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大阪北部地震の被害に見る日本の耐震化の進展

 先日の6月18日、大阪府北部を震源とする震度6弱の地震が起きた。

 報道によると、一昨日19日現在でこの地震により4名の方がなくなり、負傷者376名、住宅の全半損壊が252棟あったと報告されている。
 工場なども一部壊れたり、ガス水道などのインフラ復旧にも数日かかっている場所があるようだ。

 亡くなられた方の一人は9歳の女の子で、建築法違反であったプールの目隠しブロック壁の下敷きになって犠牲となったと報道され、世間の耳目を集めている。
 ただ亡くなられた方やケガをされた方は大変気の毒だが、大阪という大都会エリアにおいて震度6弱の地震が起きて、たったこれだけの死傷者の数で済んだというのはちょっと驚きでもある。

 しかも、現在関西圏は外国人観光客が非常に多く訪れており、人的な面でいえば地震という現象に未体験の人も少なくなく、そういった環境において大きな混乱もなかったということも含めて日本の地震対策は凄いなという感想である。

 一部では、電車の復旧まで7時間を要したことに不満も出ていたようだが、あれだけ大きな地震の後に、たった7時間で交通インフラが再開できたことのほうが逆に驚きであり、復旧に対して安堵の言葉ではなく不満になってしまう時点で、いかに現代の日本の社会の耐震化が進んでいるかを示している。
 それだけ阪神淡路大震災や東日本大震災の教訓を経て、都市の耐震化が進んでいるということになるのだろうか。

 地震被害の単純な比較はなかなか難しいが、2016年の台南地震では100人以上が亡くなり、2008年に中国四川省で起きた地震では1万5千人もの人が亡くなった。
これらと比べると今回ずいぶん犠牲者は少ない。

 もちろんゼロではなかったのだから人数の問題ではないのだが、やはり地震対策というところでは、かなり完璧に近いところまで来ているのが日本の現状なのかなという気がする。

 ただ天災に関しては油断大敵であり、手抜き工事や点検漏れなどをさせない厳しい社会の目が必要なことには変わりはなく、さらには各自の室内の地震対策や日常の防災意識の徹底は必要かなとは思う。

しかし日本国民が取り組んでいる都市の耐震対策の効果がかなり出たといえるのが今回の地震を取り巻く状況であったという気がしており、犠牲者がゼロになるよう、あとちょっとの差を早く解決してほしいものである。

終戦記念日に思う戦没者追悼式と天皇陛下と靖国参拝問題

 昨日の終戦記念日に日本で「全国戦没者追悼式」が行われた。
 終戦記念日を「終戦」と呼ぶかどうかについて2年前に「終戦記念日と言う言葉への批判」書いたが、この日に改めて追悼式について考えてみる。

 ところで、今回の式典では異例のことが起きたと報道されている。

 天皇陛下が式典からご退席の際に、慰霊の碑をじーっと眺めて1分ほど立ち止まったというのだ。

 気になってYOUTUBEで式典を通してみてみた。
 (考えてみれば、戦没者追悼式を通して見るのは初めてである)

 すると、報道通り天皇陛下は退席の際に1分ほど慰霊碑のほうをジーと眺め、御動きにならなかった。
 まあ司会から特に言葉が無かったので、次に動くきっかけのタイミングを待たれていたのだと推測できなくはないが、美智子皇后陛下が声を掛けるまで動かなったのである。

 天皇陛下があの時に何を思ったかなどは私には知る由もないが、何となく陛下は今回の追悼式の対象に、日本人戦没者しか含まれていないことに気づかれたような気がするのである。

 まあ日本政府が主催する追悼式なので、追悼の対象が戦争で亡くなられた日本の軍人や日本の民間人であることは当たり前ではあるのだが、そこに陛下の心にひっかかった部分があったのではないかという気がするのである。

 どういうことかと言えば、天皇陛下は美智子皇后を伴ってここ数年慰霊の旅を実施しており、当初は広島、長崎、沖縄など国内が中心だったが、その後、パラオやサイパン、フィリピンにまで足を伸ばして慰霊の祈りを捧げる行動を続けている。

 もちろん、その現地はかつて日本軍が多くの戦死者を出した場所ではあるが、同時に敵方であったアメリカ軍もそれなりの戦死者を出している場所でもあった。

 それぞれの地で天皇陛下は、敵味方関係なく戦争で命を落とした軍人や現地住民たちへ慰霊の祈りを捧げており、戦争の犠牲者に敵も味方もないことを直接肌で感じ取ったのではないかという気がするのである。

 この流れから言えば、政治状況さえ許せば中国へも訪問したい意識はあるのかもしれない気がする。(まあ現在の政治状況では流石に難しいのだろうとは思うが。)

 実はそういった天皇陛下の分け隔てない気持ちは、今回の追悼式で述べられたお言葉にも現れており、今回戦没者を自国民に限定せずお話になられていることが伺える。

具体的に書きだせば

「(前略)先の大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。(後略)」

 と述べられており、自国民に限られない犠牲者に追悼の意を表しているのである。

 もちろん、日本政府の主催する式なので、日本人だけが対象ととらえられなくもないが、直前に安倍総理が式辞で「三百万余」と日本人限定を示唆する言葉を敢えて言ったことと比較すれば、天皇陛下の追悼の意を表したい相手とは、戦争で亡くなった人全てなのではないかと思えるのである。

 それがあの追悼式での立ち止まりであり「全国戦没者追悼之霊の碑」の「全国」という言葉に考えらえるところがあったのではないかと勝手に推測している。

 ところでこの終戦記念日で必ず話題になるのが、時の政権の首脳が靖国神社へ参拝するかしないかの問題であり、隣国からの非難も含めてなかなか難しい政治問題化している。
 まあこの靖国参拝問題は、本来は外国に気を使う必要のない内政のことと言い切れそうな気もするが、靖国神社自体が戦前の国家体制の象徴であるから、そう簡単な問題でもない。

 今の靖国神社をどうとらえるかは、終戦記念日を境とした前後の日本をどうとらえるかにかかっているような気がする。

即ち、靖国神社を含めた戦前の国家体制を、終戦を機に全て否定したから今の日本があると考えている人と、終戦とは戦争に負けたり憲法が変わったりしただけで明治からの日本が基本的に続いていると思っている人では、自ずと靖国への思いは違うだろうと思う。

 この違いにより、同じ戦災で亡くなった人に対しても、国のために命を捧げたと感じるのか犠牲になったと感じるのかが違うのだろう。

ただ毎年行われている戦没者追悼式はそういった、靖国という政治的なイデオロギーを排除したところで政府が主催して行われている。
これに関しては諸外国も口出しをしていないことから分かるように、純粋に追悼の場として認められており、靖国参拝とは明らかに意味が違うものとしてとらえられている。
 
 やはり靖国は戦前の象徴であり、私は現在の日本は戦前を否定したからこそ、平和と繁栄を得られていると考えており、靖国はもう政治家が政治の世界に持ち出すものではないと考えている。 

 故に今回閣僚全員が参拝をしなかったのは、賢明な判断だととらえている。

自然災害死亡者を犠牲者と呼ぶのはおかしい

 先日も御嶽山の噴火の事故について書いた際にこの点に触れたが、世間の報道ではやたら自然災害の死亡者に対して「犠牲者」と言う言葉が氾濫しているが、どうもこの言葉の使い方は変であるように感じている。

 つまり今回亡くなった方は「犠牲者」ではなく、単に「死亡者」と呼べばで良いのではないかと思うのである。

 何がどう違うのかと言えば、この「犠牲」というのは、単に死んだり怪我していることを指すのではなく、何かの目的の代わりにマイナスの役割を引き受けることを意味する。
 例えば野球では「犠牲バント」や「犠牲フライ」などの言葉が使われ、他の人を進塁させるために、概ね自らアウトになる人の行為を指す。

 それに対して今回の御嶽山噴火事故の死亡者は何かのため、例えば山への生贄や他の人の利益のために亡くなったわけではなく、自らの意思で自らのために山に登り、不幸にも自然災害に遭って亡くなってしまっただけで「何かの犠牲になった」わけではない。
 確かに、ネットで辞書を調べてみると「コトバンク」では災害で亡くなった人も「犠牲者」に含まれるような説明になっているが、寧ろこの辞書で書かれている説明がおかしく、世間での誤用が反映されてしまったもののように思われる。

 まあ登山での自然災害と言うのは自己責任ではあるものの不可抗力で事故に遭うために、その結果の責任を何か別の物に心理的に押し付けて「犠牲になった」と思いたくなる気持ちは分からないではないが、やはり運悪く被害を受けてしまっただけで、別の他者に責任は全くなく「犠牲者」と言う言葉を使うのはおかしいと思うのである。
 
 逆に日本の戦争での死者は「戦没者」と呼ばれ「犠牲者」とあまり呼ばれないことに最近気がついた。
 民間で空爆を受けて死んだ人に対しては「犠牲者」という言葉をそれなり使っている例も見つけるが、戦死者に関しては敢えて「犠牲者」と言う言葉を避けて、戦没者という言葉を使っているようである。
 つまり国のために戦ったが、国の「犠牲」になったわけではないという解釈が働いているようにも見える。

 実際そこまで気を使って言葉を選んでいるかどうかわからないが、民間レベルでは頻出する戦争での「犠牲者」と言う言葉も、公的機関の文章ではあまり使われていない。
 自然災害で「犠牲者」と言う言葉を使うなら、戦死者こそ「犠牲者」と呼ぶべきなのだと思うが、どうも実際の報道などでは使い方がずれているような気がする。

とってつけたような知識の押し付け

最近地下鉄の中のモニターでよく流れている科学の豆知識的な番組。
宇宙についてとか、地球の自然についてとか、はたまた中医学的知識などが放送されているのだが、どうもそれらに全ておいて共通して感じるのは「AはBである」といった紋切り型の知識の押し付けである。

 それぞれの科学分野においては、世の中にはいろんな考え方や学説があり、その「AがBである」ためにはいろんな条件が必要であろうと思われることに対して、たった一つの視点から「AはBである」ということをただひとつの真理であるかのように断定的に言い切っている。

 私はこの点が非常に気になる。

 その伝えている事実自体は間違っているとまで言わないまでも、条件が崩れれば正しくなくなるであろう場合が多々あるからである。

 中国の実際の教育の内容は知らないが実は全てがこれ式なのであろうかと思うとちょっと怖い点がある。

 もし中国の教育が全てがこれ式であるならば、「AがBである」ことの理由を知ろうとする訓練がされていないことになり、その成立条件が崩れたとき、どうして「AがBではなくなる」のかについて理解できないと思うからだ。

 今回の高速鉄道事故で「雷が原因である」といった報道を盲目的に信じている中国人の姿がテレビで報道され、このことも非常に気になった。

 雷で事故が起きたとすれば、雷がどうなったからあの事故に繋がっのだとという思考の組み立てが本来あるはずなのだが、そのインタビューに答えている彼はそれなしに盲目的に信じていたのである。

 また中国伝統の知恵とされている中医学の知識などもよく「Aを食べるとB」だという現象は多く整理されているが、「何故、Aを食べるとBになるのか」について成分分析などを検証しているといった事実はほとんど見たことが無く、どうも表面的現象を取り上げた自然科学の端緒とは言えても医学とまで言えるような理屈・理論はあまり表に出てくるような状況にはなっていない。

写真はイメージ

写真はイメージ

 掘り下げてみれば実はAがBになっているのではなく、AがCになるとき、Dという条件であればさらにCがさらにBになるのかもしれず、Dの条件によってはAはBにはならないかもしれないのに「Aを食べるとB」という知識で終わっている。

 これらのように、どうも中国人たちは「AがBである」という形で覚える以外の形で、別の答えの可能性があるかもしれないという考え方に慣れていないようだ。

 逆に我々日本人からすると、そんな「AはBである」式の決め付けの押し付け的な言葉は、どうも思慮が浅く見え辟易するのであり、そこがいろんな場面で日本人が中国人を馬鹿にするひとつの理由であるように思う。
 
 事故で亡くなられた方は気の毒だが、まだちゃんと事故原因究明も安全対策も施されていないのに、「もう安全」という言葉をそのまま信じらされている方々が日本人からするともっと気の毒だと思う。

今回の高速列車の事故で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。

上海ワルツ

まだ危険は続いているかもしれない

宮城県沖で発生した地震の規模があまりにも大きく、あまり目立っていないが茨城県沖や長野でも地震が起きている。

  さらに今回の地震の2日ほど前に、やはり宮城県沖の太平洋で地震が起きていた。

 それなりに規模が大きかったため、その地震が本震とされ、余震に注意するようになどのニュースが出ていたが結果的にはその地震が前兆地震だったことになる。

 つまり何が本震なのか余震なのかなんて判断は実は地上で人間が勝手に決めているだけで、ちょっとやそっとの人間の浅知恵では、地下で起きている地震のことについてうかつには判断することは難しい。

 そうして見ると、今回も大きな地震が東北で起きたため注意がそこへ言ってしまって、関東の人間などは自らの身の回りについての意識がかなりおろそかになっている気がするが、実はまだ危険は去っていないのではないかと私は懸念する。
 
 その危険は何かといえば、以前から久しく言われていた東海沖地震の誘発発生である。

あまりイタズラに恐怖を煽っても仕方ないが、相模湾で起きるかもしれないとされている地震が今回の地震で誘発されて起きないとは誰も言い切れない。

 今回の地震でエネルギーがそれなりに開放されていればよいが、そんな人間の都合よく動いてはくれないのが大自然である。

 来週18日には地震が多いとされる満月を迎えるため、そのあたりの懸念がどうにも拭えない。 
私の考えすぎであることを祈るが、当面用心するに越したことはないのである。

 ところで、今回の地震の前にクジラの大量死体が茨城の浜に打ち上げられていたそうだ。

 実は先日のNZランドの地震の際も半年前の大きな余震?と思しき時期からクジラの死体打ち上げが続いていたと伝わっている。

 科学的因果ははっきりしないが、これだけ奇妙に偶然が重なるのにはやはり因果関係を疑っても良いような気がする。

 また今後はクジラの死体が大量にあがったら地震に注意するようにと呼びかけがあってもいいのではないかという気がする。

 因果関係がはっきりしないうちはあまり科学的ではないという印象があるが、どうも人間の観測よりは余程正確な気がする。
 今後も動物の異常行動には要注意である。

写真はイメージ

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