「見切り千両」という言葉がある。
株式や投資を行なっている人に広く知れ渡っている言葉だそうで、まあ簡単に言えば投資などについてダラダラ未練を残さず諦めて(見限って)しまったほうが損が少なく、結果的に利益に繋がるので千両の価値があるという意味らしい。
投資家の間では「見切り千両、損切り万両」などと並べて使われる場合もある。
最近この言葉を知ったので出典を調べてみると、まず日本永代蔵や浄瑠璃作家として有名な井原西鶴の言葉として、
「貯蓄十両 儲け百両 見切り千両 無欲萬両」
というものがあることを発見し、どうやら現代の「見切り千両」の意味はここから出ているようだということを知った。
せっせと貯蓄できれば十両になる、儲けの才覚があれば百両になる、商売の潮時を判断出来れば千両の価値を得られる、でも無欲なら1万両の価値があるということ。
さすが商人の都、上方で活躍した人間の言葉である。
しかし、更にこの「見切り千両」の言葉を追いかけていくともう一人の人物にたどり着いた。
それはなんと先日もブログに書いた上杉鷹山公である。
ただ鷹山公の言葉は西鶴のものとは若干違い、
「働き一両、考え五両、知恵借り十両、骨(コツ)知り五十両、ひらめき百両、人知り三百両、歴史に学ぶ五百両、見切り千両、無欲万両」
となっている。
最後の2つは同じ言葉だが、前半は似ているようでも言葉がやはり違う。
きちんと働けば1両の価値を得る、考えて働けば五両の価値、人から知恵を借りられれば十両、働き方のコツを掴めば五十両、ひらめきのアイデアを持てば百両の価値、人間や相手の特徴をよく知ることが出来れば三百両、過去の成功例失敗例の歴史を学べば五百両の価値と続いてくる。
「人知り」は人脈やパートナーの意味もあるかもしれないが、次に「歴史に学ぶ」と続くところを考えると、人間というものを良く知ることが価値があるのだと言っている気がしている。
そして肝心の「見切り千両」だが、鷹山公が藩の財政改革に尽くした人間であるとはいえ、商人ではなく武士であったことを考えると、現代投資家たちのように「損切り」的な相場師的感覚でこの言葉を言ったようには思えなかった。
彼が武士であることを考えて解釈するならば、剣術の世界で「見切る」と言えば、相手の動きを「完全に把握する、見極める」という意味になり、これを当てはめて「見切り千両」を解釈すれば、見極めができるようになれば千両の価値があるという意味で鷹山公が言っているような気がする。
果たして何を「見切り」するのかは書かれている言葉が少ないので解釈が難しいが、前段が「歴史」に触れているところ考えると、「時流」とか「世の中」という言葉が隠れたキーワードとして存在するのではないかと思う。
つまり「世の中の時流を見極められれば千両の価値がある」、鷹山公がそう言いたかった言葉として解釈できるのではと思っている。
もちろん「見切り」には広義で「状況を判断し見限る」といった意味も含まれると思うので、世の中の状況を見てすんなり諦めるという意味の「見切り」も含めて「見切り千両」という言葉だった可能性はあると思う。
まあ鷹山公にしろ西鶴にしろ(どっちも名が鳥だ!)、「見切り千両」と言っておいて、最後は無欲が一番価値が大きいと言っている点で一致しており、欲深い私にとっては非常に意味が深い言葉であり、耳の痛い話である。