Category Archives: 惑星

思い出のホルストの「惑星」N響&デュトワ

先日YOUTUBEをチェックしていた際に、ふとシャルルデュトワ氏指揮NHK交響楽団の演奏によるホルスト作曲の組曲「惑星」の演奏映像に出くわした。
見始めた途端に出足の1曲目「火星」から非常に熱い演奏で、すぐに引き込まれたのである。
優等生的な演奏を見せる普段のN響とは一味違う熱い演奏で、さすがシャルルデュトワ氏だなと感心するような、オーケストラのドライブ振りを感じたのである。

そしてその熱さを感じ取ると同時に、非常に懐かしい記憶が私の中に湧き上がってきた。

そう、私の記憶に間違いが無ければ、この収録が行われた演奏会場(NHKホール)に私もいて、実際にこのライブ演奏を聴いていたのである。

あの日も一曲目から鳥肌が立つほどの強烈な印象を受けた記憶があり、映像の中で演奏されるあのリズムやパッションは確かに一度体験したものとして、体が覚えていたのである。
それを、映像を通してではあるが、演奏を再び耳にすることにより今回約20年ぶりに記憶が甦ったのである、

人間の記憶というのは不思議なもので、昨日まで忘れていた時間の体験について、音楽を聴くことによって体の感覚までもが記憶として呼び戻されるようである。

実はこのコンサートは私の「惑星」という曲に対する印象を一変させた演奏という意味でも思い出深い記憶であり、さすがデュトワ氏、さすがN響だなと感服した時間であったことも覚えている。

その記憶は最後の女声合唱が消え入るところまで残っており、曲全体を通してまさにあそこに自分がいたなという感覚を映像(音楽)は思い出させてくれた。

まあこうやって振り返ってみると、実はもうあの時から20年を経たことに気づくのであり、時間の経過の速さに寂しさも感じるが、記憶を甦らせてくれる音楽って改めて凄いな感じた記録映像であった。

宇宙に宇宙人や生命体がいるか調べる前に考えること

先日ラジオで、この宇宙には地球と同じような生命体を持った星が確率的に必ずあるはずといったような話が展開されていた。

この話の発端は、宇宙人は何故「○○人」と呼ばれ、宇宙の生命体は何故「人」限定で呼ばれているのかという点だったと思う。

まあ我々人間が人であるから、宇宙の生命体も「人」であるかのように思うのはごく自然な話ではあるので、致し方ないところではある。
ただ、私としてはこの話を聞いていて、宇宙人が「人」でなくなれば解決する話なのかという疑問を持った。

つまりその地球外生命体的な概念を「宇宙人」ではなく「宇宙生命体」と呼び変えたとしても、結局は人間の勝手な観念の枠組みを出ないものだという気がするからである。

すなわち生命体とか生命という概念自体が人間が勝手に作り出した概念に過ぎないわけで、つき詰めれば人間が生命だと思っている現象も、宇宙の中では一つの物理的現象に過ぎないと言えるかも知れないからである。

我々人間は、ある物体を指して勝手に生命を持っている、持ってないなどと勝手に区別しているが、それも実は物理的現象の一つの状態の違いに過ぎないのかも知れず、生命という絶対的区分があるかどうかは実は怪しいのである。

例えば死生の区分一つとっても、私という一人の人間の肉体が動かなくなれば、まずは社会的には個体の死として整理されるが、もし私に子供がいてDNAが受け継がれれば、DNAが死んだということにはならない。

さらにもし子供がいなくて私の肉体が朽ちてバクテリアなどに自然分解されれば、それもまた命を繋いでいるということが出来る。

これらのことを考えれば、元の個体の肉体は死んだとしても生命の受け渡しがあり、命が繋がっているとも言える。

そして宇宙的に突き詰めて言えば私の肉体を構成していた分子原子の要素が物理的に消滅しなければ、その物質はどこかに何らかの形で受け継がれるわけで、言うなれば人の死もまた物質の物理的現象の一つでしかないとも言えるのである。

 そして肉体だけではなく、我々人間は日々の時間を自分の意思を持って生きたり、或いは宗教的観念に支配されて生きていると自我を意識して生活しているが、実はこの意思すら人間という個体の中での物理現象の表出に過ぎない可能性もあるのである。

 つまり人間の自由意思など本当は存在せず、そういう意思があると思い込む脳内物質の動きによってそう感じているにすぎないという可能性があるということであり、物理的法則に支配された結果、何かを感じたり考えている可能性があるのである。

 なんだか複雑な話で恐縮だが、とどのつまりは人間が地球を飛び出し広い宇宙の中で生命体を探すという行為自体が、実はナンセンスなのかもしれず、まずは生命という現象区分自体をもう一度物理的尺度で見直す必要があるのではないかという気がする。

 そこが分かって無いと、他の惑星に高度な文明がある星があるかもしれないなどと考えて広い宇宙を探し回ることになり、まあこれらは人間的なロマンとしては面白くても、実は的外れな宇宙の捉え方なのかもしれないのである。

身を寄せ合う上野のニホンザル

身を寄せ合う上野のニホンザル

宇宙戦艦ヤマトで描かれる惑星位置を真面目に検証

 最近最新作が出て再びフィーバーしているスターウォーズだが、この状況に何となく日本人としての対抗心が頭をもたげ、日本版SFの大作と言える「宇宙戦艦ヤマト」を最近チェックするようになった。

 「宇宙戦艦ヤマト」は私が小さい頃の、もう40年以上も前に作られたアニメだが、YOUTUBEで改めて見る限りでは、そんな古い時代のものとは思えないほど、絵やストーリーがしっかりしているなという印象である。

 もちろん古いことは古いので画質がやや粗いのは目をつぶるとしても、手書きのセル画で作られたであろう映像はかなり手が込んでいて描写が細かいし、佐々木いさをさんの歌う歌・音楽も今でも古びた感じのしない不朽の名作である。
 
 さらに驚くのはしっかり物語を支えている数々の宇宙情報であり、その当時の宇宙研究の最先端であろう情報が結構細かくいっぱい詰め込まれている。

 まあ当時の日本は1969年のアメリカのアポロ計画の月面着陸の成功を受けた直後で宇宙熱の高い時期でもあり、その時期に作られた宇宙戦艦ヤマトの宇宙描写が細かいのは当然とも言える。
 
 ところで、このアニメに描かれた宇宙の情報を今になって改めて検証をしてみると、結構大きな矛盾があることを発見する。

 もちろん所詮は創作アニメなので、元々ご都合主義で描かれる矛盾の塊と言えばそれまでなのだが、今回敢えてその矛盾をちょっと真面目に検証してみることにした。

 その矛盾とは舞台となった当時の太陽系の惑星の相対的な位置のことである。

月

 太陽系の惑星は、内側から順に水金地火木土天海冥の言葉で覚えるように、太陽の周りをそれぞれの軌道で回っているが、当たり前の話だが、直線上に全惑星が並んでいるわけではない。

 つまり、それぞれの惑星が、それぞれの速度で太陽の周りを公転しているから太陽から見た惑星の方角は基本的にばらばらとなり、3つ以上の惑星が直線になるのは奇跡的な確率といえる。
 しかし、アニメではなんと地球から太陽系の外へ向かう流れの中で火星、木星、土星、冥王星と順番に4つもの惑星が登場してしまっているのである。

 これはどう考えてもやはりおかしく、こんなに都合よく綺麗に遭遇するわけはないのである。
 そこで気になって、このアニメの背景となった2199年時点の各惑星の位置をチェックしてみた。(笑)

 この際、上下のずれを表す赤緯については無視するが、2199年10月の地球から見た惑星の方向(赤経)を計算ソフトを使ってチェックすると、火星08h23m、木星21h59m、土星21h51m、冥王星09h59mという結果が出た。

  参考サイト:つるちゃんのプラネタリウム

 これを信じれば、2199年10月時点で火星と冥王星はほぼ同じ方向だが、木星と土星は12時間も違うまるっきり別の方向にあることになり、アニメのような順番では惑星は登場し得ないことになる。

 更ににウィキペディアの情報によると宇宙戦艦ヤマトの目的地であるイスカンダル星のある大マゼラン星雲は、2000年の計測で05h23mの方向であることから、2199年当時で比較的火星と冥王星の方向に近いということが出来る。

 アニメの物語では敵のガミラス帝国が太陽系の前線基地を冥王星に設置していたという話が出てくるが、この惑星の配置から推測すれば、理に適っている位置となっていたようである。

 まあアニメの作者が未来の時点の惑星の位置まで計算していたとは思えぬが、冥王星を利用した発想は結果的に正しいものであったと同時に、木星と土星の登場は蛇足であったということになる。

 しかし、あれはアニメだから実際とは違うと言いきってしまうのもまたロマンがなくつまらないものなので、アニメのように惑星が登場する時期は本当にないのかとそれぞれの惑星の公転周期などを基に、前後の年代を調べてみた。(笑)

 ちなみに各惑星の公転周期はウィキペディアのデータによると火星686.98日 木星11.86年、土星29.53年、冥王星247.74年である。

 で、再び上述の計算ソフトを使って色んな時期の星の配置をシミュレートしていくと、2181年の6月1日現在だと火星08h48m、木星09h17m、土星07h19m、冥王星07h49mとなり、この時期ならかなり狭い範囲、つまり同一方向に収まることが判明。

 しかも土星と冥王星は赤緯もそれぞれ+22h02mと+22h06mとなりほぼ重なる位置関係である。

 さらに、このタイミングだとアニメで登場しなかった天王星と海王星は、それぞれ00h52mと23h05mと離れた方角にあり、登場しないことに矛盾しないのであり、ストーリーが正当化されるのである。

 このように見ていくと、実は宇宙戦艦ヤマトは2199年ではなく18年早い2181年の5月ごろを出発として描いていたならば、天体運行の描写としては矛盾がなかったようなのである。

 まあ40年前に完成したアニメを今更このように検証しても仕方ないかも知れないが、検証の結果2181年なら有り得るのかも知れないと思うとちょっとワクワクはする話になった気がするのである。

鳩山発言をどう見るか?

もうすぐ参院選の選挙期間に入ってしまうので政治に関連する話は今のうちに書いてしまおうかと思うが、先日、鳩山由紀夫元首相が「尖閣諸島は中国に盗んだと思われた仕方ない」とテレビインタビューで発言して物議を醸している。

 まあ日本政府が主張する立場から言えば有り得ない発言であり、日本国内からは国賊などと強い批判を浴びている。

 私なんかもこのニュースを聞いた当初は国賊とまでは言わないが、もう政界のトップからは引退した身なのに元首相として配慮を欠いた発言だなという印象は持っていた。

 ただ私自身は鳩山さんを国賊と呼んでしまうほど国家主義の立場は取らないし、吹き上がっている人々ほどには、この問題に対して嫌悪感を感じているわけではない。

 もちろん日本で生まれた人間として中国寄りの発言をしたいわけではないが、どちらかというとやたら国の面子にこだわって国民を同じ意識で統制し意にそぐわない人を非難排除しようとする今の日本の風潮のほうが鳩山さんの発言よりも受け入れがたいのである。

 まあこの問題は相手が一筋縄ではいかないこの中国という国家であるが故に、迂闊な発言は相手にうまく利用されかねないという面もあるものの、個人的には中国の国家主義的行動に対して、日本も対抗心を出して国家主義を振りかざしても何も始まらないという気がしており、そう言った意味で彼の発言は国家の面子に縛られない貴重な言葉だという気がしている。

 日本は中国ような国家主義的なものを振り回さなくなったからこそ、自分は日本人として誇りを感じている面もあり、できれば同じ土俵に上がってほしくないのだ。

 そこで先日のボイジャー1号の話である。

 宇宙という広さから考えると、尖閣という島はあまりにもちっぽけな存在であり、あの小さな島を巡って対立し時間をかけることに非常に馬鹿馬鹿しさを感じてくる。

 しかも日中二国間にとってもあの島がもたらす実際の直接的な経済的価値は、多少の石油資源はあると言われるものの、国全体から見れば塵のようなものである。

 故に両国のほとんどの国民にとっても実際はあの島がどちらの国の所有であるかなどということは各自の生活には全く関係ない事となっている。

 寧ろ現在対立の根源となっているのは、その経済的価値や領土的利益と言うよりは、譲った譲らないの国家的面子の問題で、譲歩した場合の国家間の力関係への影響を懸念し、それ故に後にひけなくなっていているだけのように見える。

 そんな経済価値の問題ではなくお互いの国家面子の対立だからこそ、尖閣の問題はなかなか解決できないのだという気がする。
 ここがロシアとの北方領土問題との大きな違いである。

 そこで宇宙人とも言われる鳩山さんの今回の発言である。

 確かに日中政府間の現在の関係から言えば、彼の発言はKYとか常識外れな面があるのだが、現在の政治の常識にだけ囚われて行動していたのでは今後も日中関係が解決できないのは自明の理であり、そんな中での宇宙的とも言われる彼の常識外れの行動はひょっとすると新しい流れを生む可能性はあるのである。

 何がどう新らしい流れを生んでくれるのかは全く分からないが、悪い方に転がりそうであれば、引退した人間の発言として捨て置くことも出来るし、好影響があれば利用すればいいのであって、日本側は感情的になって吹き上がらず冷静に静観していても良いのではないかと言う気がする。

 まあ何か新しい流れを生み出すかも知れないなどという期待は全く根拠のない期待ではあるが、根拠の無さで言えば道州制や都構想を振りかざす政治変革の期待や、アベノミクスと言う言葉に対する経済発展への期待と同等の根拠の無さであり、私としては彼ら同様に自分勝手な良いイメージを描いて今回の状況の推移を静観したいという気がしている。

 前回のブログで書いたように国家の対立とは裏腹に国民の個人レベルではどんどん国際結婚が増えボーダレスとなっており、人間の血の関係ではお互いに混ざり始めている。
 そんな中で国家と言う枠組みの面子のみを振りかざすことに意味があるのかどうか、そこを考えるのに彼の発言はいいきっかけになったと私は思っている。

ボイジャー1号が太陽系の端に到達

 アメリカの無人惑星探査機のボイジャー1号が太陽系の端っこに到達したというニュースを耳にした。

 打ち上げから実に36年かけて到達したとのこと。

 まあ宇宙探査機としてはこれより5年ほど早く打ちあげられたパイオニア10号、11号のほうが早く木星土星に到達していて、その後も太陽系外に向かって飛行を続けていたはずだが、11号は1995年に、10号も2003年に電波が途絶えたため現在どこにいるかはもう分からなくなっている。

 普通に考えると時間的には太陽系外に出ていると考えられるのだが、小惑星に衝突して壊れている可能性もあって、太陽系の端っこにいったという証拠はどこにもないようだ。

 そういう意味で、ボイジャー1号は今回太陽系の端っこに到達したことが初めて確認された探査機と言うことになる。

 太陽系とその外の違いと言うのは何を持って区切るのかと言うと、太陽から吹く太陽風(空気の風ではなく粒子の風)が届いている範囲とのことで、この風が太陽系の惑星を太陽系外の銀河宇宙線から守っていると言われる。

 つまり宗教的な観念的な意味だけではなく、実際上でも我々の生活は太陽があってこそその庇護の下で暮らせているというのが宇宙の物理学的状態と言う事らしい。

 そんな太陽の庇護を離れていよいよ大銀河の大海原に飛び出していくボイジャー1号だが、電池や通信範囲の面では2020年ころまでは問題ないとされているが、太陽系外部の銀河宇宙線というのは相当強力らしく、外の世界は詳しい情報さえない未踏の地となので、実際はいつまで無事でいられるか分からないというのが科学者たちの推測らしい。

 昔見た宇宙戦艦ヤマトのようなアニメの世界では当たり前の如く1年にも満たない時間の中で太陽系の外に飛び出して行ったが、実際の世界では太陽系の端っこに到達することだけでさえも36年もかかっている。

 まあこれらの探査機は軌道修正以外の推進動力を積んで飛行しているわけではないようなので、今後推進エンジンを積んだ宇宙船が開発されればもっと早く到達できるかもしれないが、いま現在の現実としては36年かけてしか到達できていないのである。

月でさえ遠いのが人類の現実

月でさえ遠いのが人類の現実


 
 36年と言う時間は私が物心ついてから生きてきた時間のほとんどであり、その間このボイジャー1号がひたすらミッションを背負って宇宙の外へ向かって飛んでいたと思うと、そのひたむきさに何となくいじらしさを感じる。

 そしてこんな壮大な宇宙的なミッションに夢を馳せらせていると、一方で地球上で起きている人も住まないちっぽけな島を巡る国と国の争いなどは、何と馬鹿馬鹿しいことだろうかと思わずにはいられないのである。

 ボイジャー1号よ、どうかいつまでもご無事で!