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一人っ子時代の暴行問題の解決方法

ここしばらく日本で騒がれている日本の大相撲の横綱日馬富士の暴行問題だが、それに関連するネット上のコメントなどを見ていて気になったのは、「暴力は法に基づいで裁かれるべき」だという論調。

その理屈自体は正論であり、否定するものでもないのだが、そういう批判をする人たちが「古い考え方」として否定する和解的な解決法というものが何故最近否定されるようになってきたのか気になったのである。

もちろん、一方的な暴力は許されるべきではないが、例えば個人対個人の喧嘩のような状況だったりする場合、お互いのケガの程度によっては、双方が和解すれば済んでしまうものも有るはずであるが、今の状況だと究極的には双方に暴行罪や傷害罪が適用されてしまう状況にある。

どうも今回の貴乃花親方の態度の如く、法やルールに照らし合わせ白黒はっきりつけないと気が済まない風潮が支配的に感じられるのである。
例えて言うなら自動車の事故の如く6:4とか過失割合を厳密に決めないと気が済まない様な雰囲気なのである。

しかし、必ずしも法やルールに依拠しなくても解決する方法も社会としてあっても良いはずというのが私の考えでもある。
まあ、その風潮の是非はともかく、現在どうしてこのような風潮になっているのかを考えてみた。

で、私なりに考えた現代の「社会の法依存・ルール依存」の要因は、社会の一人っ子時代の進行と核家族社会の進行が原因ではないかということ。

以前「中国から「おじさん」がいなくなる日」というブログでも少し触れたが、一人っ子時代の進行、つまり兄弟関係が無くなることにより、家族一つ一つの存在が社会から孤立した存在になりつつあるというのが今の社会である。

どういうことかと言えば、兄弟姉妹が多ければ多いほど、一組の夫婦やその子供にとって、親戚やおじさん・おばさんの関係が生まれるのだが、一人っ子社会ではそれが存在しないのである。

前回のブログにも書いたが「この「おじさん・おばさん」というのはある意味身内でもあり、一方で完全に家族の人間であるわけでもなく、言わば家族と世間の中間にある存在」である。

つまり、「一つの家族が社会から完全に孤立しないように繋いでくれる、社会と家庭内の風通しを行なう窓の様な存在である」はずなのである。

しかし、現実的には一人っ子が増え、おじさんおばさんが少くなっており、「家族の外はいきなり公衆・公共の場となり、そこは単なる法律的・社会的ルールにのっとった社会平等的な関係しか存在しない」社会となり、身内の情などでの問題処理が行われにくくなる社会となっているのである。

また、田舎の地縁を離れて都会で核家族化した状態で暮らす人々が増えたことも状況に輪をかけている。

隣は何をする人ぞ」の言葉にあるように、都会の暮らしでは転勤や転居の頻度が高く、十分な地縁を結ぶ時間が与えられず、やはり法律的・社会的ルールにのっとった方法でしか結びつかない社会が形成されてしまう。

そういった社会の中の家族環境で育つ人間は、結果的に血縁や地縁の情などで問題を解決したりする経験がなく、ただ社会ルールによってのみトラブルを解決方法する手段しか経験せず成長することになる。

つまり、かつて当たり前で存在していた「内々で」とか「穏便に」というのは、実は兄弟姉妹が多かった時代の一族社会、或いは地縁が豊かな地域社会の解決方法だったものであり、仲間意識によって法律や公共ルールに依拠しない形での内側のルールによる問題解決方法なのである。

しかしそれらは、そういった仲間意識や一族意識を所有しない一人っ子時代社会に育ってきた人にとっては、法律やルールが適用されない「古い社会」に映るのであり、内々に処理されることを隠ぺい体質として批判するのである。

確かに内々に穏便に処理することは「隠ぺい」とも言えるが、決して泣き寝入りさせることではなく、共通の一族意識を持った人々がいるからこそ一族を守るために働く力学でもありそれを「古い社会」として100%否定すべきものかは難しいところがあると考える。

 例えば「古い社会」では、一族や集団の為に個人が時々損をする面もあるが、全体を裏切らない限り多少の問題を起こしても内包され、個人は切り捨てられずに救われる部分がある。

一方でこれに対する「法律や公共ルールに依拠する」ことによって成り立つ「新しい社会」(具体的にこう呼ばれているわけではないが「古い社会」の対立概念として呼ぶとして)では、ルールに違反すると切り捨てられ再起をするチャンスが与えられなかったり、各自が社会との繋がりの意識や共通意識を持てず孤立化し、ルール社会の中に埋没しやすい状況が生まれる状況となる。

こういった二つの社会概念の意識の相違が、現実に進行している今回の「日馬富士暴行問題」における協会体質への批判だったり、貴乃花親方の行動や主張なのではないか、そのように感じるのである。

古い社会と新しい社会、どちらがいいとは一概には言えないが、相撲協会を「古い社会」と批判しルールや法律を振りかざそうとする意識の人々が増えていることは、社会の少子化による個人の孤立化が大きな影を落としているような気がするのである。

寅さんの名言より
「理屈を言うんじゃないよ、大事な時に!」

ベトナム人少女殺害の現場は私の地元

 今朝、日本の我孫子市で起きたベトナム人少女殺人事件の容疑者が逮捕された。

 どうやら、少女が通っていた学校のPTA会長本人が容疑者ということで、非常に驚きの展開となっている。

 まあ、逮捕されたとは言えまだ本人は黙秘を続けているとのことで、容疑者を迂闊に断罪することは避けたいと思うが、少女が松戸市六実の児童であり、我孫子で死体遺棄されたこと自体は事実であり、このことに現在遠く上海に住みながらも驚きを隠せない。

 何故なら我孫子は私の地元であり、あの現場は実家から自転車で行けてしまうような場所であって、車なら10分もかからず行ける身近な場所だからである。
 さらに、少女が住んでいた六実についても実は私はよく知る場所なのである。

 昨年まで両親がその近くで働いていたこともあって、私や私の両親は常に我孫子と松戸を行き来きしており、例えば刑事ドラマの言うところの土地勘のある人間を洗い出せということであれば、私の家族は完全に該当してしまっていたのである。

 さらに言えば私の父親はその松戸の職場をリタイヤ後、あの現場のそばでアルバイトをしており、現地近くをよく行き来する状況となっていたため、あの現場もよく知っているはずなのである。

 従って、まあ私の父親のことなので流石にあのような所業をする人間とは思わないものの、運が悪ければ疑いを掛けられ冤罪で逮捕されるくらいのことは十分あるような条件は整っていたのである。
 もちろん人間に100%はありえ無いし、多くの犯罪者がそうであるように家族が想像だにしなかった人間の本性が突然現れるということはゼロではないので、この事件が報道されて以後、父親のことは信じているものの心の何処かにほんの僅かだけの準備はしていた。

 そして実際今回逮捕された人物はPTA会長ということで、誰もが「まさかあの人が」と思われる人だったのであり、直前まで普通に暮らしていた地域の隣人の一人だったわけである。
 しかも聞くところによると容疑者は私と同年代であり、これまで同じ時代を生き、もし私が今も地元に居れば逮捕の直前まであの容疑者も私と同じ視線が世間から当てられていた存在なのである。

 つまり訳の分からないまったく遠い国の人の話ではなく、私と等身大の人間があのような事件を起こしたらしく、今回容疑者として逮捕されたのであり、それゆえに衝撃は大きかったのである。

何が容疑者にあのようなことをさせたのかは分からないが、あのような普通の隣人が何かの拍子で一歩間違うとあのような犯罪者と化してしまうことがこの社会ではあり得ることを改めて知らされたこの事件である。

被害者の方のご冥福を深くお祈りいたします

夫婦別姓より早くマイナンバーが家族を壊す

 先日、日本の裁判で民法規定に関する最高裁の判決があり、夫婦別姓を認めない規定は違憲とは言えないという判決が出た。
 つまり夫婦は同姓であるべきと定めた民法は問題ないという結果になった。

 ただし判決は現行民法を「合憲」であると認めただけであり、今後夫婦別姓を認める民法改正を制限するわけでもなく、今後の法律改正へ含みを持たせた状態になっている。
 故に今後の世論の動向によっては選択的夫婦別姓ということが認められる可能性もあり、認められれば結婚しても夫婦は別の姓を名乗れることになる。

 しかしこの夫婦別性問題は単なる(と言っては失礼だが)名前の名乗り方の問題のように見えるが、実は社会の家族形態の有り方を揺るがす大きな問題である。
 何故なら、本来この「姓」というのは家族制度や家制度に基づいた名前の付け方であり、家族であることを示す基準となっていたからである。

 英語でも、姓はFamilyName、名はGivenName或いはFirstNameであり、いずれも社会を構成する一単位として家族制度が存在することを基準としている。
 そして夫婦や子供はその構成員であることを示すために個人固有の名前であるファーストネームの後ろにファミリーネームがつけられ、家族に紐づけられている状態を示すものとなっている。

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 ところが今後もし仮に夫婦別姓を認める社会になるということは、従来の家制度の考え方を変えることを意味するものであり、少なくとも名前の上では夫婦や親子が家族関係を示す「姓」に拘束されない状態になる。

 するとどういうことが起きるかというと、実は社会生活の上では「姓」が存在する機能的な意味がなくなり、名前の中に「姓」を表記する必然性がなくなってしまうのである。

 まあこれは親子関係の「姓」をどう処理するかにもよるが、夫婦が別姓でも良ければ、果たして子供に両親どちらかの「姓」を選択して引き継がせる意味があるのかという議論になってくるのであり、無理にどちらかの姓を選ばず親子別姓としたり、場合によっては姓無しの名前でも良いのではということになってしまう。

 つまり、例えば「イチロー」や「ローラ」など、ファーストネームだけをつければよく、姓は必須ではなくなってしまうのである。

 姓がない名前というのはやや戸惑う面はあるかもしれないが、少なくとも江戸時代までの農民は姓など無かったことを考えると、姓の無い名前は別におかしいものでもないし、それこそマイナンバーを個人個人につけるなら、他人と重複したとしても識別には問題ないものとなる。
 
 まあ先日の裁判を起こした人たちのように夫婦別姓を望む人の感情としては、本人が生まれたときから名乗り続けた姓を結婚後も変えずに名乗り続けたいというのが根本にあるのだと思うが、夫婦別姓を認めるという制度の変化は、実は守りたいと思った「姓」そのものの意味をなくしてしまう可能性を含んでいると言えるのである。

 ここに個人が望む名前制度の理想と、制度変更から波及する現実のパラドックスが存在する。

 つまりこれらの夫婦別姓問題は日本という社会が家や結婚という制度をどう考えどう位置付けて行くかという大きな問題につながっているのであり、巷で浅く議論されているような夫婦間の「姓」の名乗り方だけの問題ではなく、ましてや各夫婦の考え方で選択できるようにすれば良いと浅はかに決められるものでもないという気がするのである。

 ただ聞くところに依ると間もなく始まるマイナンバー制度の番号上では、個人単位の固有番号ではあるものの、その個人番号上には家族の繋がりを示す数字上の意味は全く無いとのことで、夫婦別姓より先に家族の結びつきに拠らない制度設計を実現している現実がある。

 故に今後は、戸籍制度や世帯主制度といった日本の行政管理の根幹をなしていた家族という単位の扱いは、どんどんマイナンバーによる個人管理に集約していく可能性があり、別姓どころか無姓化が進んでいく可能性を含んでいる。
 夫婦別姓マイナンバー、一見別もののようにも見えるが、実は深く結びついた現在の日本社会の根源的問題なのである。