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長寿のお祝いに見る二重行政

 日が変わってしまったが昨日9月16日は敬老の日で、日本国内全体にて長寿のお祝いに対する話題が各メディアで取り上げられた。
 その中の一つとして、ラジオで聴いていた話題がちょっと気になった。

 それはあるリスナーの親だか叔母だか100歳になった方の状況についての様子がラジオに投稿され、読まれていた内容のこと。

写真はイメージ

 それによるとその方の100歳のお祝いとして、内閣総理大臣の名前で記念品、都知事からも記念品、区長の名前でお祝い金、さらには町内会の名義で記念品など沢山の品物が届いたとのこと。

 これを聞いて私は凄いなと思うのと同時になんと縦割りの二重行政の長寿祝いなのだろうと感じた。

 もちろん100歳のお祝いについては大変めでたいことなので、祝うこと自体を否定するつもりもないが、国や地方自治体までがそれぞれ別々にお祝いすることでもあるまいと思ったのでる。
 内閣総理大臣や都知事の名を記したお祝い状や記念品などは、どうも選挙目当てのパフォーマンスの匂いがプンプンしてならない。

 記念品贈呈への授与側名義など「私は福祉に力を入れていますよ」とアピールするには絶好の場だからである。

 まあ100歳くらいの高齢者の方だと、そういった有名な行政府の長からのお祝いが届くことは権威主義的な感覚で嬉しさを感じる面もあるのかもしれないが、私ならば自分のことをろくに知りもしない人から突然祝われるのはとても違和感がある。

私の感覚から言えば、もし自分が100歳になってお祝いをもらうならば、お祝い主体として一番嬉しいのはおそらく市区町村などの地方自治体であろうか?

 同じ自治体の人々は、直接の顔見知りではなくても同じ町の同じ風景の中で暮らしてきている人々であり、共通感覚を持って生きているという認識があるからである。
 また、国や県などの行政窓口に行く機会は直接の仕事をしていない限り滅多にないが、市区町村の窓口の場合は誰しも年に一回や二回は行く機会があり、比較的身近な存在として自治体の存在を感じる。

 そういった意味で、市区町村から贈られるお祝いなら一番嬉しい気がする。

 しかも、できることなら首長名義ではなく市民一同といった形で、個人名義を外してもらうほうがより良い気もする。

 まあとにかく、そういった比較的身近な人たちのお祝いがあれば、二重にも三重にも行政府からお祝いを受ける必要がない気がするのである。

 まだ100歳の半分にも達しておらず、恐らく100歳は無理だろうと感じている自分だが、ちょっと気になった行政による敬老のお祝いに対する疑問なのである。

ラヴェルのボレロ

 ラヴェルのボレロはとても有名な曲であるが、とても不思議な曲でもある。

 リズムは最初っから最後までほぼ同じで、メロディもA、A、B、Bのパターンを繰り返し、それをひたすらクレッシェンドで曲の最後まで続けていく。

 構造だけを見れば、あまりにも単純で人々がこれを音楽として好むのかどうか疑問が湧くような内容になっており、感動する要素が見当たらないような気がするのである。

 実際、作曲したラヴェル本人でさえ、この曲が受け入れられるかどうか自信が無かったようである。

 しかし、そういった単純な構造の中に曲に変化を与えているのがメロディをソロで次々に受け継いでゆくオーケストラの各楽器達であり、楽器一つ一つの個性が音楽に様々な色を付けてゆき、同じメロディであることを飽きさせず、寧ろ心地よい興奮を与えてくれる。

 社会にいる同じように見える人間が色んな個性を持ち、それぞれの世界の側面や個性が次々に表に出てくるような、そんな印象である。

 また各楽器はメロディを奏でた後、あるいは奏でる前には小太鼓とともにリズムを刻みその音の輪を広げていく。

 これもかかわる人の輪が徐々に広がっていくようで不思議なパワーを与えられる。

 こういった同じメロディや同じリズムを繰り返しながら、その色合いを次々に変化させながらも曲は弛まなく前に進む。

 やがてソロから弦楽器のユニゾンへ受け継がれキラキラとした光を放ち始め、最後には金管楽器群が荘厳さを感じさせるような眩いばかりの光となっていく。 

 このような過程がとても心地よいのである。

 ただ単純な繰り返し、その中で同じ内容をそれぞれの人が各自の役割を受け持って支えあうことによって大きな力となって結実することが出来るようなイメージ、これがボレロの人気たる所以なのかなという気がしている。

 まあ、気を付けないと国家主義者や権威主義者に利用されかねない内容でもあるが、個々が個性を発揮して大きなものを作り上げるという意味では、私の非常に好きな曲となっている。

 日常の単調に見えるような作業の繰り返しでも、胸を張って信じて前に進むことでやがて協力者が現われ光輝く時を迎える、そんな勇気を与えてくれる力がここにあるような気がする。

道州制主張の向こうに見える権威主義

 日本各所で検討されてる道州制、広域行政を行ない行政のスリム化のメリットがあるとされるが、どうも某政党の行なうこの主張には疑問を感じ眉唾でこれを見ている。

 確かに、日本で道州制を行なうメリットはそれなりにあると思われ、例えば関東で言えば現在は東京・千葉・埼玉・神奈川がそれぞれの行政区分に分かれて自治行政を行なっているが、もはや現状では生活圏としては首都圏という括りで考えた方がよいわけで、そのため道州制によってこれらをまとめ大きい行政単位で効率よく運営した方がいいという主張は理解できよう。

 しかしながら、これを主張する某政党の行動を見ていると、道州制は単なる手段に過ぎず、本当の要求は単なる国からの権限移譲による国の干渉の排除にあるような気がしている。

 つまり委譲と言えば聞こえはいいが、行政官僚からの権限はく奪による権限集中という目的の実現という方が現実の状況に近い気がする。

 大阪都構想なども同様で、市と府の二重行政の解消による無駄の排除という言葉は一見もっともらしいように聞こえるが、要するに命令系統を一本化して意見が異なる者を排除する権威主義のためのエクスキューズのようにしか見えないのである。

 それが証拠に大阪市立大学の学長任命に見られるような、学内選挙による推薦選出を否定し、権限者は俺だとして恣意的に学長を選ぼうと権限を振りかざす姿は、例えルール上そうであっても、どうも民主主義を否定した権威主義的な振る舞いに見える。

 要するに道州制も都構想も行政の効率化を目指すと言いながら、その実態は道州制で国から権限を奪い、都構想で対立者を排除し、下からのビルドアップも否定し、ただ選挙で選ばれた首長を最大の正義として自らのポジションに全てを集中させようという権威主義指向の形が見て取れるのである。

 道州制自体は住民自治の一つの形として、下からのビルドアップがきちんと実施されるならば求めて良い形だと思っているが、国という足かせを外して権限を強化し、首長が権威主義的に権限を振りかざす為の手段だとするならば、独裁者の誕生を許すだけのような気がしており、その具体的な中身についてはきちんとした吟味が必要なのではないかと私は思っている。

地方発を謳いながら国家を振りかざす知事

 少し前になるが、日本の某有名知事が教職員に対して卒業式の国歌斉唱の際に起立しなかったら必ず辞めさせると息巻いている、といったニュースを目にした。

私はこのニュースを見て、

「あれ、なんだこの知事、言っていることとやっていることが矛盾しているな」
という印象を持った。

 この知事、確か「地方発で国を変える」ということを盛んに発言し、つまりボトムアップで政治を行おうとしているという印象を受けていたが、この発言はどう見ても上から権力を振りかざし、命令に従わそうとしているという姿勢に見える。

 特に「地方から」といっているのに国家の象徴である「君が代」に敬意を払えと国家を振りかざし人事権で力づくで従わせようとしている点が非常に不可解だ。

 うーんこの知事も地方発だと言いながら、結局は権力志向で天下人を夢見る存在なのか、そんな印象を持ってしまった。

 そういえばこの人が中心になって参加している某地方政党のネーミングもどうも頂けなく、改革が旗印のように見えて実は単に幕末ロマンに自分に重ねて酔っている人たちの集まりなのではないか、そんな印象を持ってしまう。

 歴史好きの政治家には幕末ロマンに自分を重ねている人は少なくないが、俺は龍馬だの、奇兵隊だの、そんなことを口走った政治家達が中身のある政治を行えず、ロクな成果を挙げていないのは周知の通りである。

 しかも当の明治の政治家たちも新体制といいながら中身は薩長政治だったといわれるように、偏った地域出身の政治家たちで固められた政権体制になってしまったことを考えると、当代の彼らも明治のそれらと何ら変わりない単なる野望家達の集団なのではないかという印象につながる。

写真はイメージ

写真はイメージ

 私自身は国歌と国旗などは特になくてもいいと思っているが、それらがなければ自分を日本人だと認識できない人が世の中に沢山おり、その人たちから日の丸と君が代を奪うほどの理由は自分の中にはなく、彼らがそれによって心の安定をもたらされているのならば強く反対するほどの否定意識を持つわけではないので、消極的肯定というような考え方でこの2つの存在を見ている。

 故に、私から否定することはもちろんしないが、逆にこれを強制されることには非常に抵抗感を覚える。

 つまり強制されること=国家権力の振りかざしの印象を受ける。

 それは私からすれば公務員だからといって強制されるべきものではなく、業務の忠誠とはまた別のものであるという考え方である。
 しかも今回のそれは地方公務員に対しての発言であるから余計に不可解だ。

 そんな私の目から見ると、今回のこの知事の発言はどうも彼の矛盾をさらけ出しているように感じるのである。