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上海ディズニーランドの行く末が心配

 先日、ハロウィンの日に川沙の方に仕事で赴く機会があり、帰りついでに久しぶりに上海ディズニーランドの周辺を訪れてみた。
 というのは、つい先日ダイヤモンドオンライン社のネット上に出した記事の中で上海ディズニーランドがガラガラであるようなことが書かれていたからで、ちょっと心配になって様子を見に行ったのである。
このほかにも見込みの半分しか来場客がないなどの記事も見かけたので、実際の状況がどうなのかを確認したくなったというところである。
まあ上記の記事では、ガラガラと言いながら順番待ちに75分程度待たされる施設もあるなど文章表現がちぐはぐに誇張されているような面もあり、実際の状況がつかみにくかったというのもある。

 むろん、今回も入園せず周辺部のウォッチのみである。

鉄柵越しの上海ディズニーランド

鉄柵越しの上海ディズニーランド

 で、行った見た結果、実際に園の内部にどれだけの入場客がいたのかはやはりほとんどわからないのだが、個人的印象を言わせてもらうと、ハロウィンの夕方とは思えぬほど人が非常に少なかったというのが感想である。

 上海ディズニーランド本園のゲート付近こそ、そこそこの人がいたが、鉄柵越しに見える範囲の園内の様子も人がまばらで、ガラガラの表現が適当かどうかはともかく、賑わっているというにはほど遠い状況だった。

上海ディズニーランドショッピングセンター

上海ディズニーランドショッピングセンター

 さらに、関連施設のショッピングセンターなどは、人影を探すことに苦労するほど人が少なく、寂しいくらいの状況だった。
当然駐車場などもガラガラであり、私が持つディズニーランドのイメージとは非常にかけ離れている状態なのである。
どうして客入りが悪いかの理由については、以前も書いたので今回は省略するが、このままだと上海ディズニーランドの存続にも関わりかねない状況だと言う気がする。

上海ディズニー駅も人が少なく

上海ディズニー駅も人が少なく

 かの広大な敷地にどのくらいの開発費をかけたかのか具体的な数字は忘れたが、とても回収できそうな雰囲気ではなく、上海市や中国の経済の起爆剤としての役割はとても担えそうにない気がする。

 まあ運営会社の方もそんな状況に危機感を感じたのか、冬期間に非常にお得なチケットを売り出したようで、収益はともかく集客に必死になり始めたような状況となっている。
 その特価チケット方策が功を奏するかどうかは分からないが、このままではどうも行く末が案じられる上海ディズニーランド周辺の現状である。
 

残業時間だけでは測れず、実は出張も隠れた過労死の要因かも

 日本のニュースで電通の新入社員が過労自殺をしたことの労災認定されたと報道されている。

 労基署の認定では一ヶ月の残業時間が105時間と認定されたということである。

 しかし、私はこのニュースを聞いて
 「はて、105時間の残業ってそれほど多いわけじゃないな」
と感じたのである。

 もちろん105時間という時間外労働時間は決して少ない数字ではないが、この残業時間数であれば過労自殺をするほどの数字ではないように思われたからである。

 実は私も日本時代に100時間以上の残業時間は経験したことがあり、確かに楽ではないが、100時間程度の時間外労働だけでは死にたいと思い詰める程のレベルにはならなかったのである。

 この時間外100時間という時間、一見膨大に見えるこの数字を冷静に分解すると、例えば毎日10時間の労働を土日も休まず30日働いても合計300時間であり、そこから仮に月間の所定労働時間を176時間(22日X8時間)として差し引くと、124時間の時間外労働時間となる。

 まあ確かに1ヶ月間休み無しの勤務体制は精神的に楽ではないが、1日10時間の勤務ならば睡眠時間が大幅に削られるほど厳しい状況ではないといえる。

 つまり、月間の残業時間が100時間程度であれば、睡眠時間が大幅に削られるほどの過酷な労働状況とは言いきれないのである。

 しかし、今回発生した過労自殺のニュースを細かく読んでいくと、本人がSNSなどで睡眠時間が2時間とか、過酷な睡眠不足に陥っていることを吐露しており、105時間の残業認定だけでは説明がつかない状況で有ったことがわかる。

 では何が彼女の睡眠時間をそこまで削らさせてしまったのだろうか?

 まず考えられるのがサービス残業の可能性である。

 つまり表向きは100時間の残業時間と言いながら、実態はそれ以上の長時間労働が課されており、その分が認定されていない可能性があるというものである。
 しかし、この点に関して言えば今回は労基署が105時間という時間外労働認定をしており、少なくとも勤務時間に関しては105時間という時間外認定はそれほど不正確なものではないと推定される。

 ただしここには盲点があり、法律上は労働時間に認定されない業務環境が有った可能性が推測できる。

 どういうことかと言えば、実質的には労働をしながらも、法律的には労働時間に認定されない要素が労働環境には存在するからである。

 その第一の可能性は自宅持ち帰り作業の存在である。

 報道では彼女はインターネット広告の担当とのことで、実際の労働にあたる制作作業は会社でやるにしても、企画書作成や他社研究は自宅でやっていたということは十分推測できる。

 私もネット作業が比較的多いから理解できるのだが、ネットは24時間つながってしまうために、起きていられる限り際限なく作業が出来てしまうのであって、会社から帰っても仕事が出来てしまうのである。
 故に労働時間に組み込まれない半強制的な長時間の自宅労働が発生してしまっていた可能性が考えられる。

画像はイメージ

画像はイメージ

 第二に、頻繁な出張という要因が考えられる。

 実はこれが残業時間では測れない過労死(自殺)の隠れた要因としてとても怖いのだが、今回のケースに限らず出張は日本の労働者環境における隠れた過労要因であるという気がするからである。

 どういうことかと言えば、世の中の大半の企業において出張の移動時間というのは労働時間に認定されていないケースがほとんどであり、当然のことながら時間外労働時間には算入されないからである。

 例えば、朝5時に起きて7時の飛行機で東京から地方に飛び、現地で9時から20時まで働いて21時の飛行機で戻り東京に23時に到着し、自宅へ深夜1時に帰宅し3時に就寝するような業務があったとする。
 すると実質22時間ほど会社のために稼働しているにも関わらず、労働時間認定は10時間(昼休みを除く)で、そのうち残業認定はたった2時間程度という結果になるのである。

 労働者としては出発から帰宅までを労働時間として認めてもらいたいのが心情であるが、通常の通勤時間は時間外労働として認めてもらえないように、出張の移動時間は時間外労働して認めてもらえないのが通例なのである。

 この理屈で言えば、極端な話として残業時間がゼロであったとしても毎日の出張だけで過労死する可能性があると言えるのである。

 それ故に、例えば今回の事件のケースにおいても認定された時間外労働は105時間であったが、それ以外に出張などで移動時間で消費されていた時間が大量に隠れている可能性もあるのである。
 電通のような多忙な会社であればなおのこと度重なる出張は十分考えられ、それが彼女の睡眠時間を削ってしまった可能性は十分に有る。

 商社に勤める私の友人も実は同様の理由で苦しんでおり、先日も出張の際に台風の影響で空港で足止めを食らって出張先のホテル到着が明け方近くになったにも関わらず、会社は残業認定してくれなかったとのことである。

 その友人は度々の出張にも関わらず実労働時間は多くないので残業代はつかず、逆に睡眠時間がかなり削られ苦しんでおり、体調も崩し気味だと嘆いていた。
 まさに今回のケースに通じるものがある。

 ちなみに私がかつて100時間残業を経験したときは1日中オフィスにおり、通勤以外の出張などの移動時間消費はなく、純粋な残業時間認定であったため、大幅な睡眠不足にはならず、何とか一ヶ月乗り切ったのである。

 つまり比較して申し訳ないが、かつての私と今回自殺された彼女は時間外労働で言えば同じ100時間という単位になるが、その数字だけでは説明できない業務環境が彼女に有ったのだろうと私には推測できるのである。

 今の日本の労働行政は、「過労死防止白書」を見ても総労働時間や時間外労働時間の管理ばかりに目がいっているが、実はその数字に現れない出張などの隠れた労働要因が労働者を追い詰めている可能性があることに気づいていない気がする。

 今回の過労自殺認定報道も105時間の時間外認定で終わらせず、出来れば労働者の労働環境の分析にもっと深く切り込んで頂きたいという気がするのである。

  故人のご冥福をお祈りします。

震災関連報道に隠れた政治の動き

 ちょっと緊急で日本に一時帰国した。
 日本では㋂11日の震災発生4周年を前にして、震災関連報道一色になっている状況となっていた。
 未だ復興がスムーズに進まない状況を改めて知ることになった。

 特に福島では原発の事故の影響で、自宅に戻ることを断念するほど何も復興は進んでおらず、行われているのは目先の除染作業と汚染水の処理だけである。

 まあ、この報道自体は否定すべきことは何もないのだが、どうもこれらの報道に隠されて、国会の動きなど政治関係の話題がどうも隠されてしまっているといった印象がある。

 例えば政治と金の動きの追及の動きや、自衛隊の文官統制を止めることが閣議決定で決まってしまったというような結構大きな動きが政治の世界で起きているにも関わらず、テレビ報道からは消えてしまっている。

 この文官統制の廃止は、戦前の反省をもとに設けられた制度で、政治と軍隊の暴走を防ぐために設けられた何重ものロックの一つであったはずだが、またもや憲法解釈と同様にあっさりと閣議決定などという手段で、ルールを取り外されてしまった印象である。

 どうしてこの時期にそんな重要な決定をしたのか非常に疑問であるし、何よりも報道でほとんど論じられないのが不思議な話である。

 震災報道で心痛めつつ現状を知ることも大事だが、あまりにも震災一色に報道が塗られてしまい、その陰で何が起きているのかが非常に気になる最近の日本の雰囲気である。

平等ではない人の死

 御嶽山の噴火から半月以上経った今でも、未だ捜索が続いており、それに合わせて連日報道も続いている。

 上海にいるので日本のテレビのワイドショーの様子は分からないが、少なくともYAHOOなどに上がってくるマスコミ報道では、死亡者について事細かく報道され、やれ新婚だった、やれいい人だったと根掘り葉掘り調べた報道が伝えられている。
 テキストソースがこんな状態なのだから、テレビとてあまり違わないと察する。

 まあ噴火の危険性の雰囲気を感じなかったとされる山頂で、突然発生した噴火によって、50人以上もの多くの死者が出たというニュースが、悲劇的でショッキングだというのは理解できる。

 しかし、こういった報道に関して人の死の扱われ方は平等ではないとも感じる。

 例えば、昨日日本列島を襲ったとされる台風によって全国で2人の死亡者が出たとされる。
 死亡した2人がどこでどう亡くなったのかは、詳しくは調べてないので分からないが、恐らく詳しく調べなければ分からない程に、報道はされていないだろうという気がする。

 しかも事故当時の状況くらいまでは報道されるかもしれないが、さすがにその人が普段どういう生活をしており、その死がどう悲劇的であったのかなどのストーリーまでは報道されまいと思う。

 まあ、悲劇的なストーリーとして報道することが決していいことだとも思わないが、一方の死は悲劇のストーリーの主人公として扱われ、一方の死はほぼ無名に近い人の水難事故として人数カウント程度にしか扱われない。

 こういう状況を見ると同じ自然災害で亡くなったにも関わらず、あまりにも世間の人の死への扱いは不平等と感じる。

 しかも、御嶽山の事故のあと、地元の観光PRへ不謹慎だとのクレームがつけられたりしているらしいが、そのクレームをつけた人は昨日台風の死亡者のいた地域に関して、同様に観光PRは不謹慎だとクレームをつけるのだろうか?

 今回の御嶽山の事故は確かに悲劇的な事故であったことには違いはないが、世間の人が感じている悲しみのような雰囲気は、実はテレビドラマを見るのと同じ感覚で感情的な報道に流されているだけで、本当の人の死の悲しみを理解しているわけじゃないのではないかと感じてしまう。

 人の死を悲しむなら、もっと周囲の死にも目を向けて欲しいし、それが出来ないなら自己責任である山の事故での死を、あまり特別に扱わないでほしいという気がする。

 ついでだが、自然災害の死者をよく「犠牲者」と呼び、私もかつてそれとなく使ってきてしまっているかもしれないが、自己責任である自然災害との対峙において、誰かの過失や誤りで死んだのでなければ、何かの犠牲になったというような表現も実は適当ではないのではないかという気がしてきている。

 不可抗力の事故だったかもしれないが、戦争のように人が起こした過ちではないので、噴火での死は犠牲ではないのではないかという気がするのである。
 「犠牲」とは従来「いけにえ」の死という他の目的によって死んだものという意味を含んでいて、山での自然災害はそれにはあたらないと思う。

 冷たい言い方かも知れないが、亡くなってしまった人に対しては、生きている立場からは故人の冥福を祈ることしか出来ず、それ以上にもそれ以下にも扱えないのである。

食傷気味なインフルエンザニュース

 毎日のようにインフルエンザのニュースを目にすると少々食傷気味になる。

 亡くなっている人には悪いが、なかなか自分の身に危機が迫っているという実感もないためか、これらのニュースはもう右から左へスルーしている。

 また領事館からもほぼ毎日のように詳しい情報が発信されているが、作っている人には悪いがこれもほとんど読まなくなった。

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 こうなってしまうとオオカミ少年の発言と同様で、一つ一つが真実であっても受け流す癖がついてしまい、本当に大事なニュースが混じっていてもスルーしてしまう自分がいそうでとっても怖い。

 まあ、そのあたりはニュースを出す側も心得なければいけないことであり、毎日一人ずつ死者が出たとて、新たに大きな展開が無い限り、報道方法は考えるべきであろう。

 オオカミ少年の話は元々は嘘であったが、こちらのニュースは真実であっても食傷気味になっており、同じ様な教訓を与えてくれている。

 こうなってくるとつまりオオカミ少年の教訓は、嘘をつき続けることが悪いというよりも、単調な情報発信は情報効果が無くなるというポイントの方が大事だという気がしてくる。

 まあ子供にはそんな教え方は出来ないかも知れないが、どうやら大人はそう覚えた方が良さそうな気がしている。