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女性の時代がやってきた?

 昨日実施された東京都知事選挙で小池百合子氏が、2位に圧倒的な差をつけて当選した。

 過半数を取れなかったとは言え、得票率44.5%の290万票は信任という意味では十分で、これで東京都知事に初めて女性が就任することになった。

 本来政治や行政の社会では女性だからとか、男性だからとかということで違いが有ってはいけないのだが、今年はどうも女性の躍進が目立つ年である。

 もちろん、既にドイツのアンゲラ・メルケル首相や韓国のパククネ大統領などが女性国家元首になっており、日本の府県知事でも山形、千葉、滋賀、大阪、熊本などでかつて女性知事が誕生し、現在の北海道知事や横浜市長も女性であるから、女性が行政のトップになるケースが無かったわけではない。

 しかし、今年は日本周辺や友好国での女性躍進が特に象徴的である。

 5月には台湾で蔡英文氏が総統に選ばれ、7月には件のイギリスEU離脱投票を受けテリーザ・メイ氏が首相に選ばれた。
 そしてアメリカではヒラリー・クリントン氏が民主党の大統領候補に正式氏名され、女性初の大統領になりうる正式な立場になった。

ヒラリークリントン氏

ヒラリークリントン氏(引用元

 そして日本でも、首都東京の都知事に小池百合子氏が女性初の知事に当選した。

 今回たまたま舛添氏の辞任が発生したとは言え、世界の流れを見るとこの女性都知事誕生というのは偶然では無いという印象である。
 しかも、いずれも男性が起こした社会的混乱の後を受けて就任しているという状況まで一緒である。
 (ヒラリー氏はまだ決まってないが、トランプパニックの収束を期待されているのは確かだろう)

 それが証拠に、今回立候補はしなかったが民進党の蓮舫氏も都知事選に立候補していれば小池氏と一騎打ちになり、何れにしても女性都知事が誕生した可能性が高かったと言われる。
 そうでなくても岡田氏の辞任表明を受けて蓮舫氏は民進党党首の有力候補とも言われており、女性がどんどんトップになる流れは世の中の風潮とも言える。

 かつては男性の独壇場だった権力のトップの極みである東京都知事や、アメリカ大統領とイギリス首相が同時に女性になるかも知れないというのは、時代も随分変わったなというのが正直な感想である。

自由の女神像

自由の女神像

 まあ女性活躍を謳う日本政府のトップが未だに男性社会なのは笑い話にしかならないが、恐らくこれも時間の問題であり、近いうちに日本でも女性の首相が誕生する可能性は高そうである。

 いや、ひょっとするともしかすると現首相は心は女性であることをカミングアウト出来ない一人なのかも知れず、そういう意味ではとっくに日本は女性初の首相が生まれているのと同じ状態という可能性もゼロではない。
 まあこの真相は本人のみぞ知るところだが、日本も世界の潮流に乗っている方向性なのは間違いないだろう。

 何度も言うように行政トップの性別で政治や行政に差が無いほうがいいのだが、時代は女性のトップを求めている流れになっており、女性の時代がやってきたのは確かなようである。

道州制主張の向こうに見える権威主義

 日本各所で検討されてる道州制、広域行政を行ない行政のスリム化のメリットがあるとされるが、どうも某政党の行なうこの主張には疑問を感じ眉唾でこれを見ている。

 確かに、日本で道州制を行なうメリットはそれなりにあると思われ、例えば関東で言えば現在は東京・千葉・埼玉・神奈川がそれぞれの行政区分に分かれて自治行政を行なっているが、もはや現状では生活圏としては首都圏という括りで考えた方がよいわけで、そのため道州制によってこれらをまとめ大きい行政単位で効率よく運営した方がいいという主張は理解できよう。

 しかしながら、これを主張する某政党の行動を見ていると、道州制は単なる手段に過ぎず、本当の要求は単なる国からの権限移譲による国の干渉の排除にあるような気がしている。

 つまり委譲と言えば聞こえはいいが、行政官僚からの権限はく奪による権限集中という目的の実現という方が現実の状況に近い気がする。

 大阪都構想なども同様で、市と府の二重行政の解消による無駄の排除という言葉は一見もっともらしいように聞こえるが、要するに命令系統を一本化して意見が異なる者を排除する権威主義のためのエクスキューズのようにしか見えないのである。

 それが証拠に大阪市立大学の学長任命に見られるような、学内選挙による推薦選出を否定し、権限者は俺だとして恣意的に学長を選ぼうと権限を振りかざす姿は、例えルール上そうであっても、どうも民主主義を否定した権威主義的な振る舞いに見える。

 要するに道州制も都構想も行政の効率化を目指すと言いながら、その実態は道州制で国から権限を奪い、都構想で対立者を排除し、下からのビルドアップも否定し、ただ選挙で選ばれた首長を最大の正義として自らのポジションに全てを集中させようという権威主義指向の形が見て取れるのである。

 道州制自体は住民自治の一つの形として、下からのビルドアップがきちんと実施されるならば求めて良い形だと思っているが、国という足かせを外して権限を強化し、首長が権威主義的に権限を振りかざす為の手段だとするならば、独裁者の誕生を許すだけのような気がしており、その具体的な中身についてはきちんとした吟味が必要なのではないかと私は思っている。

財政改革に対する期待の誤解

ここ数年、大阪や国内で大阪市のH市長が人気のようである。

 歯に衣着せぬ物言いと行動力が人気のようで、知事時代の財政赤字に対するバッタバッタと行動した対応が庶民に受けているようだ。

 まあ長年の累積した赤字は膨大で、それに手をつけなければ破綻が見えていたから行財政改革を断行するのは決して間違いではないし、そこに府民や市民が期待することは間違っていない。
 
 しかしである。

 その期待には大きな誤解が混じっていることも事実である。

 恐らく、支持者たちの期待には行財政改革が進めば自分たちの暮らしも楽になる方向へ向かうだろうという希望が混じっていると思うが、それは全くと言っていいほどの誤解だということになる。

 自治体の財政改革を単に進めるだけでは、むしろ庶民の生活にとってはマイナスはあってもプラスになることは考えにくいのである。

 何故ならば自治体の財政改革を進めるということは、即ち財政支出が減るということであり、財政支出が減るということは、その減らされる名目が人件費であれ、公共事業費であれ、補助金であれ、とにかく府や市のエリアに対するお金の支出がなくなり、そのエリアでお金が流れなくなることを意味する。

 もちろん働きの悪い公務員や議員に払う給料などはカットされるべきものと考えるのは当然だが、例えロクでもないと思われる人々に払われる給料であっても、その人が生活をしスーパーや買い物をし飲食店で飲み食いする費用が地元に落ちているならば、その分だけ地域経済へお金が流れているわけで、それをカットすることは地元への経済流入がその分だけ無くなるということを意味する。

 それだけ自治体財政と地域経済は繋がっているのである。

 例えば100億円という金額を自治体がカットすれば、単純に言って100億円が地元に落ちなくなるということを意味する。

 当たり前だが、このような単純カットを行なえばその自治体の財政はよくなる反面で地域経済は悪化することになる。

 民間企業の社長ならば、自分の会社が黒字になればそれで十分で優秀な社長という評価になろうが、自治体の長となるとそういうわけにはいかないのである。

 もし財政支出を100億円カットするならば、財政支出以外の方法で同様の規模のお金が地域で動くような施策を取らなければ、その地域の経済は結局悪化することになる。

 このような単純カットはある意味どんな馬鹿な政治家でも出来る単純な施策で、それだけで世の中が良くなるようならば政治家は苦労しないし、最初から財政赤字など積み重ならないはずなのである。

 世の中をなんとか良くしようと補助金などの財政支出に頼った施策を積み重ねた結果出来上がったのが今の財政赤字なのであり、もちろんその中には議員たちの誰かが私腹を肥やすための下らない支出が混じっている可能性があるにしろ、財政赤字になってしまった経過にはそれなりの正義の看板があったはずである。

 それを自治体が代替策なしに一方的に財政カットのみを実施することは、ある意味地域に対する自治の放棄であり、無責任ともいえる行動となる。

 そんな対応施策が見えてこない中で、目に見えて分かりやすい結果として財政カットの数字を見せて行動力をPRする彼らに対して、我々の生活向上への根拠のない期待感を膨らませるのは誤解であり危うい気がする。

 ところでこのような視点で見れば現在野田さんやろうとしていることは理解できなくもない気がしている。

 世論は増税をする前に無駄な支出を減らせと叫ぶ声が大半だと思うが、その中身が無駄であろうがなかろうが国の支出を減らせば上述の論理でその分だけ国内にお金がまわらなくなるわけで、その分だけ青色吐息の日本経済には直接的な打撃を与える。

 ならば実際にお金を動いている部分から救い上げる消費税ならば、経済にそれほど大きな悪影響を与えずとりあえず財源を確保することができ、財政改革を進める余裕がそこに生まれる。

 ここに少し余裕が生まれれば、経済への影響を考慮しつつ代替施策を探しながら財政支出を減らす時間的余裕も生まれるであろうが故に、野田さんは敢えてそういう選択肢へ進もうとしているのではないか、H市長の空虚な躍進を見るに連れ、最近そのように感じるようになった。

 消費税の問題は選挙時のマニュフェストが絡んで、道義的問題でなかなか進めにくい問題ではあろうとは思うが、ギリシャやフランスの選挙結果を見ても分かるように個人の利益だけを欲しがる選挙民の行動というのは意外と無責任だなというのが率直な感想で、そういう面で言えば野田さんは敢えて憎まれ役や道義的違反を承知で進もうとしている姿に本気で国を建てなおそうとする覚悟が見える気がしている。

 まあただ今の内閣の東電の扱いはかなり異論があるので野田さんの施策なら何でもOKというつもりもないのだが、、、


 

ブログ書く暇があったら仕事しろ

 以前もこのブログに書いたが、鹿児島県の某市の有名なブログ市長の周辺が紛糾している。

議会に鍵をして立てこもるなど、もうおよそ末期症状といえるような様相を呈している。

 この市長、ブログでは何やら立派な意見を述べているらしいのだが、私には結局はブログでしか自分の意見を述べることのできない、社会的にチープなコミュニケーション能力しか有しない人物のようにしか写らない。

 しかも人と面と向かって満足なコミュニケーションが取れないのであるから、人として市長として満足な仕事をしているとはとても思えない。

 彼のブログがどれだけ社会的に認知されているか知らないが、今の日本の行政の仕組みの中ではブログはブログでしかなく仕事ではない。
 市長としての仕事は議会や市役所など公式な場で行われるべきであり、ブログを通して何か言ってもそれは私人としての発言に過ぎなく市民へ発信した形にはならないのである。それを業務連絡のように本人が捉えているのだとしたら勘違いも甚だしいところである。

 人を取りまとめる一組織のリーダーたるもの、組織とのコミュニケーションが取れずして組織をまとめるなどありようはずがなく、この市長のやるべき仕事はブログに一方的に自分の意見を書き殴ることではなく、自分に反対する者とコミュニケーションをとって相手の意見に耳を傾け、自分が正しいと信じる方針を粘り強く訴えていくことであろう。

そのためにはブログなど却って邪魔なのではないか?ブログを書く暇があったら市長としての仕事をしろといいたい。

 まあ意見が通らないからといってコミュニケーションを拒否して立てこもってしまうような人物では、市長どころかどんな仕事も向かないであろうから、まずはブログを捨てて社会と一から向き合うことをお勧めしたい。

そんなブログに頼られたコミュニケーションのままでは周囲が迷惑だと思う。

職場放棄する未熟なリーダー

 最近、何かと話題になっている日本の某都市の市長さん。
 マスコミが議場にいるから議会に参加出来ないといっている話が伝わっている。

 マスコミが何を言ったのか知らないが、彼の行動は一つの組織を預かるリーダーとしてあるまじき子供染みた行動で、有権者を馬鹿にした話である。
 まあ日常のマスコミの一方的な報道に関しても全く問題が無いとはいえないが、反対意見とまっすぐ向き合えないのは自治体を代表するリーダーとしての資質に問題があるであろう。

 完全な職場放棄である。
 
この市長、初当選の時から何かと話題になっており、過激な発言がそれなりの支持を得られたから市長に当選できたのであろうが、最初から行動が奇をてらいすぎておりいずれメッキがはがれるであろうと私は見ていた。
 そう思っていた一番の理由は、この市長は他人とのコミュニケーションが非常に下手であると感じていたということである。

 彼はブログ市長といわれるほど、ブログが好きらしいが「ブログ=一方的な意見の主張」であり、ブログは他人とのコミュニケーション形成に一定の成果を果たせども、一対一の完全なコミュニケーションツールではない、ブログはコミュニケーションツールというより、どちらかというとマスコミ的な一方通行発信の要素が強いツールである。

 こういったツールは、日常では情報発信手段を持てない一般個人のためのオピニオンツールとしては非常に強力な威力を発揮すると思えるが、この市長が未だにブログを頼り続けているということは、一般人のそれとはまた意味が違ってくる。

 つまり、この市長が市長というパブリックなポジションにつき、どうどうと個人の意見を言える立場になったにも関わらず、未だにブログに傾倒しているということは、彼が対人コミュニケーションに未熟で、対面で意見を言うことができず、ブログでの一方的な意見発表に固執しているという見方が出来る。

 つまり相手の意見を聞きながら自分の意見を言うというコミュニケーション能力に欠けたり或いは未熟だったりするので、自分に反対する意見が出てきたときに相手と意見を調整しながら問題を解決するといった行動が取れず、結局はそれを排除するような方法でしか問題解決できないのである。
 現に、この市長は市職員を懐柔する努力を全くせずに、個人の一方的な考え方を是として押し付けてしまったために、職員側を敵に回してしまった。市長の主張する市の財政再建などは確かに正論かもしれないが、手段に問題がある。荒療治とも呼べないような稚拙な手段で相手を硬化させてしまっている。まあ内容は善であっても独裁的手法ともいえるかもしれない。

 彼に投票した有権者は、こういった市長の過激な行動が既存の硬直化した行政システムを打ち破ってくれると思ったのかもしれないが、他人とのコミュニケーションがとれず引きこもってしまうような人間に果たしてそんな力があるだろうか?

 ブログという自分のフィールドで立派な意見主張をするのは勝手だが、リアルな世界でまともなコミュニケーションや行動が取れないのでは話にならない。

 しかも組織のTOPである重責を忘れて業務放棄などは職責の自覚と責任感の欠如に他ならない。

 こういう見せ掛けだけの、人間として未熟なリーダーがトップに立ってしまった組織の人間はとても不幸であると思う。

 最近どうもこういった人間が増えている。