Monthly Archives: 1月 2013

キャッシュカードが無い?

 今日レジでカードで払おうとしたらキャッシュカードが見当たらなかった。
レジの支払い自体は100元足らずの支払いで、現金を持っていたので問題はなかったが、やはりいくら探してもカードが無い。

 あれれ?

 どうやら記憶を辿って行くとこのカードを最後に使ったのは、昨日現金を引き出した時で、どうもその時が一番怪しい。
つまりATMに忘れてきたというのが一番高い可能性として認識している。

 幸いにも現金残高はほとんどないはずだが、ものがものだけにちょっと焦っている。

 まあ被害があったとしても最大額は知れているので、それは諦めるとしても、ちょっと気分が落ち着かない。
 
明日銀行に行って手続きしようと思っている。

ビルマの竪琴1956年版

 ビルマの竪琴の映画を見た。

 今回見たのは中井貴一さん主演の1985年版ではなく、安井昌二さん主演の1656年版である。

 同じ市川崑監督の作品であるが、若干ストーリーが違うしこちらは時代的に当然モノクロ版となっている。

 実は1985年版を見ていないので比較は出来ないのだが、1956年版は凄く秀逸な作品のように感じ、モノクロ版であるが故に迫力も重みもあり当時の海外で評価されたことも納得する作品となっている。

 先日の戦場のメリークリスマスに引き続いてこの映画も戦争末期ものだが、これらの映画を通して日本の戦線は対米の太平洋戦線のみならずアジア全体に広く侵攻していたことを改めて知る機会となった。

 日本国内での生活の情報の中では、かつての戦争の話題と言えばどうしても東京大空襲や原爆など本土が直接攻められたことの記録が多くその印象も大きくなっている。

 しかしそうなる前の戦争の前段では、日本は中国や東南アジア全体にかなり手広く侵攻しており驚くほど遠くまで出兵しているのである。

 そして彼らの多くは自業自得とはいえ結局敗退し悲惨な末路を辿っている。

 本来「日本の戦争の歴史」ということで言えば、これらの南方戦線の状況は太平洋戦線や中国戦線同様に取り扱われてもしかるべきだが、やはりどちらかというと話題としては小さいような気がする。

 恐らくこの2つの作品の両監督もそういった情報が抜け落ちがちな点に対するもどかしさもあってこの作品を撮ったのではないかという気がする。

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 さて「ビルマの竪琴」は東大の教授だった竹山道雄氏が児童文学として書いた話とのことだが、戦時中の話というだけに子供向け作品とは思えない程に内容は非常に重い。

 ただこの重い内容にもかかわらず、映画では主人公の水島上等兵の奏でる竪琴が非常に美しく響き、この作品に希望の光を与えてくれている。

 また「埴生の宿」(英国側では「Home! Sweet Home!」)を敵国である英国兵と日本兵が合唱するシーンもあり、戦争中を描く映画でありながら音楽によって人間性を失ってない兵士たちの姿が非常に印象的だった。

 そしてラストシーン近くで奏でられる「仰げば尊し」はこの曲の持つ音楽的メッセージが十二分に伝わるシーンとなっており、音楽が単なるサウンドトラックではない意味のある使われかたをされている。

 まさに映画っぽい映画というか、今更ながらこの作品の総合的な凄さに感服した。 
 そして今や釣りバカの社長のスーさん役が定着してしまった感のある三国連太郎の、若かりし頃の存在感のある姿もこの作品を高めていいるであろうことを付け加えておきたい。

 見てない方がいたら是非一度は見ておくべき作品だと思っている。


45億年という時間

この歳になってくると1年の時間の長さというものをだんだん掴めるようになってくる。

そんな時、ふと地球の歴史を思い出した。

「45億年」

 ちょっと考えるととてつもない数字で、例えば私の寿命とかと数字の上で比較したら、比較にならないのは理解している。

 もちろん中国の歴史が4千年だろうが5千年だろうがとても比較にならない。
 ただ45億年といえども有限の時間であることを考えるとちょっと奇妙な感覚になる。

写真はイメージ

写真はイメージ

 今私が生きているこの一年という時間を、遥か過去に遡って追っかけて行くと、人間は愚か単細胞生物など地球上のあらゆる生物が存在しなかった時間があり、地球も存在しなかった時間があったなどと考えると、この45億年という時間のもたらす変化というのは凄いなと思ってしまうのである。

この45億年の間に地球が生まれ、海が生まれ、生物が生まれ、人間が生まれ、歴史が生まれ、私が生まれ育ってきたのである。

 今私の生きている1年間という時間は地球の45億年という歴史に比べればたかが45億分の1に過ぎないが、されど45億分の1なわけでごくわずかであっても変化の一片が実はここにあることになる。

 もちろんこの1年が地球の歴史の中にどういう意味が残るかなんぞ私には分かるわけもなく、人間の寿命ではそれを検証できるわけではないが、確かに現在も45億分の1の時間が積み重ね続けられている。

 そう考えると、平凡なように見える私の一年も何だか凄い意味を持ってくるような気がしてくるから不思議だ。

見切り千両

 「見切り千両」という言葉がある。

 株式や投資を行なっている人に広く知れ渡っている言葉だそうで、まあ簡単に言えば投資などについてダラダラ未練を残さず諦めて(見限って)しまったほうが損が少なく、結果的に利益に繋がるので千両の価値があるという意味らしい。

写真はイメージ

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 投資家の間では「見切り千両、損切り万両」などと並べて使われる場合もある。
 最近この言葉を知ったので出典を調べてみると、まず日本永代蔵や浄瑠璃作家として有名な井原西鶴の言葉として、
「貯蓄十両 儲け百両 見切り千両 無欲萬両」
 というものがあることを発見し、どうやら現代の「見切り千両」の意味はここから出ているようだということを知った。

 せっせと貯蓄できれば十両になる、儲けの才覚があれば百両になる、商売の潮時を判断出来れば千両の価値を得られる、でも無欲なら1万両の価値があるということ。

 さすが商人の都、上方で活躍した人間の言葉である。

 しかし、更にこの「見切り千両」の言葉を追いかけていくともう一人の人物にたどり着いた。

 それはなんと先日もブログに書いた上杉鷹山公である。

 ただ鷹山公の言葉は西鶴のものとは若干違い、
 「働き一両、考え五両、知恵借り十両、骨(コツ)知り五十両、ひらめき百両、人知り三百両、歴史に学ぶ五百両、見切り千両、無欲万両」
 となっている。

 最後の2つは同じ言葉だが、前半は似ているようでも言葉がやはり違う。

 きちんと働けば1両の価値を得る、考えて働けば五両の価値、人から知恵を借りられれば十両、働き方のコツを掴めば五十両、ひらめきのアイデアを持てば百両の価値、人間や相手の特徴をよく知ることが出来れば三百両、過去の成功例失敗例の歴史を学べば五百両の価値と続いてくる。

 「人知り」は人脈やパートナーの意味もあるかもしれないが、次に「歴史に学ぶ」と続くところを考えると、人間というものを良く知ることが価値があるのだと言っている気がしている。

 そして肝心の「見切り千両」だが、鷹山公が藩の財政改革に尽くした人間であるとはいえ、商人ではなく武士であったことを考えると、現代投資家たちのように「損切り」的な相場師的感覚でこの言葉を言ったようには思えなかった。

 彼が武士であることを考えて解釈するならば、剣術の世界で「見切る」と言えば、相手の動きを「完全に把握する、見極める」という意味になり、これを当てはめて「見切り千両」を解釈すれば、見極めができるようになれば千両の価値があるという意味で鷹山公が言っているような気がする。

 果たして何を「見切り」するのかは書かれている言葉が少ないので解釈が難しいが、前段が「歴史」に触れているところ考えると、「時流」とか「世の中」という言葉が隠れたキーワードとして存在するのではないかと思う。

 つまり「世の中の時流を見極められれば千両の価値がある」、鷹山公がそう言いたかった言葉として解釈できるのではと思っている。

 もちろん「見切り」には広義で「状況を判断し見限る」といった意味も含まれると思うので、世の中の状況を見てすんなり諦めるという意味の「見切り」も含めて「見切り千両」という言葉だった可能性はあると思う。

 まあ鷹山公にしろ西鶴にしろ(どっちも名が鳥だ!)、「見切り千両」と言っておいて、最後は無欲が一番価値が大きいと言っている点で一致しており、欲深い私にとっては非常に意味が深い言葉であり、耳の痛い話である。

二枚岩の政治

 先日、日中関係に関して公明党の山口代表が事実上の尖閣問題の棚上げ論を発言した。

 これはとても興味深い動きである。

 この問題に関しては、昨年9月より日中双方譲れない状態が続きお互い引っ込みがつかない形となっている。

 領土の問題だからどちらも譲れるわけもなく、どちらも折れるわけにはいかないので、究極的には戦争でしか解決できないような課題である。

 しかも日本に至っては領土問題そのものが存在しないとの立場を取っているから、棚上げ論すら話題に上げられず、話し合いすら容易に応じられない状況となっている。

 迂闊に棚上げ論に同調すれば、今度は国内の強硬派の突き上げが待っているから与党の自民党としても容易に立場を変えられないだろう。

 そこで今回の公明党の代表の発言である。

 この状況は、本来なら日本の立場が1枚岩になってないと非難されるような状況であるが、実は連立与党が別々の発言をすることにより2枚岩というか都合の良いダブルスタンダードの状況が生まれている。

 公明党は連立与党であり日本政府側の立場を取るべき党であるが、首相を出している自民党とは別の組織なので、党として自民党と全ての考え方一致していなくとも何ら不自然ではない。

 もちろん領土問題を完全に認めない立場を貫く考え方の人からは多少の非難は有ろうが、首相サイドが語る日本のスタンスと少しずれた発言をしたとしても連立与党の従属側の党首でしかないから政府の立場で話したことにはならない扱いとすることはできる。

 しかし振り返って中国側から見れば、例え首相側の与党ではなくても日本の政権与党の党首が発言したことは、日本政府側の一つの意思が示されたと扱うことはできるのである。

 このずれというかグレーゾーンの出現は日中両国にとって外交的チャンスのような気がする。

 つまり中国側としては山口代表の言葉を日本政府の譲歩のきっかけとして棚上げ的解決へ進めばよく、自民党サイドは政府として領土問題は存在しないとの立場を変えることなく中国側の動きを待てば、事実上のかつての棚上げ的状態へ戻すことが可能になる。

 具体的には公明党の代表が、それを以て中国側が政治的な譲歩を得たと国内にPRできる材料を、あいまいな言葉で中国側に与えることによってお互いに尖閣諸島に近づくのを止めて、危機的状態を回避する合意を図るような道筋があるような気がする。

 まあ本来私は自民党も公明党も特に支持している政党ではないが、もしこのダブルスタンダード状態をうまく利用して状況を解決できたとしたらちょっとだけ尊敬してしまう。

 とにかく一日でも早い解決を祈っている。