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アーカイブ時代の噺家の大名跡襲名は出世か?

 日本の古典芸能の中には、芸の世界での出世を表す一つの象徴として名跡を襲名する芸能がいくつかあるが、映像や音楽の記録技術が進歩する現代社会の中においては、この名跡襲名制度が不便になりつつあるような気がする。

 名跡襲名を行う有名な芸能と言えば主に歌舞伎と落語があるのではないかと思うが、このうち歌舞伎については、役者個人だけで舞台が完結するわけではなく、生の舞台のライブ公演が主で、まずは公演の演目が大事なものとなるため、役者の名前はその次となる。
そしてそれをアーカイブ(記録保存)化して残すDVDなど記録媒体は、現時点では補助的な役割でしかなく、やはり生の舞台が鑑賞の主力なので、例えば「市川團十郎」などと役者の名跡を名指しするときは大体当代だけを考えればよいという気がする。

 ところが、これが落語になるとどうも事情が違う。

 まず落語は個人芸であるため、演目よりも演者に価値が置かれ、演目は二の次となる面があり、噺家の名前そのものが看板となる。
 しかも、噺自体が歌舞伎に比べ短く、映像を必ずしも必要としないため、音声媒体だけでもよく、相対的にアーカイブ化されやすいという特徴がある。
 この結果、歌舞伎に比べ過去の名人・巨匠の名演が、噺家の名前を看板として沢山残され、現代でも誰でもが気軽に触れられる環境が生まれてしまっている。
 例えば、30年以上前に亡くなった古今亭志ん生さんや三遊亭円生さんの噺などは今でもYOUTUBE上に音源や映像を見つけることが出来る。
 しかしよく考えてみると、この「志ん生」という名跡は五代目、「円生」は六代目であり、本来は先代との区別に苦労することもありそうだが、インターネットも記録技術もほとんど無かった時代には、先代が死んだあとは人々の記憶とともに忘れ去られてしまうので、先代没後に間もなく名跡を襲名しても問題はなかったという気がする。

 ところがである。

 近年記録技術が発達し、映像や音声媒体にたくさんの記録が残ってしまった噺家が亡くなったあとの襲名はちょっと厄介である。
 その記録がいつまでも再生可能な状態で残るからである。

 しかもそういった噺家たちはテレビなど媒体電波に乗って、名前と顔がやたらと宣伝されてしまっているため、人々の心に強く印象が残ってしまっている。

 その一つの代表格が、例えば「三遊亭圓楽」という名跡であり、「林家三平」という名跡なのではないかと思う。
 例えば三遊亭圓楽という名跡は、2009年に先代の五代目が亡くなった直後に1年程度で六代目が襲名したものだが、六代目があまりにも長くテレビに出演して印象が強いため、現在でも圓楽=五代目の印象がぬぐえない。
 またそれを継いだ六代目も長く「三遊亭楽太郎」を名乗ってテレビやマスコミに出てしまっていたために、現時点では「圓楽」としては認識されにくく、六代目とわざわざ断らなければ区別できないのが現実だと思う。
 同様に林家三平という名跡も先代が初代だがテレビで強烈な印象をばらまいたため、2009年に襲名した現二代目が三平と名乗っても、息子でもあるためか、先代の印象を拭ってはみられないという状況が起きている。

 このように名跡の先代の功績が大きすぎる場合は、アーカイブ化された記録やメディアでの露出が多すぎるために、名跡を継いだ人間がなかなか自分のイメージに染められないという状況が発生してしまう。
 逆に、若い時からテレビやマスコミに多く出てしまった噺家も自分の名前が売れすぎてしまったために、大名跡をついでも昔の名前で呼ばれ続けることもあり、上記の楽太郎さんや先日亡くなった橘家圓蔵(月の家圓鏡)さん、上方の桂文枝(桂三枝)さんなどが良い例かと思う。
 文枝さんの顔を見ても三枝の名しか思い出せず、文枝の名は思い出せないのである。

 それに故に現代のテレビやアーカイブの時代では、昔なら当たり前と思われた大名跡の襲名が、必ずしも喜ばしい出世とは言えず、実利的にはマイナス面もある可能性があるのである。

 例えば数年前からもめている「円生」の名跡継承問題もそれぞれ名乗りを上げている者のはいるものの、いずれも60を超えているベテランで、現在の名跡の印象が染みついていて、今から襲名したところで新しい「円生」のイメージは作れないと思われる。
また何より先代のイメージを強く持っている人がまだ大勢いる上に映像や録音が残っていてそれを塗り替えるのは容易ではないという気がする。
 逆に「志ん生」の息子「志ん朝」が親の名を継がなかったのもある英断といわれており、今もなおファンがアーカイブ映像・録音を楽しんでいる現実があるため、迂闊な継承襲名は望まれていないと思われ、現在ではどちらも止め名(誰も継がない名跡、野球の永久欠番的なもの)的な状態となってしまっている。
 
 このように現代のような保存メディアが発達した時代では、古くから伝わる伝統芸能の世界にさえ影響を与えている面があり、大名跡の襲名が必ずしも栄誉ある出世とは言えず、襲名の価値をよく考えなければならない時代になってしまっている。

中国人はラグビーにあまり興味がないらしい

 つい先程、ラグビーのW杯の日本対サモア戦が終わり、日本代表が26対5と圧勝し、ついに日本のW杯史上歴史に残る2勝目を上げた。

 ラグビーのW杯で日本は過去24年の歴史では1勝しか上げておらず、長らく全敗で敗退していた時代が続いていたため、初戦の南アフリカ戦に続く勝利で歴史的な結果となったことになる。

 昔から大学ラグビーをテレビで見るのは好きだったが、世界で全く勝てない状況が続いていたので、先日の奇跡の勝利と言われた第一戦も、実は事前には全然チェックしていなかった。

 それ故に先日の南アフリカに対する大金星の試合も全く見ておらず、先日になってようやくYOUTUBEで試合の最後のシーンを見るに至って、遅ればせながら歴史的瞬間を見届け胸を熱くしたような状況だった。
 最後の15分間の攻防の、何度も攻めて防がれても、それでも前に進む姿は多くの方と同様にやはり胸を熱くさせられた。

 ところで、私がかのシーンを最近まで見損ねていたのにはもう一つ理由があった。

 実は中国ではラグビーのW杯の中継がほとんど行われていないのである。

 欧州サッカーの中継は熱心に放送する中国のテレビ局だが、ラグビーはほとんど人気がないためかネット上のサブチャンネル的な枠で何試合かの中継があるだけで、今回の日本対サモア戦のような試合は見つけられ無かったのである。

 寧ろ武漢で行われているテニスの試合のほうが比重が高いくらいで、ラグビーの認知度はかなり低い状態である。

 気になって中国の大手検索エンジンの百度で調べてみると、英語の「RUGBY」で検索すると「RUGBYって何?」って検索結果がずらっと並んだ。(苦笑)

 うーんそれだけ中国人にとってはRUGBYへの馴染みが低いようである。

 さらにラグビーの中国訳である英式橄欖球で調べると、確かにラグビーを説明した内容のページもヒットするが、同時にアメリカンフットボールを示す美式橄欖球も結構出てきてしまい、ラグビーの情報が中国語圏のサイトでは非常に情報が薄い状況であることがわかった。

 また音での当て字で拉格比足球という表記もあるが、これとて調べてみても知識として解説が記してあるだけで、とても中国でラグビーが認知されているような状況は見られないのである。

 慌てて中国代表の世界ランキングを調べてみると、67位と遥かに低い状態で、バミューダとかケイマン諸島とか、位置がどこにあるか分からないような小国より下なのである。(日本は13位)

 まあランキングに掲載されているので競技人口が一応いるということではあろうが、旧イギリスの租借地だった24位の香港よりもはるかに低く、その影響を受けた人がちょっといるだけと言ったレベルなのではないだろうか?

 ことほど、中国でラグビーはマイナースポーツなのである。

 さてそんなに中国という国はラグビーに向かないのだろうか? 

 一見すると中国は人口が多いし、体格も大きなラグビー向きな人も多いような印象も受けるが、「一人はみんなのために、みんなは一人のため」の言葉に代表されるようにサッカー以上に連携が求められるラグビーはやはり中国人たちに向かないのかもしれない。
 確かにチームワークや自己犠牲を伴う行動と言うのは中国人にとって一番苦手な分野であり、ラグビーが人気スポーツとならない理由なのかもしれないというのはこちらに長く住むとよく分かる。

 故に、上海に居続ける私は今回のサモア戦は仕方なくW杯の公式サイトのラジオ中継(英語)のようなものを聴き、映像無しで応援していたのである。
 中国にラグビーが流行る時代は来るのだろうか? 

中国もCM付きのネット映像配信ドラマの時代

 つい数年前までの中国では、インターネット上に無料のネット映像が氾濫しており日本のテレビドラマなどがほぼリアルタイムに近い形の数日程度タイムラグで字幕付きの映像が見られる状況があった。

 当然完全無料でぼんぼん観られていたのであるが、最近では著作権を意識してか以前に比べどうやら事情が少しずつ変わってきたようである。

 何が変わったかと言うと、各映像を再生する度にCMが挟まれるようになったことである。

 主に放映前の冒頭に1分前後のCMが挟み込まれ、強制的に化粧品だの飲料だのCMを見せられてから本編が始まるようになった。

楽TVのCM部分

映画放映冒頭のCM部分

 さらに、ドラマなどでは放映の途中である一定の時間が来ると、放映されているシーンのタイミングに関係なく強制的に映像が中断し、CMが30秒ほど挟み込まれるようなケースがあったのである。

 これらは、恐らく著作権に充てる鑑賞費用を視聴者から徴収する代わりにスポンサーがお金を払う仕組みのようで、その分のCMを放映している仕組みの様であり、映像をいつでも好きな時間に見られるといった点以外はテレビ放送とほぼ同じ仕組みとも言える。

 ただ、これは各映像単位で組み込まれているようで、例えば連続ドラマは各回ごとに分かれており、間違えてもう既に見終わった回などを開いてしまった場合は、新たな回を開き直すのにCMも改めて一から見直さなければならず、60秒ほど待たされることになるのでやや面倒くさい。

 もしどうしてもこれらのCMを飛ばしたい時は、お金を払ってノーカット版で見ることも可能なようで、CMの画面上に「CMを省略したい方はこちら」などというリンクボタンが現れる。
 この有料鑑賞ボタンは実際に試したことがないので、詳しい支払い方などは分からないが、どうやら5元程度を払い1~2日間程度の時間限定で登録映像が見放題になるようである。

 いずれにしても、無料が当たり前だった中国のネット映像配信も、YOUTUBEなどと同様に著作権のあるものはCMなどがついて有料になり、著作者の保護に向かっている状況となっている。

 もっとも放映に際して、CMスポンサーや視聴者からお金を取っている状況は把握できても、著作権所有者側に本当支払いが行われているかどうかは全く分からないので、実際本当の意味で著作権保護になっているのかは不明である。

高倉健さんの映画もある

高倉健さんの映画もある

落語はお笑いじゃない

 最近、立川志の輔さんの落語にはまっているのだが、そんな彼の噺のマクラで興味深い言葉があった。

 それは落語をお笑いに分類するというのはどうも違うというのである。

 彼が言うには、確かに落語の噺の中にはふんだんに笑いの要素が含まれているが、それは噺のアクセントをつけるために取り入れているのであって、決して笑わせるためだけに噺をしているわけではないというような言い方をしていた。
 言われて見ればその通りであり、落語の噺の中には人情話あり艶話ありで、全てお笑いだけの要素で話が構成されている訳ではないのである。
 英語では落語がcomic storyと訳されることもあるようだが、これも落語をお笑いと決めつけた翻訳であり、本質を見ない誤訳と言ってもいいのかもしれない。
 
 もちろん噺家によっては爆笑王と言われた橘家円蔵師匠や桂文珍師匠のようにひたすら笑えるネタを提供する噺家もいるが、名人芸と言われる噺家を名人足らしめる要素は実は笑わせる能力ではないのである。(上記の2名も素晴らしい噺家で私は好きだが)

 幾つもの人物像を1人で語り分け、あたかもそこに複数の人がいるかのように話を進め、聞き手を惹きつける能力こそ落語家の真骨頂であり、心に残る物を聴き手に与えられる芸こそ高い技術を持つ噺家であろうという気がする。

 ちなみに世の中には「1人芝居」と言うジャンルもあるが、1人芝居は基本的に1人が1人を演じるのであって、複数人芝居の延長と言ってよく、もちろんそれはそれで技術的には難しいものが有るが、1人が同時に複数の人を演じる落語とは技術的には一線を画すものであろうという気がする。

 先日YOUTUBEで早くに亡くなった古今亭志ん朝さんの「芝浜」を見たが、夫婦の掛け合いを演じ分け、夫の話をきちんと遮って妻が言葉を入れるさまなどはごく自然であり、本人は当たり前のように流暢にやっているが、自らが演じることを考えれば自分で演じている1人と別の1人が掛けあうというのはとても技術的には難しい芸だという気がするのである。

 さらに、一流の役者の如く、登場人物の気持ちを心の底から訴えるさまを演じる姿は、涙を誘われるし、それを一人で使い分けるのは並大抵のことではできないだろう。

 少し話はそれるが、クラシックの有名な作曲家バッハの代表的な曲に無伴奏チェロ組曲という有名な曲があり、文字通りこの曲はチェロがソロで主旋律と伴奏旋律を1台で演奏する物となっているのだが、聴いているほうとしては楽器1台で演奏しているものとは思えない広がりをもつものとなっている。

 落語家の噺もこの無伴奏チェロ組曲の如く、複数の要素を一人で使い分け流暢に表現している訳で、両方とも同様に高度な技術のなせる業だという気がするし、本当にいい芸に接した時は笑いだけでなく涙も誘われる。
 そういった意味で、確かに落語には笑う要素が多分にあるが、単にノリだけで笑いをとっている「お笑い」に分類されることは志の輔さんの言うとおりどこか違う気がするというのはもっともだという気がするのである。

 やはり落語は「話芸」なのであり、先日柳家小三治師匠が人間国宝となったように講談や歌舞伎のような文化的な「芸能」として考えるべきなのであろう。

老人から水を取り上げるCM

 以前から意味が分からず気になっている中国のテレビCMに、老人から水を取り上げるCMがある。

 この問題のCMは「百歳山」というブランドの水のCMで採水地は広東省の恵州の水のようである。

 CMの内容としては、欧米の街角でこの「百歳水」のペットボトルを目の前に座り込んでいる老人の男性から、ウェディングドレスのようなものを来た若い美しい女性がペットボトルの水を取り上げてしまうような流れになっている。

 まあ水のブランド名が「百歳水」ということで、長生き出来る健康な水という売りのようで、そのためCMとしては、かの老人はこの水のお蔭で長生きしてきており、若い女性がそれを求めるというのが基本設定にあると推測できる。

 まあ良いように解釈すればこのCMは若い女性が「長生きの秘訣」を長生きの老人から盗み学んだという風にも理解できなくもないが、私にはどうも我儘な女性が老人から水を取り上げて「あなたは十分生きたでしょ?」と老人いじめをしているような印象にも見えてしまうのだ。

 或いは、舞台が屋外であることから物乞いの老人から金持ちの女性が水を取り上げてしまう残酷な差別を行なってるような印象すら受ける。

 とにかく、美しい女性に正義があるがごとくの水を老人から取り上げる映像は、どうにも気持ち良くなく、こんなCMを流す神経がちょっと理解しがたいのである。

 美しい女性に男性がデレッとして我儘を許してしまうような設定ならまだマシだが、今回のように強引に取り上げるようなCM映像は、女性の美は社会規範を曲げてもいいんだという印象にも映ってしまい企業のCMとしては良くないとい気がする。

 日本なら恐らく抗議が来そうなこのCMであるが、中国では個人の利益を侵さない限り文句が出ないのかどうか知らないが、結構長い期間このCMは流されているのである。