日本にはかつて文明開化という言葉があった。
明治維新以後の政府の方針に依り文化の西洋化により、社会の近代化が進められ、アジアで初めて近代化が進んだ国となった、というのが日本で学んだ日本の位置づけである。
しかしそれは、ある意味正しく、ある意味思い込みの誤解も含んだ状況であることに最近気づかされた、
西洋的な工業の近代化という意味では、確かに日本はアジアの中では先進国なのではあるが、実は文化的な意味においては日本が先頭を切って西洋文化が入ってきた国ではなかったことを知る。
では、どこが早かったのかと言えば、実は上海の方が圧倒的に西洋音楽のコンサートという意味では早く演奏が行われていたようだ。
但し、これは文化として現地の一般市民が聴くようになっていたということではなく、南京条約によって開港された後に設置された租界の外国人によって開かれたコンサートであり、現地中国人たちは子守の家政婦以外は入場すら禁止され、その音楽に触れることが出来ない状況にあったとされる。
従って厳密な意味で西洋音楽が上海に浸透していたとは言い難いが、少なくとも定期的に音楽会が開かれた地域としては日本より上海の方が圧倒的に早かったのである。
では、日本は2番目なのかというと、実はその座も怪しい。
実はフィリピンの方が、植民地であった影響でクラシック音楽の影響を早く受けており、上海にはフィリピンから来た音楽家がたくさん演奏家として楽隊に参加していたようだ。
よって日本はフィリピンより西洋音楽の取り入れが遅かったようである。
では日本が3番目かというと、実はフィリピン以外の東南アジアの諸国も欧州諸国の植民地時代を経てきているので、庶民が西洋的な音楽に触れているかどうかは別にして、日本よりクラシック音楽が到達してきていた可能性があるようだ。
もっともその意味では日本でも戦国時代に織田信長などの戦国大名が南蛮渡来の人々の音楽を聴いたという記録があり、それを持って西洋音楽の輸入と捉えれば、日本も東南アジア諸国に引けを取らないかもしれないが、その後に定着せず江戸幕府によって鎖国されてしまったため、再開国まで西洋音楽の歴史は途絶えてしまうことになる。
結局江戸末期の日米通商条約で日本が開国し、明治維新後に幸田延がアメリカに留学派遣されるまで、日本におけるクラシック音楽への接触が行われるのは待たなくてはならなかった。
さらに日本における西洋音楽のコンサートという言う意味では、第一次世界大戦後まで待つ必要があるようだ。
何故第一次世界大戦後なのかというと、中国・青島でドイツと日本が交戦した際に捕虜として日本に連れ帰った音楽家たちが日本の西洋音楽史において数々の功績を残したからであり、戦争の産物として日本において西洋音楽が多く演奏されるようになったのである。
例えば日本における第九の初演は捕虜音楽たちのオーケストラによるものとされるのであり、従来日本初演とされていた1924年の東京音楽学校による演奏より5年も早く演奏が行われている。
その捕虜として連れて来られた音楽家たちはそもそも青島(チンタオ)のドイツ租界において演奏活動していた人々で、つまり日本に音楽がもたらされる前から青島ではクラシック音楽の演奏家は行われていたことになる。
このように少なくとも西洋からのクラシック音楽の輸入において、日本は中国の後塵を拝していたのが歴史的経緯であり、アジアにおいて一目置かれる存在になるには戦後をまたなくならなかったようだ。
逆に中国においては、このように西洋音楽において日本より先行していたはずではあるが、日本の敗戦とともに、租界で西洋文化を支えていた西洋人達が租界の終焉とともに香港などに渡ってしまい、中国における西洋音楽活動は一気にしぼんでしまった。
これにより、改革開放による経済発展時期まで中国における西洋音楽活動は停滞してしまったようである。
その結果、経済発展で先行した日本が中国よりも早く一流の指揮者や演奏家を輩出できる存在になったとも言え、今のような状況があると言える。
最近日本国内では東京五輪前から自国上げ記事が多く、明治維新以来、常に日本は多くの分野でトップを走り続けていると思い込まされがちになるが、そこには多くの思い込みが含まれていることを知るべきなのかもしれない。