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あの人材会社CMがスタンスを変えた?

 先日のブログで「音楽を冒涜する某人材会社のCM」というタイトルで、チャイコフスキーの弦楽セレナーデという曲を滑稽的に使うCMを批判的に書いたが、その直後にかのCMに変化が現れているのを発見した。

 このブログが読まれたのか、他にも同様の批判が音楽ファンからあったのかわからないが、少なくともかの○タッフサービス社のCMシリーズに変化が現れた。

 先日、聴いたラジオのCMバージョンでは、チャイコフスキーと名乗る関西弁の変な男が登場し、「めっちゃいい曲出来た」とか、「100年経っても癒される曲」などのセリフを語り、最後は「100年残るいい仕事をしましょう」とナレーションが付き、曲や作曲者に対してスポットを当てるスタンスのCMになっていた。

 これまでの扱いを贖罪するような構成である。

 また、別の短いヴァージョンでもやはりチャイコフスキー男が登場し、「思ってたんとチャイコフスキー」と関西弁のダジャレを交えてCMを構成している。

 このように、かの音楽を使い続けて数十年経ってようやく作曲家を登場させスポットをあてた形になったようであり、かの曲のファンとしては少し溜飲を下げたような状況となった。

 ただ、一方で笑いを取るCMの基本スタンスそのものは捨てて無い印象でもあり、このチャイコフスキーヴァージョン以外の作品では、やはり昔ながらの滑稽のスタンスのままCMが流されている。
 従って手放しで褒めるという状況にはまだなっておらず、今後かの会社のCMがあの曲の扱いをどう変化させていくのか、もう少し注視が必要なのかもしれない状況である。
 

音楽を冒涜する某人材会社のCM

 テレビ・ラジオのCMには昔から様々な音楽が使われており、その中にはクラシック音楽も良く使われている。

 雰囲気やイメージを醸成するのに音楽が欠かせないものであるからには、これは当然の現象であり、昔私が舞台音響をしていた時も様々な音楽を使わせていただいた。

 ただ人が作った曲を使わせていただくわけなので、表現の自由は有れども、使用許諾を含め作曲家や演奏家への最低限のリスペクトをもって、曲のイメージや背景に配慮しながら使用したつもりではある。

 しかし、最近のCMの中には音楽を間違ったイメージを与えるケースで使用する場合も見受けられ、音楽を大事にする自分にとっては許せないと思うケースが時々ある。

 その代表的なケースが某人材会社○タッフサービスのCMである。

 かのCMには、かれこれもう20年近くチャイコフスキー作曲の弦楽セレナーデの第一楽章の冒頭の部分が使用されており、いわゆるテーマ音楽存在として定着してしまっている。

 CMでは、「部下に恵まれなかったら」とか「会社に恵まれなかったら」とか悲劇を揶揄するような形で、滑稽な音楽として使われている。

 しかし、あの弦楽セレナーデをちゃんと聴いたことのある人ならわかると思うが、あの曲はそんな滑稽な面を微塵ももつ曲ではなく、非常に純粋で美しい曲である。 

 それこそ、心を洗われるほどの美しい曲なのである。

 故にあの曲をCMに使うことを決めたCMプランナーや、○タッフサービス社の社長や広報担当はかの曲をちゃんと聴いて使用を決めたのかと疑問を感じてしまう。
 以前、この弦楽セレナーデがプログラムに出ていた日本のオケのコンサートに出かけた時に、この曲が始まった途端に会場から笑いが起きたことがあった。

 この弦楽セレナーデが大好きな私は、この会場の笑いに結構傷ついた。

 あのCMのおかげで、かの曲に間違ったイメージが世間にしみついており、CMに関係ない純粋なコンサートでも聴衆の笑いを誘う結果になってしまったのである。

 しかし、何度も書くが弦楽セレナーデは笑いの要素など何もない甘美な美しい音楽である。

 私にとっては、チャイコフスキーの弦楽セレナーデをあのような形でCMで滑稽に扱うことは音楽に対する非常な冒涜だという気がするのである。
 もちろん、日本には表現の自由というものはあり、CMにとって音楽は単なる部品の一つかもしれないが、どうせ使うのならもっと音楽をリスペクトした使い方をして欲しいと思うのである。

大砲が鳴り響く曲 「序曲1812年」

 この春節の中国の爆竹や花火を聞いていて思い出したのがこの曲、チャイコフスキー作曲の「序曲1812年」である。

 この曲、オペラなどの序曲とは違い、音楽会用序曲として単独作曲された曲である。
 何故この曲を思い出したかというと、この曲は楽譜上に大砲「canon]という指定があり、五発の大砲を撃つように指定されて、演奏中に大音量とともに打ち放されるのである。

 もちろん、いつも大砲を用意できるわけではないので、コンサートでは大太鼓で代用する場合が多いのだが実際に大砲を用意して演奏される場合もある。(もちろん空砲であるが)

 代用の大太鼓にしろ、とにかく「大砲」ということで演奏するのだからとにかく音量がでかい。コンサートホールで大太鼓が代用されるのは道具の問題ではなく音量の問題とさえ思われるくらい大音量で演奏され、耳が壊れるくらいなので、この中国の春節の花火の状況とほぼ一致するのでこの曲を思い出してしまった。

 生で聴くのでさえ苦労するのだから、この曲のレコーディングも結構苦労するらしい。オーケストラは室内で演奏しても大砲は屋外というのが通例のようだ。

 また聴く側もデジタルの時代になり音が鮮明に録音できるようになったのはいいのだが、再生時は音量を大きくしすぎてスピーカーや耳を壊さないように注意して下さいと注意書きが書かれるほどやはりこの曲の大砲の音量の大きさは飛びぬけているらしい

ちなみに1812年というのはナポレオン率いるフランス軍がロシアに侵攻したいわゆる「モスクワ遠征」の年であり、ロシア軍が力を合わせて勝利したというロシアにとっては愛国主義の象徴的な年である。

 その意味をこめてこの表題がつけられたというが、作曲したチャイコフスキーは国家から愛国を強要されたことが面白くなかったのか、この曲そのものはあまり気に入っていないらしいということが伝わっている。

 それにしてもロシアにしろ、中国にしろ何故社会主義の国の人はこんな大音量が好きなのだろうか?不思議な共通点である。