の機械いじりのような状態の現在の私である。

やってみたい職業

 現在フィギュアスケートの大会が上海で行われているが、まあ自分の見識眼は健在のようで、音楽と選手の動きを見て、この選手は転ぶだろうなと感じた選手はまずジャンプに失敗することを当てることができる状況は今も変わっていない。

 つまり音楽と動きがシンクロしていないことで、選手の動きのリズムの悪さを見抜けるというか感じ取れてしまうのである。

世界フィギュア中国大会の村上佳菜子選手

世界フィギュア中国大会の村上佳菜子選手

 フィギュアスケートというのは音楽を使う数少ない表現競技であり、そのため音楽とのかみ合わせが競技者の動きに大きな影響を与えている。

 たとえ一発目の高度なジャンプが成功して調子がよさそうに見えても音楽に乗りきれていないポイントでジャンプを行っている場合は、後々にズレを生じさせ、結局別のポイントで転ぶ。

 また選手の調子もさることながら、音楽自身が選手が滑りにくいであろうなぁという不適切な選曲が行われているようなケースも沢山あり、実際あんな曲では滑りにくいだろうと感じた場合は成績も伸びてこない。でもそういう選手の技術が低いかと決してそういうわけではない。

 つまり力はあるのに音楽への対応が適切ではないため実力を発揮できていない場合があると私は思うのである。

 そんな時、ああそばへ行って私がアドバイスできたらなぁと僭越ながら思ってしまう。こんな音楽を使ってこういう組み立てにしたらもっと表現が伸びるでしょうと感じることが非常に多い。

 故にもし人生許されるのなら、フィギュアスケートのミュージックアドバイザーのようなことをしてみたいのである。

 もちろん、それが生活できるほど職業として成立するのかわからないし、こんなスケート素人が首を突っ込める世界ではないのかも知れないが、過去に音楽を絡めた表現活動をやってきた自分にとっては、今のフイギュアスケート界の音楽の使い方の現状を見ていると口を突っ込みたくウズウズするのである。

原文

 

フィギュアスケートと音楽

 オリンピック競技の中で使用する音楽が競技に影響する種目は数多くない。
 思いつく限りでは新体操、シンクロナイズドスイミング、そしてこのフィギュアスケートくらいであろう。

 その中でもフィギュアスケートにおいて音楽の要素の占める割合は侮れないものがある。

 実際の得点上でも構成点として音楽の解釈に対して10点満点の配点が与えられ、さらに加重がかけられるのでSP、FS合計で男子で最大30点、女子でも最大24点の配点となる。

これまでの最高点が200点程度の現在のフィギュアスケートの採点方式の中では、この音楽の解釈に対する配点がいかに低くないかわかる。

 つまり音楽の使用方法いかんでは、10点差などすぐに上下するということである。例えば音楽に合わせずジャンプやスピンをばらばらに行えば、それらがどんなに技術点が高い技であろうとも、映像と音がシンクロしないという構成の面で点が低くなる。

 つまり音楽に合わせて演技しないと高い点がもらえないわけで、音楽のどこでジャンプを入れ、スピンを入れるかを考えて構成を組み立てる必要がある。もちろんスタートからフィニッシュまでどう盛り上げていくかも大事な要素となる。
 逆に言うと演技全体の流れを考えながら、場面場面でジャンプやスピンを入れやすい音楽を選ぶことが、フィギュアスケートの得点稼ぎの第一歩ともいえる。

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 また、採点に直接表れない部分で、音楽は競技者に影響を与える。
本来、音楽が表現する主たるものは感情であり、それらが演技者の心理状態や感情にも大きな影響を与えるからである。
 競技者はスポーツとしてスケートを滑っていても、人間が行うことであるからには、その心理状態が動きに大きな影響を与えるのは言わずもがなで、その心理状態を左右してしまうのがこの音楽という要素である。

 小気味よい音楽であれば心が軽やかになり、雄大な音楽であればたっぷり余裕のある心理状態で演技に向かうことができる。
 そしてその心理状態はそのまま技のキレになって現れる。音楽に気持ちが乗ることができれば、競技者は気持ちよく演技ができいい演技につながるのである。

 ただ音楽というのは競技者の性格との相性があり、さらには演技の特徴との相性の問題もある。故に同じ技術レベルの競技者が同じ音楽を使えば同じ心理状態になり同じ演技ができるというものでもない。

 ノリノリの音楽が好きな人が、情感たっぷりの音楽で演技しようとしても堅くなってしまうであろうし、逆に小気味の良い動きの苦手な人がビートの利いた音楽では、音楽に乗り切れずどこかぎこちなくなってしまうかもしれない。
 かのトリノの金メダリスト荒川静香さんも小気味良い細かい動きが苦手だったので、たっぷりとした曲を選曲していたとのことのようだ(ちなみにオリンピックのFSはトゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」)

 さらにこれらの音楽から感情的な影響を受けるのは競技者だけではない。
 審査員や観客も同じである。
 特に観客に音楽が与える影響は小さくなく、観客を巻き込んで盛り上げる演技が出来れば声援にもつながり、それらの声援が今度は競技者に勇気を与えさらには審査員の審査にも少なからず影響を与える。
 逆に個人の趣味に走りすぎたマニアックすぎる音楽は観客には受け入れがたく、競技者が会場から浮き上がってしまい、なかなか上位にはいきにくい。
 実際、上位に来る選手はほぼ例外なく観客に対して説得力のある音楽を使っている
 つまり音楽選びにセンスがなければフィギュアスケートでは上位にいけないことになる。

 ここがスポーツであるにも関わらず、音楽が多大な影響を与える「フィギュアスケート」の妙である。

 このあたり、フィギュアスケートの競技会を下位からずっと見ているとその差がよく分かる。私はスケートの専門家ではないが、演技が始まって10秒くらい動きを見れば大体どのくらい順位に属する選手かぐらいはすぐ見抜ける。

 下位に低迷する選手はまず音楽とスピードが動きがあっていないし、選ぶ音楽もスケートに向かないような音楽だったりする。そういう選手に限ってやはりジャンプなども転倒して尻餅をついたりする。体の動きが音楽に乗り切れていないためうまく飛べないのである。

 その点上位に来る選手はさすがであり、音楽にうまくシンクロして演技をする。さらにその中の数名の本当にきっちり音楽にシンクロできた選手がやはり表彰台に上る。このあたりテレビを見ていてほとんど予測を裏切られたことはない。そのくらい音楽で演技の良し悪しが見抜けてしまう。

 さてさて、今回のバンクーバーオリンピック、いよいよ女子シングルのFSを明日迎えるが、SPを見る限り上位二人のキムヨナと浅田真央の演技はさすがであった。
 小気味よくキレが良かった分だけヨナが少し上まわったという感じであろう。

 で肝心のFSの曲はヨナがガーシュウィンのヘ調のピアノ協奏曲に対して、真央がラフマニノフの前奏曲「鐘」という対決で、アメリカとロシアという全く対照的な選曲となっている。

 この二人、もう史上稀に見る高いレベルなので個人的にはもう言うことがないのだが、選曲の面だけで言うとガーシュウィンの曲はほとんどジャズといってよいくらいのリズム感を要求されるので音楽に乗り切れるかがポイントで、その点ラフマニノフはたっぷりした曲なので慌てず音楽に入れるのが安心要素である。

 まあヨナがリズムに乗れたらヨナに軍配が上がりそうだが真央がたっぷり大きな演技をすることができれば逆転の目は十分ある。
 どちらにしろこの二人の演技は見るべき価値があり、FSが楽しみである。