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大阪人の大阪人による大阪人のための自滅

 先日の大阪市の都構想に対する投票結果だが、数日過ぎて冷静に振り返ってみると、ますます今回は成立しなくてもよかったなと思えるようになってきた。
 まあ都構想という新しいシステム自体は、順調にシステムが動き出せば、今より良くなるか悪くなるかは別にして、それなりの状況になったのだとは思う。

 しかしながらこの「順調に」というのが一つの問題で、この新体制を推進しようとする橋下市長やその周囲の人々の質に不安があり、彼の行ってきた府政や市政を振り返ると、どうにも順調に行きそうな気がしないのである。

 彼らの何が問題かといえば、橋下氏自身にももちろん問題がないとも言えないが、実は彼よりも彼を支持する人や彼の周りに集まってきた人のほうに質の問題があったという気がするのである。

 どうも大阪の人というのは、異端児的なヒーローを好むのか、他の都道府県とはちょっと毛色の違う首長を選ぶ傾向がある。
 で橋下徹氏はその象徴のような存在として、7年前に政界に登場してきたわけで、彼は敵を作り出しては叩く劇場的な手法で、一種のヒーロー的な扱いで人気を博してきた。
 ただ、彼は部下や周囲を懐柔するような手法を取らずに権威主義的に組織を動かすため、彼の下に集まってくる味方というのは、彼を慕ってくるというより訳も分からず勢いのある人間の尻馬に乗るような人々に見え、そういった輩が非常に多かったような印象である。

 その証拠に彼の施策によって維新の名の下で就任し、非常識な不祥事を起こしたような学校の校長や議員などの事案がこれまで度々発生してきたわけで、如何にイケイケ気分の人々が数多く彼の威を借りに集まってきたがわかる状況になっている。

 その一方で彼に敵とされた側は、当然彼の独善的な押し付けに対して不満を感じるわけであり、初めは少数だったその敵たちも彼が事案のたびに敵をつくるので、市民の中の敵の数は増えていくことになる。
 (例えば今回高齢者は無料パスの件で敵とされた人々と考えることができる。)

 結局運よく敵とされずに彼に不満を持たなかった人々の期待と、勝ち馬に乗ろうと彼にすり寄ってきた人々が先日の投票で賛成票を投じたが、敵とされた人たちや彼らを信じ切れない人々によって彼の提案は否決されたのである。

 では、もしあの投票で賛成が上回っていた場合、どうなっていただろうか?

 もちろん全てがうまく行かないという訳ではないかもしれないが、投票結果だけを背景に権威主義的に市の組織を壊して大阪都をつくっても、人望で人を動かすわけではない橋下氏の指揮では人が動かず結局うまく回らなかっただろうに思う。

 そればかりか、勝ち馬に乗りたがるような意識の人々によって、維新無罪とばかりに不祥事が頻発したのではないかと想像してしまう。
 橋下氏は度々在野の民間の優秀な人材を公募するような手法を取ってきたが、実は在野にいるような人々は組織を飛び出したからそこにいるのであり、やる気があると言えば聞こえはいいが、一山あてようという野心家が多いのではないだろうか。
 本当に優秀な人材は在野になかなか流出しないのであり、きちんと元の組織を守れるから優秀なのであって、野に飛び出した野心家が突然組織の長に抜擢されてもたいていは人心を掌握する術を知らないのでうまく行かないのだと感じる。

 実際、その程度の意識で維新に集まっていた人々の一角がこれまで不祥事を起こした人々だと思える。

 またそれらの不祥事の当事者に限らず総じて野心家の意識をもった大阪人の集まりが維新の会であるような気がするし、都構想の勢いに乗っかろうとした大阪人たちが、結局不祥事や劇場手法で敵を作りすぎて自滅したのが今回の都構想投票ストーリーだった、そんな気がするのである。

 で今回は都構想は否決され実現しないことになったのだが、都構想を取り巻く人々の質を考えると、あのまま都構想に突っ込んで行っても空中分解するだけだったように思えるので、やはり大阪人にとってはよき結果だったと私は思うのである。

 

代議士を選ぶ間接民主主義の限界

 昨日、日本の大阪市と大阪府の合併を巡るいわゆる都構想の住民投票で、反対が賛成を上回り、議案が否決された。
 まあ、この政策そのものは私はどちらかといえば反対の立場で、行政システムを変えなくても改革は可能だと言う考え方であり、かの橋下市長のような敵を作って叩いていくという劇場型行政運営には懐疑的な見方を持っていたので、今回の結果には一応安堵している。

 あのような大きな改革は、旧制度の中にいる層を懐柔しつつ変化を促す政策をとらないと、単に敵ばかり増やしてしまう結果になるので、既得権益層の抵抗でまずうまくいかないというのが私の持論である。
 分かりやすい二元論に持っていく彼の姿は、派手好きな関西系の市民にはそれなりにウケていたのかもしれないが、実際の社会はそんなに単純に片付くものではないのであり、そういった二元論的手法が結局行き詰ったのが今回の結果だと思っている。

 ただ一方で、今回一つの政策に対して住民の直接投票が行われ、その結果によって意思決定が行われたのは大変意義深い結果だと思っている。
 
 現在、日本の国政では先の選挙で勝った政権与党が、国民の意思を反映しているとは思えない安全保障政策を遂行しようとしている現状がある。
 確かに先の選挙では、現在の与党が結果的に過半数議席を獲得しているが、得票数の上では過半数に達しておらず、しかも有権者数全体から見れば25%程度しか得ていない政党が圧倒的議席を持つ結果となっている。

 しかも、恐らくそういった投票行動の理由の中身は、経済政策への期待が強い面が高いと察せられ、安保政策の推進で票を得たのではないというのが私の印象である。
 まあ、これは私のあくまで私見であるため実際の中身がどうなっているかはわからないが、一人の候補者の全ての政策にOKを出してはいなくても、有権者にとって最優先課題で合致すれば投票してしまうことになるのが今の選挙制度である。

 つまり、現在の代議制間接民主主義の現状では、政策の選択ではなく「人」を選択する選挙しか行われていないわけで、多くの検討課題分野について、個別の政策判断ではなくそれを決定する人、あるいは政党を選ぶ総合的判断だけの選挙行動になってしまっているのである。

 それゆえに、例えば前回の選挙のように「民主党候補者」というレッテルだけで、投票行動が判断されてしまえば、どんなに個別案件で素晴らしいアイデアや見識があったとしても、立候補者個人が駄目な人だとして否定されてきたのが実態である。

 或いは現在の政権のように国民は「アベノミクス」という経済政策についてだけ期待をして投票していたとしても、別の軸の検討課題である安全保障という問題にまで下駄を預ける結果となっている。

 こういった現状を考えると、現在のような間接民主主義というのは制度的限界に来ているのではないかと感じる面がある。 

 現代では近代の間接代議士制の生まれた時代に比べ、遥かに容易に国民の意見集約が可能であり、情報伝達力や発信力も高いため、国民自身が直接意思表明をしやすい環境も整っている。

 故にこういった時代において、間接民主主義にだけよって政治が行われるのはやはり時代にそぐわなくなっているのかも知れないと感じる面があるのである。

 そういった意味で昨日行われた大阪での住民投票は非常に意味が大きく、住民が個別政策に直接参加して判断したというのは素晴らしい結果だという気がするのである。

 今後、国政においてもやはり国民の直接参加というのは必要だと感じており、有権者4分の1しかの得票を得ていない政党の判断によって全国民の命が危険にさらされるような政策の実行は阻止されるべきであり、個別の政策に対する国民の直接の意志判断がもっと直接的に国政に反映されるべきだという気がするのである。

実は日本の首相がテロリストを利用したのではないか?

 最近の日本の国会では、政治とカネにまつわる問題で、再びいろいろ揺れ動いているようだが、そもそもそういった問題が無ければ、安全保障の問題一色になっていたはずの国会である。
 その安全保障に関して言えばISIL(通称イスラム国)に2人の日本人が殺害されてから、その存在感が世界の中でますますヒートアップしているように報道されているように思える。

 で、今更ながら振り返って見ると、あの事件は実は日本政府によって演出された事件、いや更につきつめて言えば首相によって演出された悲劇の事件だったのではないかと思える部分がある。

 後藤さんと湯川さんが殺害されてから一か月以上経つが、今だに当時の交渉の経緯などはあまりはっきりしていない。
 もちろん、次の被害者が出た時のことを考えれば、あまり情報を公にしない方が良い面があるのはわかる。
 しかしながら、そういった面に隠され、今回の事件において日本政府が本気で人質救出に取り組んでいたとは思えないところがあるのである。
 むしろ敢えて助けずに悲劇を招いて、ISILやテロリストたちを「残虐非道な日本の敵」である印象付けの誘導を日本国民に対して行なおうとしていたのではないかと感じる面がある。

 その一つの根拠が今回首相がエジプトで行なった資金援助に関する演説で、あのような演説を軽率に行なったお蔭で相手を刺激して悲劇を招いたのではないかと日本国内ではマスコミ等々で批判されているが、私は実はあれは「軽率ではなく確信犯」として相手を挑発する発言を行なったのではないかと感じている。
 その理由として首相の演説に関する日本文と英語分のニュアンスの違いが挙げられ、日本語では人道的支援に重心が置かれたような文になっているが、英語ではISILと敵対する国に援助するという意味が強くなっているというトリックがある。

 これにより国内向けには人道的支援と言いながら、国際的には軍事支援の色が濃いメッセージとなっている。
 この問題点に関して一部では外務官僚たちの英語力不足と配慮の無さを指摘する声もあるが、実はこれもミスに見せた確信犯的対応ではないかと推測している。

 つまり敢えてISIL側を刺激するようなメッセージに変え、ISILを怒らせて人質を盾に日本政府に敵対するようにおびき出したのではないかという気がするのである。
 かの首相は直前のパリのデモに対しては無反応に近いくらい非常に対応が小さかったにも関わらず、エジプトではかのような挑戦的とも言えるメッセージを発するというのは、どうも一つの主義を持つ人間の発言や対応としてバランスがおかしいのである。

 じゃあ、どうしてISILをおびき出す必要があったかと言えば、首相の進める集団的自衛権の推進には、「具体的な敵が必要だった」からではないかと考える。

 従来冷戦の時代では、日本の仮想敵国と言えば隣接する共産圏の国、つまり中国やロシアであったわけだが、経済的な結びつきが強くなった今の時代にかの国たちを強く「敵」だと名指差しするわけにもいかない時代になった。
 しかし、敵がいなければ安全保障の必要性も説くことは出来ない訳で、防衛戦略を進める上で日本国民が誰でも「悪」だと感じ「敵」だと思える存在が必要になる。
 そこで、日本より遥か遠くの中東で暴れている「ISIL」というテロリストたちに狙いをつけ、「幸いにも日本人の人質が捉えられている」タイミングを狙って、刺激するような演説をして、彼らの過激さを焚きつけたのではないかと察するのである。
 
 その結果、今回見事ISILたちは挑発に誘い出され、日本人の人質を殺害した結果、彼らは日本人にとって仇となり恐怖の敵として成立させられたという結果になった。
 しかもこれらの事件が連日報道されたことにより、誰もが極悪非道と思える行為を行なった彼らを敵と呼ぶことに、日本国民は誰も反対しなくなり敵が存在するということを認識させられたのである。

 しかしあるところの情報によると、実は今回の後藤さんの救出交渉の中で、シャラウィ死刑囚との人質交換交渉がまとまったにも関わらず、どこからの横やりで、既に殺されたことが分かっていたヨルダン人パイロットの生存確認要求を敢えて行ない、交渉が決裂させられたのではないかと言われている。

 つまり助けられるチャンスがあったにも関わらず、みすみすそれをフイにして、後藤さんが殺されるように仕向けたのではと思える経過があったようなのである。
 これが事実かどうか分からないが、事実だとすると後藤さんが平和的に助かっては困る人がいたことになる。

 さてこの事件後、日本国内では首相によるテロに対する過剰とも言える非難の言葉が聞かれるようになり集団的自衛権の推進や、邦人救助のための自衛隊の海外派遣などが真剣に議論されるようになった。
 昨年の閣議決定以来、安全保障法案の改正を目論む首相にとって、今回あまりにもタイミングの良い事件となったわけだが、その発端が自身の中東訪問だったとすれば、どうも意図的に演出された事件なのではないかという疑いが強くなる。

 はてそこまでして何故、集団的自衛権がそんなに必要か?

 以前、敵がいなく平和な世の中は軍事産業にとっては都合が悪いといった話をきいたことがある。
 常に人々が恐怖におびえている方が儲かるのが軍需産業で有り、つまり日本にも軍需関連産業を潤わせたく、防衛予算を増やしたい人がいるということのようである。

 どうもそんな目的の人たちのために、今回はテロリストの存在が敵として利用され2人の命が犠牲になった、そんな気がしてならなくなった最近の日本の動きという気がする。