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日本発祥の扇子が活躍するバレエとフラメンコ

 先月、スペイン国立バレエ団が上海に来ており、その公演を見てきた。

 まあ公演全体の感想などはここでは割愛するが、鑑賞中にちょっと気になったのはダンスの小道具として扇子(せんす)が使われていたことである。
 過去にもフラメンコの公演は見たことがあったが、そういえばやはり扇子が使われていた。

スペイン国立バレエ団のプログラムの写真

 扇子というツールはいかにも東洋的であり、日本的である。
 それがなぜ西洋伝統文化の一つであるフラメンコで使われているのか?

 はて扇子のルーツはいかなるものかと、ウィキペディアなどネットの情報を色々調べてみた。

 すると、団扇(うちわ)のような道具は、紀元前のエジプトや中国など世界各地にあったようだが、折りたたみ式の扇子が生まれたのは日本で7世紀頃のようであることがわかった。

 まあ古い話なので諸説あるようだが、中国には宋代の10世紀末に日本の僧が王朝に献上した記録があり、そこから広がったとのことなので、日本発祥というのはほぼ間違いないようである。
 つまり現在中国でお土産として売られている扇子は中国発祥ではなく日本がそもそものルーツということになる。

 そして16世紀の種子島の鉄砲伝来を機にポルトガルとの貿易が始まると、日本の扇子はポルトガルにわたり、隣国スペインなどイベリア半島の貴族の女性たちの間で流行することになる。

 一方でフラメンコ自体は17世紀初頭にアンダルシアのヒターノと呼ばれるモーロ人(ムーア人)のコミュニティがモリスコ(改宗イスラム教徒)の歌舞音曲を大胆に取り入れてうまれたのが、現在のフラメンコと呼ばれる芸能の原型だとのこと。

 そして恐らくこのフラメンコの草創期にちょうど日本の扇子が入り込み流行し、フラメンコに欠かせない小道具の一つとして取り入れられていったのだと推測する。
 ちなみにフラメンコの扇子は「アバニコ」と呼ばれるようで、現地での装飾品などでは扇子に独自の装飾が加えられたりしているが、ダンスで使われるものは基本的に無地で、日本の扇子にイメージが近いものが使われている。

 つまり、先日私が目にしてきたように、フラメンコダンスの舞台で使われる扇子は日本由来ということになる
 
 日本発祥の扇子がフラメンコに欠かせない小道具になったとはなんともスケールの大きい歴史的経過である。

 しかし、そうやって調べていくと、実はフラメンコだけでなくクラシックバレエでも扇子が使われる演目があること分かった。

 私は直接舞台を見ていないので伝聞にはなるがレオン・ミンクス作曲のバレエ「ドン・キホーテ」の中で主人公が見かけた宿屋の美しい娘キトリが踊るシーンで使われているという。
 この「ドン・キホーテ」の原作者はスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスであり舞台もスペインのラ・マンチャ地方、発表されたのが1605年であり日本から扇子が持ち込まれた時期と一致する。

 つまり、当時のスペインでの流行の世相を表す小道具の一つとして扇子が登場したのであろう。
 更にそれがのちの世にクラシックバレエ作品となったときにそのまま取り入れられ、欠かせない演出小道具として使われたことになる。

 こうやって調べていくと、今現在日本におけるクラシックバレエやフラメンコは、西洋文化の舶来品文化のようにして扱われているが、実はその西洋文化を支える一端として日本発祥の文化が存在することに気づくのである。

 日本の落語や日本舞踊で小道具として使われる扇子が海の向こうでもバレエやフラメンコで同じ由来のものを使っていたのである。

このことに気づくと、世界の文化の歴史の繋がりに面白さを感じずにはいられないのである。


夏に春の祭典とローマの祭り

 中国にいると、国家が人が集まって騒ぐことを好まないためか、お祭り的なイベントに接する機会がほとんどない。

 そういうイベント的なものはせいぜい春節の花火くらいなもので、日本で言う夏祭りや盆踊りのようなテンションを上げてくれる機会はあまりないのである。

 上海で6年も夏を過ごしているとさすがにそういった、夏祭り的な雰囲気がちょっと恋しくなる面もある。

 まあ私の場合は祭りそのものと言うより、夏祭りのもたらしてくれる音というか、リズムが恋しいと言ったほうが正しいかも知れない。

 そういった時に一つの代用としているのが音楽であり、ここ数週間そんな意味もあって繰り返し聞いているのが、ストラヴィンスキー作曲の「春の祭典」とレスピーギ作曲の「ローマの祭」である。

 何れもストラビンスキーバレエ三部作とローマ三部作と言われている三部作の中の一つの曲である。

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 春の祭典は、もともと原始宗教の世界を元につくられた音楽のようで、神に対する生贄の乙女が死ぬまで踊るといった狂気的な内容が表現されている。

 それゆえ、非常に複雑なリズムとメロディが数多く入交じり、不協和音が鳴り響くスリリングな音楽となっており、そういった点で日本古来の祭りの感覚に近い物があり、映画のクライマックスに近づいていくようにどんどん引き込まれ、聞いているこちらも理性的に聞くというより、本能を煽られる感じで非常にボルテージが上がる。

 ただその斬新的な過激な内容ゆえに1913年のこの曲の初演時は、クラシック音楽史上もっともスキャンダラスな1日として語り継がれるほど大騒ぎになったようである。

 一方「ローマの祭」は作曲者レスピーギがローマの4つの情景を描いたもので、第一楽章の冒頭から、暴君ネロへの恐怖心を感じさせるような鋭い切れ込みで音が始まり、スリリングな音楽な渦の中に巻き込まれていくように始まっていく。

 私は生涯数多くコンサートに接して来ているが、その中で東京で最初に聴いたこの「ローマの祭」ほど、鳥肌が立ったことはないことを鮮明に記憶している。

 それくらい衝撃的なスリリングな音であった。

 まあ全体の四つの楽章それぞれに違う祭りを描いているので、最初から最後までスリリングと言うことではないのだが、それぞれ全く事なった雰囲気なので「祭り」という言葉の意味の深さを教えてくれる音楽でもある。

 で、この4つ楽章のうち一番派手で騒がしいのが第4楽章の「主顕祭」で街のあちこちで大道芸人が騒いでいるのではないかというようなサルタレロのリズムの狂喜乱舞する情景が描かれ、まさに祭りの大騒ぎとなっている。

 ベートーベンの第九なんかも、実はこんな風に描きたかったのではないかと思える程、楽しげに描かれており、夏の祭り気分を味わうにはぴったりな気がする。

 いずれの曲も、日本とは遠く離れたロシアとイタリアの国の人間が作った祭りの情景をテーマにした音楽であるが、祭りという行事がリズムを以て人間の本能に働きかけるという関係でいえば、共通の物が感じられる。

 1年に1度は祭りで狂喜乱舞したいという感覚は実は世界共通なのかもしれないと感じるこの2曲である。

上海で撮影された映画「昴―スバル―」

 ひょんなことから、この映画の存在を知ったのでDVDを買って見てみた。

 原作は同名の人気漫画のようで、私はこの作品を見たことがないが、漫画を映画化したときに往々にしてあるように、この漫画が好きな人がみたらあっさり過ぎるのではないかと思えるような内容だった。

 原作を切り離して考えれば脚本としてはそこそこ頑張っている内容のような気もするが、恐らく映画化にあたって漫画のストーリーのエッセンスを抜き出してはいても、原作に織り込まれているであろうもっとドロドロに深い内容までは救い上げられていないであろう。

 まあ何十話、何百話に渡って描かれた原作をたかだか2時間程度に押し込めてしまうのだから、それなりに内容をはしょらなくてはならないというのは仕方ない。
 そうは言っても、映画だけを見ている自分からしてもあっさりしているので、やはりエネルギーとしてはちょっと弱めの作品だ。

 今回映画用にストーリーも若干の設定変更が行われているらしく、例えば原作には上海は登場しなかったようで、故に映画ストーリー上も国際都市というカテゴリ以外は上海というステージに意味があるわけではない扱いだった。

 まあ今回アジア各国のコラボという触れ込みもあり、韓国・香港・中国といった共同制作体制ゆえに、作品中に東方神起らが起用される中、映画制作会社の都合で上海が選ばれたようだ。

 よって上海が舞台になっているシーンでさえ中国語のシーンはほとんど登場しない。
 まあこういった設定の変更なども、原作にあったであろうエネルギーを削ってしまった要因もあるのかもしれない、

 で、見ていない人のためにあらすじ的説明は避けるが、主役の黒木メイサさんなど出演者はよく頑張っている。

 恐らくダンスシーンには替え玉ダンサーも混じっていると思うが、本人の動きもかなりさまになっている。
 聞くところによると、何度かオーディションをやったが、主役に適う動きのできる女優が見つからず、最終的にオーディションの上、彼女に白羽の矢が立ったとのことである。

 もとはクラシックバレェ未経験らしいがそれなりに見せているのがさすが女優である。

 で、ストーリーまあまあ、役者よしのこの映画であるが、私の印象で言えば、監督を含めたスタッフワークがいただけない。

 長い間音に関ってた自分にとっては、アテレコのシーンが口とあっていなかったり、音場の考慮されていない台詞の録音を聞いてしまうと非常に耐えがたい。天下の東宝がよくこんな録音と編集でOKを出したなぁというくらい気になる。

 またシーン構成や演出的な盛り上げ方、音楽の使い方にも、あっさり過ぎる筆遣いしか感じられず、それがこの映画を平面にして殺してしまっているなぁという印象である。

 ダンスの持つエネルギッシュな要素や、主人公のキャラクターをもっと生命力あふれる印象で描けるはずなのに、監督の作風なのかいまひとつ浮き彫りさせきれていないのが非常に残念である。

こんな映画を見るにつれ、生意気にも自分で映画を撮ってみたいと感じてしまった。
 まあ画像に関しては素人なので稚拙なものしか描けないかもしれないが少なくとも音に関してはどうにもムズムズする。そんな気持ちに刺激を与えてくれたのがこの作品である。