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D案の朝顔のエンムブレム候補

 昨年大騒ぎになった2020年の東京オリンピック・パラリンピックのエンブレム問題だが、先日ようやく新たな候補作品が4作品が発表され、間もなく正式なロゴが選出される段階になっている。

エンブレム候補作品

エンブレム候補作品(引用元

 まあ私もこのエンブレム問題については何回かブログで触れているので、こういうことを言ってしまうと矛盾があるだが、そもそもエンブレムなどオリンピックにおいて主役でもないので、騒ぎすぎるのもおかしいという気がしている。

 つまり元々はそんなに力を入れて選ぶものでも無いのであって、盗作とかよほど恥ずかしい作品でなければ特に気にする必要はないのである。

 参考までに過去のオリンピックのエンブレムを振り返ってみたが、確かにどれも記憶にはあるが、強烈に印象に残るような名作があるわけでもなく、つまりその程度の存在でしかない。

歴代オリンピックエンブレム

歴代オリンピックエンブレム(引用元

 そういった意味で言えば、まあ今回の候補作品も招致ロゴほどインパクトはなかったものの、どれも無難である印象である。
 それ故に、この候補作品の中からどれが選ばれても恥ずかしいものとはならないはずなので、後はどれかを選ぶだけであり、もうこの問題が長引くのは良くないと感じている。

 それよりは聖火台や神宮球場問題など、解決しなきゃいけない問題が噴出しているのだから、納得いく形でどんどん手際よく進めてほしいのである。

 と、書いてはしまったが、ネットであのように4点の候補作品が並べられてしまうと、やはり私も気になってしまう。
 私が、かの候補作品の中で気に入ったのはD案の「朝顔(あさがお)」モチーフの作品である。

 その理由としては、やはり花がモチーフであることが大きい

 さらに朝顔は江戸文化の象徴でもあり、夏の花の代表格の一つ(俳句としての季語は秋らしいが)でもある。

 故に夏のオリンピックの象徴としては夏に咲く朝顔はとっても似合う印象なのである。

 もともと私は以前からブログで書いているように今回の東京オリンピックには「花」が切っても切り離せない存在であるという印象を持っており、やはりエンブレムにも花を描いてほしいという希望があった。
 そこに、この朝顔モチーフの候補作品が登場したのだから、私個人としてはほかの作品は選択肢としてなくなったのである。

 もちろん日本の代表的な花と言えば桜が一番であり招致ロゴも桜を取り上げていたのだが、今回は夏のオリンピックであり、桜のイメージ自体もの実は明治政府の恣意的な姿である可能性もあるわけで、桜では相応しくないという印象も持ち始めていた矢先であったから、なおのことこの朝顔がしっくり来た。

 また朝顔は品種も豊富でそれぞれが個性豊かで、色とりどりである花であることも、単一種のソメイヨシノよりオリンピックに相応しい花である印象となっている。

 しかも朝顔はその名の通り朝咲く花であり、今回真夏に行われる東京オリンピックでは恐らく日中を避けて早朝に実施される競技もあるはずで、そういった意味でも似合う花と言える。

 また東京周辺の多くの人が恐らく小学校の時に朝顔を育てた経験があるはずで、非常に親しみのある身近な花でもある。

 そういった花だからこそ東京オリンピックに朝顔のデザインが使われるのは意味があるという気がする。

 まあ一部の意見では、朝顔は中国原産だから日本ぽくないのでエンブレムに相応しくないという人もいる。
 確かに中国でも朝顔は「喇叭花」と呼ばれあちらこちらに普遍的に咲いているが、しかし中国ではそれほど特別な存在の花になっているわけではなく、沢山ある花の一つでしかないという気がする。

 それに比べ江戸にとっての朝顔は江戸時代に二度もブームが起きるほど品種改良が盛んだったと言われ、着物や浴衣の柄にも良く取り入れられているほど象徴的な花なのである。
 さらに夏に暑さを凌ぐために簾に朝顔の蔓を這わせ、自然の遮光壁を生み出す知恵は見事であり、古き良き江戸の風景をも作っていた存在なのである。

 こんな江戸文化に深く関わっている朝顔を是非オリンピックでも東京を象徴する花として、エンブレムにもやはり使ってほしいというのが今回の私の強い個人的希望となっている。

富士山が世界遺産登録

 日本の富士山が世界文化遺産に登録が決定したという情報が今朝のコンフェデ杯の中継の合間のニュースで何度も流されていた。

 まあ、世界遺産に登録されようとされまいが富士山の価値は不変であろうと思うが、今まで登録されていなかったのが不思議だと言われるくらい、シンボルオブジャパンとしての存在感を持っていたのが富士山であり、わざわざ語るのが野暮なくらいその姿が世界に広く知れ渡っている。

今年の正月に撮った写真(手前はスカイツリー)

今年の正月に撮った写真(手前はスカイツリー)

 恐らくその知名度たるや、自然景観で言えば米大陸のナイアガラの滝や豪大陸のエアーズロックに比肩するレベルであり、建造物のピラミッド自由の女神などにも負けない浸透度と思われるが、その富士山が今回ようやく世界遺産に求められることになった。

 そして今回注目すべきなのは、自然遺産ではなく文化遺産として登録されている点である。

 つまり富士山は自然としての貴重性ではなく、浮世絵を初めとした数々の絵画に見られるように信仰や文化面における存在価値を認められての登録となっている。

 確かに、初富士などの言葉にも見られるように自然信仰としての富士山の存在は大きく、私も今年の正月に富士山を拝んだことを記憶している。

 そして富士山のあの雄大な存在感は、自然の畏怖を我々に与えてくれ信仰心の薄い私でも拝みたくなる存在であり、向かい合うだけで他の山では感じない程の懐の深さを感じずにはいられず、身の引き締まる思いになる。

 そう思うと世界文化遺産だと言われることにしっくりくる。

 まあ直接富士山の見えない西日本や東北の人にとっては、富士山が日本のシンボルと言われることについてどういう意識を持っているかは分からないが、もし「日本人としてのアイデンティティ」をどうしても一つ求めなければならないとすれば、この富士山は最もふさわしい気がしており、例えば難癖の付きやすい国歌なども、文部省唱歌の「ふじの山」に制定すれば、誰からも文句の出ようもないという気もしている。

 今回世界遺産に登録されたからというわけではないが、金儲けやつまらぬ意図をもった人から富士山を守ることが現代に生きる我々の使命でろう。
 

日本人として当然はいつからか?

 時々聞かれる「日本人として当然」という言葉。

 礼節から始まって、日の丸国歌天皇制との向き合い方の問題まで幅広く言及される「日本人として」という言葉だが、実はその具体的なイメージが作られたのはいつの頃かというのが最近非常に気になった。

 全てにおいて大きな転機になったのは、やはり明治維新以後の明治政府の政策による誘導が大きい。

 江戸幕府によって治世が行われた頃の日本は、現代の尺度から見れば全く問題が無いとは言えないまでも非常に安定したものがあったが、鎖国という特殊状況が故に進歩も遅れ、世界から遅れた状況になっていたのが幕末の状況である。

 それを軍事クーデーター的に天皇を担ぎ上げて政府を作ったのが明治政府で、尊王討幕の言葉の意味合いからすれば武力政権(江戸幕府)を倒し徳の政治(王の政治)へ移行したことになるが、まあ私から見ると実際は逆で、徳で治めていた国を軍事的に倒した軍事政権的色合いが強かったのが明治政府のような気がする。

 その明治政府の下、作り上げられたのが今にも影響を残す「日本とはこうだ」というイメージ像で、国をまとめ上げるために作られたこのイメージは軍隊教育的な匂いが色濃く、それ故に現代までも一部の人間に強く影響を与えているが、実は歴史的時間で言えば明治維新から敗戦までのたった150年ほどの間に作り上げられたものに過ぎない。

写真はイメージ

写真はイメージ

 例えば天皇制は確かに2000年以上ものあいだ続くとされる制度ではあるが、鎌倉以降は武家政治の時代が続いたため、この約700年もの間は現代の象徴天皇制のような位置付けが続いていた。
 それを政治の看板として改めて引きずり出したのが正義の看板が欲しかった明治政府であり、それ以前の江戸時代の庶民にとっては既に世の中で権力を持って偉いと感じていたのはやはり天皇ではなく自分の領地のお殿さまであり、幕府の将軍であると思われる。

 日の丸とて、その存在自体はは平安時代頃からあったようだが、実際に国の標識として使われ始めたのはやはり明治維新前後からであり、国歌も同様で、ましてや国旗に敬礼をしろなどというのは明治政府の軍隊的教育以外の何ものでもない。

 また性的観念なども、今でこそ日本人は慎み深くあるべきだという考えが主流だが、これも明治政府が欧米列強に肩を並べるためにキリスト教的道徳観念を国民に強いた結果であり、それ以前の日本人は長きに渡ってかなり性的に開放的であった事が資料から伝わっており、現代の道徳観念までも否定するつもりはないが、決して「日本人として」伝統的にその考え方があったわけではない。

 さらに明治政府は、廃藩置県により地域にあった自治の体系を壊し中央集権の国家に作り変えてしまったため、日本の自治の土壌を失くし、今に続く官僚政治や、藩ではなく日本という大きな枠のイメージを作り出し、最終的に新たに統治に都合の良い「日本人とは」とか「日本とは」というアイデンティティを生み出すのに成功したのではと思われる。

 どうもこういった点は大きな声では言えないが、現在のどこかの国と似た面がある気がしてならない。

 これらのことを考えると、今の人がよく口にする「日本として」のイメージは、実は明治政府が意図的に作り出したナショナリズム的なイメージであり、日本の歴史の中では必ずしも伝統的に長い間存在していたわけではないことになる。

 明治政府は国の制度の近代化という面である一定の役割を果たした面は確かにあるが、それと同時にそれ以前に長くあった自治的結びつきや日本の文化を多く破壊したという面もあり、欧州列強を意識過ぎたばかりに明治維新以後に出来た日本という枠は決してプラスばかりではなかったという気がする。

 ましてや、日本の敗戦によって民主国家として再出発してから70年近く経つわけで、そろそろ国民や政治家は明治政府の呪縛から解き放たれてもいい頃なのではないかという気がしている。

 

お茶くみは礼儀正しいロボットに?

これはいわゆる江戸時代にあったお茶くみ人形を、現代用に組み立てキットとして復元したものらしい。お茶を運び、湯飲みを取り上げると止まり、飲み終わって戻すとお辞儀をして、すり足で帰っていく。江戸時代からこんな複雑なロボットをつくった日本人の技術には驚くべくものがある。もちろん電気など使わないゼンマイ仕掛けである。
更に、この人形が凄いというか感心するところは、単に物を運ぶ機能だけでなく、日本人の「作法」をわきまえて動いているというか、それをやらせているところにある。お辞儀、すり足」といった日本的作法を含んで動いているのである。
 現代のロボット技術進歩は目覚しいが、こういう気遣いのロボットは見かけない。
技術的には、やらせればできることではあると思うが、その気遣いをするかどうかである。
 中国の技術の進歩も目覚しいところがあるが、日本人特有の気質としてこの気遣いの精神を大事にしていけば、中国にはいつまでも抜かれないでいられる気がする。