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追悼 常田富士男さん、まんが日本昔ばなしを見直す

 暑い夏の盛り、俳優の常田富士男さんが先月の7月18日に亡くなった。81歳だった。

 まあ、俳優と言いながら実際本人の姿を目にすることは滅多になく、もっぱら常田さんの印象は「まんが日本昔ばなし」の語り手としての印象で、というかほとんどあれが全てだった。
 かの番組では市原悦子さんと2人で、全ての登場人物の声色を使い分けており、当時はとても2人で演じているとは思えないほど、2人とも芸達者な仕事ぶりだったのを記憶している。

 もう既にそこそこ高齢だったので仕方ないとは言え、とても惜しい人をなくして残念という印象である。

引用元

 ところでこの訃報を受けて、急に常田さんの声が聴きたくなり「まんが日本昔ばなし」の当時の放送をYOUTUBEで探すことにした。
 すると結構な本数が上がっており、これらの昔ばなしを何本も改めて見直した。

 まあ当時子供のころに、見たことがある作品もあるのかもしれないが、当時のことは全く覚えていないので、基本的には全て初見同様である。
 悲しい話あり、ハッピーエンドありで、悲喜こもごもな先人たちの言い伝えが多く作品化されており、何本か見ていくうちに止まらなくなってくる。

 改めて見てみると、子供向けの番組ながら言葉遣いが難しい内容も少なくなく、子供が全て理解するのは難しそうだった。
 それでも当時は熱中してみていた記憶があり、言葉遣い以上にそこで織りなされる人間模様が面白かったのだろう。
 まあ自分自身の成長過程に、どれがどう影響したというハッキリした認識はないが、かの番組に道徳的考え方の基礎を与えられたという気はする。
 悪いことをすれば報いがあり、善行を続ければいつか報われる時が来るといった考え方は「まんが日本昔ばなし」で学んだ気がする。
 時に人生は不条理な結末を迎えうる話もあり、そういう不条理もあることも学んだ。
小さいころ祖母はいたが、昔話を教わったという記憶はほとんどないから、この手の伝承は全てこの番組から教わったいう気がする。

 最近の潮流として、どうも子供に対して、順位付けや悪い結果を伝えることを避ける傾向があり、運動会の徒競走で順位をつけないで手をつないで一斉にゴールをする学校や幼稚園があると言われるなど、順位付けを極端に否定する風潮がある。
これは亡くなった落語家の古今亭志ん朝さんの言葉を借りれば「可哀そう思想」であり、負けた側を可哀そうに思うあまり、反発力の発揮や人生の不条理を学ぶ機会を奪う考え方だという気がしており、世の中から消しきれない区別や差別は子供の目から覆い隠せばよいというものではないという気がするのである。

そういったネガティブな免疫を付けずに大きくなった結果が、例えば春先に起きた滋賀の新人警官により上司射殺事件だという気がする。

 話がそれたが「まんが日本昔ばなし」は、そういった子供への道徳教育的観点において、非常に重要な力を持っており、今思うと為になった番組だったという気がする。
今年から日本の小学校で道徳が正式教科として始まったようだが、今の政府が考える下手な道徳教育より、この手の昔ばなしを伝えてあげるほうが、よほど良い教育になるような気がする。

そんな番組を支えた常田富士男さんがお亡くなりになって、とっても悲しいが、彼の話を聞いて育った皆さんには、いつまでも彼を忘れずに幸せに暮らしてほしいもんじゃぁ、と願う。


日本の国歌に「故郷(ふるさと)」を加えたらどうか

日本の法律では国歌として「君が代」が定められている。

まあこの「君が代」は日の丸とともに国旗・国歌の論争のもとになっている。

この「日の丸」「君が代」は長らく国旗国歌とされてきたが、実は法律として定められたのは1999年になってからで、それまでは慣習的に使われてきただけであった。

この法律ができてから、公立学校の入学卒業式では起立斉唱が義務のように言われるようになり、またそれに違反した教師が処罰され、それを不服とした教師が教育委員会を訴えるなど何かと社会問題化している。

個人的にはこの国旗国歌の制定については消極的には同意するものの、公立学校とて国が建てた学校ではないし、憲法が保障する思想の自由などから考えれば入学式や卒業式における斉唱や掲揚は強制されるものではないものと思っている。

起立斉唱を参加者に求めるのは、どう見ても権威主義的な軍隊教育のように見え、多様な人間が生きる現代社会での教育にはそぐわないと思えるからである。

ただ、今回はこの是非についてはとりあえず横へ置いておいて、日本の国歌というものについて考えたい。

まあそもそも国歌が必要なのかという議論も本来はしなくてはならないが、一応国家体裁として必要なんだという前提で、考えてみたい。
さて、現在国歌となっている「君が代」について、そもそも一体どのくらいの日本人が歌詞の意味を理解して歌っているのだろうか?ということに疑問を感じている。

正直言って、私もよくわかっていない。

一応日本語だから言葉の一つ一つの単語の意味は分かるが、全体として何を歌っているのか理解していないのである。

戦時中に、天皇の歌として扱われたこともあったようだが、どうやらそれも違うらしく、誰が何を思って詠んだ歌なのかは現代でもはっきりしない。
一説には平安時代の恋の歌だと解釈する説もあるが、それとて定まった説ではない。

つまり、われわれ日本人は歌詞の意味もはっきり分かっていない歌を、たぶん国のことを表した歌だろうと咀嚼せず適当に飲み込んで歌っているだけなのである。

このように「君が代」は国歌として法律で定めた割には随分根拠も内容のあやふやな歌であり、むしろ国体復古を目論んだ右翼系の「王政復古」の意図で法律定義したのが結局正解のような気がしてならない状況である。

故にそんなあやふやな「君が代」は、例えみんなが歌えたとしてもどれだけ日本人にとって意味のある存在かは不明であり、国歌として適当なのか疑問を持ってしまう。

これらのことから実は個人的には「君が代」より、「故郷(ふるさと)」のほうが現代の国歌にふさわしいと思っている。

この「故郷」はそもそも大正時代に長野出身の高野辰之氏の作詞、鳥取出身の岡野貞一氏の作曲によって作られた学校唱歌である。
唱歌であるが故に、誰にとっても歌いやすく、心に残りやすい歌となっており、実際多くの人に歌われている。

まあ歌詞については現代となっては多少古い言い回しにはなっているが、何を意味しているかは理解できるし、多くの人の心に通じるものがある点においては君が代の比ではないだろうに思うのである。

そして、心に染み入ってるからこそ、ふとした瞬間に不意に口をついて出る。

例えば戦時中に特攻へ出撃していったパイロットが機上で歌っていたという話もあり、日本人が共通して心の中に持っている歌は結局「君が代」ではなく、「故郷」ではないのかと思うのである。

故に国家を強制されない意味の国歌として「故郷」を強く推薦したいと思う。

さらにこの歌は決して国を限定しているわけではないので世界の人にも自由に歌ってほしいし、それぞれの「故郷」のイメージは違えど、故郷への思いは通じるものがあるのではないかと思っている。

まあ今の「君が代」を退かせたい意図があるわけではないので、法律定義としては並列でも良いが、国際スポーツ大会や卒業式はこちらを採用できるよう国歌に加えてほしいという気がするのである。

仙台七夕の日程の不思議

 先日の2018年8月17日は旧暦の7月7日にあたり七夕で、中国的に言うと夏の情人節つまり夏のバレンタインということになる。
 この日は、婚姻届の件数が増えたりする現象も起き、ちょっとしたイベントデーとなる。

 ところで日本で七夕といえば新暦で行われる7月7日の七夕の他に、仙台の七夕まつりが有名だがこの仙台の七夕は何故か8月7日前後に行われる。
 なぜ8月7日に行われるかについて、勝手に「旧暦」だと思い込んでいる人もいるようだが、今年の旧暦の7月7日が新暦の8月17日であったことから分かるように、仙台の七夕の8月7日は旧暦ではない。
 いわゆる月遅れの実施のために8月7日という日程が選ばれているということになる。 
                                                      
 前回「東京のお盆」についても全く同様のことを書いたが、明治5年の明治改暦によって従来の太陰太陽暦から太陽暦(グレゴリオ暦)に変更されたため、基準となる1月1日が毎年一か月以上ずれてしまうことになった。

 これにより、従来の日程のまま伝統行事を実施すると季節感が全く合わなくなってしまうので、月遅れの中暦という暦を設定し、七夕やお盆は新暦の日付の1か月遅れで実施されることになった。

 これが現在8月7日に七夕が行われる由縁である。

 しかし、一か月遅れにしたおかげで季節感的にはなんとかマッチングできたものの、やはり太陽暦上で日程を設定したが故に月の満ち欠けは無視されることになり、七夕なのに半月にならず満月や三日月の晩となってしまうのが仙台の七夕の日程である。

 まあ日本では現在でも旧暦を復興する動きはほとんどないが故に、仙台の七夕も今後も永遠に月とは無関係の日程で行われていくのかもしれないが、やはり行事の由来を考えると伝統とは言えちょっと残念ではある。