Tag Archives: 気質

バスの運転手に突然指差され

 昨日の昼間、バスに乗ろうと待っていたら、その時に走ってきたバスを運転していた運転手が、突然運転席から私に向かって指を差してきた。

 急な出来事に訳が分からずこちらはポカンとしていると、その運転手はバスの扉を開けて私に話しかけようとした。

 で、運転手が話しかけようとして何かを言いかけたが、突然話すのを止めた。

 こちらは益々何事か分からない。

 「何が起きた??」

 こちらは自分が変な格好していたかもしれないかと思って慌てて自分の恰好を確認したり、もしや重大な交通違反などを起しておりそれを指摘されたのではないかと思い、ちょいとパニック気味になった。

 ところが、その後に運転手が言った一言が

 『見間違いだ、人違いだった』

 おいおい、そりゃないだろう!

 運転手の言うには、知り合いにそっくりで何で昼間っからこんなとこに居るんだと思ったとのこと。

 料金徴収員まで一緒になって同じ話題で話しており、どうやらバス会社の同僚の誰かと見間違えたようであった。

 まあ、上海語で話していたので正確にはわからないが、ズボンの雰囲気まで物凄く似ていたらしく、相当びっくりしたようだ。

 とはいえ、びっくりしたのはこちらも同じである。

 運転手は「いやぁ、びっくりした」だのなんだのと話しかけてきたが、100%理解できなかったのと、こちらは日本人であることをあまり晒したくなかったので、相手の話しかける言葉に適当に相槌をうって受け流して聞いていた。

 まあ特に何かの迷惑を被ったわけではないが、見間違えられたことはともかくとして、中国人にそっくりだと言われて、中国生活に染まってきた自分にちょっと驚きを隠せない今回の出来事だった。

 それにしても上海のバスの運転手は、運転中も気楽に客と話しているという気がしており、日本のように杓子定規な勤務態度ではなく、自由奔放に働いているという印象である。

原掲載

おまかせ民主主義

 先日の都議選の結果には少々失望を覚えた。

 具体的にどこの政党が勝って、どこの政党が負けたということではなく、投票率が大幅に低迷し、浮動票が減った分だけ組織票を持つ政党が相対的に浮上するような結果になったからである。

 各党の詳しい得票数を分析してはいないが、報道によると勝った自民党公明党の得票数は前回の選挙からそれほど増えているわけではないのに今回は議席で過半数となり、逆に負けた民主党は投票率が下がった分だけ前回から得票数を減らしている結果となっている。

 去年の衆院選とほぼ同様のことが今回の都議選でも起きたことになる。

 まあ民主党が負けた云々はともかく、投票率がこんなに下がってしまうのはいただけない。

 有権者は投票する先がないとか、不満の受け皿がないとかよく口にするが、こういった言葉はおまかせ民主主義の最たるものだという気がしている。

 本来は我々有権者が望んでいることを託して実行してもらうのが代議士の仕事であり、政治家が用意したおまかせメニューが気に入らないと文句だけを言うのは本末転倒だからである。
 
 「おまかせ民主主義」とは投票行動だけ参加して、それ以外は政治への参加意識の無い日本国民を皮肉った言葉であるが、衆院選の前回と昨年の結果が如実に今の日本の「おまかせ民主主義」を表しており、期待できそうな党(民主党)に入れて勝たせたはいいが、進まない政治や不慣れな政治運営、さらに増税など思わぬ現実を突きつけられて公約が守られないと政治そのものに失望し、途端に選挙に行かなくなって投票率を下げてしまっている。

 当の民主党にしても「国民の手に政治を取り戻すんだ」といって前々回の選挙で勝ったものの、実際政権が始まってみると結局は国民の「おまかせ民主主義」の政治意識そのものが変わっていないため、国民としての当事者意識に乏しく厳しい財政事情を理解されず実行されない公約をただ嘘つきだと言われ信頼だけが失われた結果となったような気がする。

 結果、おまかせ民主主義の国民が故の政治への失望を生み、それに振り回された民主党が短期間に盛衰するという悲劇を生んでいる。
 
 まあただこのおまかせ民主主義が良くないからと言って脱却するのは容易ではない。

 例えば、私が「おまかせ民主主義からの脱却」を訴えて議員に立候補し当選したところで、それは私が単に「まかせる」側から「まかせられる」側に移動することになるだけであって、おまかせ有権者の意識が変わったことにはならないからだ。

 本来は国民全体で、選挙以外でも誰もが自由に政治に意見を言う機会を持てる社会が醸成されれば一番理想的なのだが、現実的にはなかなかそうはいかない。

 結局は今できることと言えば、目の前の選挙に必ず参加するということになる。

 もし、積極的に入れたいと思うところがないと感じてしまっても、それは自分が現実に向き合ってない結果であるかも知れず、「現実の選択から逃げない」ためにも、消去法でもいいから必ず投票し、選挙結果に責任持つという意識が大事だという気がする。

 今日から参院選で在外投票も始まるので、是非昨年投票できなかった雪辱を晴らしたい。

茨城空港と独立意識

 先日、茨城空港の開港に関して反対意見があるとブログに書いたが、これは茨城県民が自分の県をどう位置づけているかと考えていることに拠る部分が非常に大きいと思われる。

 つまりどういうことかというと、茨城県を一つの独立した地方県あるいは北関東の一地方と捉えるか、東京に属する首都圏の一部として考えるかによるところである。

 東京に対する独立心が強ければ、たとえ同じ関東内に羽田、成田という2大拠点空港を抱えたとしても、そのアクセス性の悪さを理由にどうどうと空港の必要性を訴え、東京ではない茨城県として、他の地方、関西・九州・北海道と向き合うためのツールとして空港を持ちたいと考えることは不思議ではない。

 特に県という機関は、その組織は他県と対等であるため県としてどうしても独立性の強い考え方を持つことになる。

 しかし、今回の反対派の県民の意識の大半はそうではないと思える。

 つまり茨城県を東京首都圏の一末端と捉えているのである。

 県の南部は完全な東京への通勤圏であり、県庁所在地の水戸の求心力はそんなに高くなく、意識は完全に東京に向かっている。

 独立のラジオ局はあるが、日々の生活は完全に東京発信のテレビを見て過ごしており、意識文化は東京圏の一部となっている。そんな県民に外国人にあなたはどこに住んでますかと聞かれたら、迷わず「東京の近く」と答えるであろう。

 それでなくても普段から東京に異常に関心の高い県民性で、女子高生の流行は渋谷の次に水戸へ派生すると言われたり、映画「下妻物語」にみられるように東京へ憧れが強く、かつ従属意識の高い県民性・地域性である。

 そんな茨城県に新しい空港を作るといったところで、「首都圏の地元にはもう2つも空港がある」という反応になるのである。決して今まで茨城には空港がなかったとは言わないのである。

 その辺の県民性を理解してからなのか、昨年空港側も戦略転換を行い、英語表記として「トウキョウメトロポリタンイバラキエアポート」という東京への帰属性を意識した名前をつけた。

 つまり茨城空港は一地方空港ではなく「東京の空港」であるとの主張である。

 この名前に関しては国内からは「長すぎる」とか「茨城は東京か?」とか反対の声がたくさん出ているが、ローコストキャリア(LCC)向けセカンダリー空港としての差別化を行い、意義付けを持つことによって、茨城を東京圏の一部と捉える人に対してはそれなりに有効であったようで、空港に対する意識変化が見られている。

 つまり地元の空港は要らないが、東京の空港としてなら引き受けても良いという、東京から価値を認められたいという県民性が強く作用して空港受け入れに前向きな反応が出てきたのである。

 それは県内だけでなく、同じ首都圏内からも同様の反応が増えてきており、私も印象を変化させた一人である。

 まあ他人本位の評価で左右されてしまうのはちょっとな情けない気もするが、個人的にはそれで空港が無事それに開港にこじつけてくれるならよしとしたい。

 選挙の行方によっては空港の開港等に影響があることも予想されるが、茨城県の空港ではなく、首都圏の空港として「海外で働き千葉県に家がある私」からも是非空港の開港を歓迎したい。

お見合い相手に対する友人の指摘

先日のお見合いの相手に関して、まあブログ上であれこれ関係の進展を書くのは野暮ったい話だが、先日友人に彼女の写真を見せたところ予想もしない指摘をされて驚いたことがある。
それは、その彼女が、私の昔の彼女に似ていると指摘されたことである。

ちょっとこの指摘には面食らった。実はこの友人には昔の彼女のことは、写真しか見せていない。それなのにそういわれたことにとても驚いた。
 一応お見合いから数週間が過ぎ、まあ中国のことなので、家族にあってみないことには関係の進展には慎重にならざるは得ないのだが、少なくとも本人に対しての印象はどんどん好印象のほうに変わりつつある。
 自分が彼女を気に入りつつあるのは単に美人で可愛いからだと自己判断していたのだが、どうやら潜在意識の中で昔の彼女の像がかぶっていたのかも知れない。

 最初は、表情の固いモデル型の美人なのかなと思っていたが、何度か会話して打ち解けていくうちに表情も柔らかくなってきて親しみが沸いてきた。
 確かにどちらも東北の出身ではあるので、顔立ちの系統は似ている気がする。されど指摘されるまでは実際そこまでは気づかなかったのである。

 これで、ある意味ますます慎重にならざるを得ないような気もする。つまり私が「気に入りつつある」のは昔の彼女の姿を今の彼女に映しているだけの思い込みなのではないかと、、、。
そうやって疑心暗鬼になっていくとますますわからなくなっていく。
まあ思い込みと錯覚が恋愛だという言葉もあるくらいなので、自然な気持ちの成り行きに変な手を入れないで、心の素直な言葉に従おうかと思ったりもしているのだが、結婚も絡んだりすると単なる錯誤恋愛では済まされず、ますます慎重になる。故に慎重にならざるを得ない。

浅い川はやかましく、深い川は静かである

「浅い川はやかましく、深い川は静かである」

これ、ラジオで聞いた、ある本に書いてある言葉らしいのだが実に名言である。

 当然、人間の資質を例えた言葉なのだが、考えの浅い人間ほど多くを語りたがり、深く考えている人を多くを語らず静かであるというのである。

 確かに頭の回転が速く口が達者な人は周りに大勢いいるが、どうも思慮を欠いているなと思うわせるようなケースが多々ある。思慮の浅い人間はそれを補うために、どんどん語りたがるがということであろう。

 逆に、思慮深い人は語りすぎることの浅はかさを知っているから、そうやすやすとは語らず深く思慮する。故に周りから見ると静かな印象をもたれてしまう。

 でも、それは何も考えていないからではなく、思慮深く、慎み深い証拠なのである。

 周りで目立たないような人が当然重い言葉を吐くことがあるというのはこういうところなのかもしれない。

 もっとも、何も考えていない人も何も語らないので、そのあたりは見分ける必要がある。

 人生、実に奥が深い。。。。