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木嶋真優with上海交響楽団inSSOコンサートホール

従来から切望していた上海交響楽団ホールでのコンサート鑑賞を先日ようやく体験することが出来た。
上海に10年以上滞在しながら恥ずかしながら上海交響楽団のコンサートは初めてである。

まあ、これまでも興味がなかったわけじゃないが、上海でチケットを予約して買うという行為自体がちょっと面倒くさいのと、上海に来てからお金や時間の使い方が全く変わってしまい、人付き合い等に消費されるので、こういった趣味にお金や時間を注ぐ余裕が少なくなってしまったというのがあった。

さらに中国の鑑賞環境は決して良いものではなく、高いお金を出しても環境にがっかりする比率が高く、なかなか足が向かなかったというのも理由としてあった。

ただそういった中で、ここ数年上海に質の高いコンサートホールや劇場が増えてきたこともあり、最近コンサートホール巡り的な興味が復活し、特に上海交響楽団音楽庁(コンサートホール)は音響環境をぜひ体験したくてチャンスをうかがっていたのである。

実は上海交響楽団は意外と人気が高いようで公演直前だと安いチケットは入手しずらく、今回は昨年上海で行われたアイザックスターンコンクールの優勝者と一昨年のデンマークの指揮者コンクールの優勝者という若手の組み合わせなので知名度が低いためか人気薄で、楽々と安いチケットが手に入ったのである。

で、そんな意識のため、チケットを手に入れてから後から出演者を見たのだが、木嶋真優さんという日本人ヴァイオリニストがソリストとして名を連ねていたのを発見した。

恥ずかしながら日本の音楽界の動向をこの10年ほとんどチェックしていなかったので、彼女がどんな演奏家なのかはよく知らなかった。
で、ネットで調べてみるとアイドル演奏家のような笑顔が素敵な写真が沢山出て来たため、そういうタイプの演奏者なのかなぁと思ってがっかりしかけたところ、YOUTUBEで出ていたコンクールのファイナルの演奏を聴いて非常にびっくりした。
なんて凄い演奏をするのだろうと。

正直な話、こんなに魅了されたヴァイオリニストはおよそ初めてだった気がするくらい衝撃的だった。
その後、ネット情報でいろいろ調べていくと、結構日本では著名なヴァイオリニストであることがわかり、その知名度の高さに改めて納得したのである。

そんな映像を見てしまったため、コンサートへの期待はますます高まった。

さて、当日は20時開始というちょっと遅めの演奏会であったが、ギリギリの到着となった。

初めて踏み入れるコンサートホールのホワイエはまあまあ品良くは作られていたが、日本の公共ホールのようなシンプルさ優先のデザインで、豪華な雰囲気というものはそれほどない印象だった。

上海交響楽団ホールホワイエ

上海交響楽団ホールホワイエ

コンサートホールに入ってもそれは同様で、椅子や床、壁などの素材は合板の化粧板が使われ、サントリーホールなどに比べるとやや高級感に欠け重みのない素材の造りだったのである。

上海交響楽団ホールの座席

上海交響楽団ホールの座席

ホール全体は、一応ワインヤード形式的に段々畑のような客席ではあるが、正面側の奥行きが浅く傾斜も比較的急なため、ワインヤードというより円形ステージというか、コロシアム的なステージの取り囲み方ですり鉢に近い空間という印象だった。

上海交響楽団ホールの客席

上海交響楽団ホールの客席

で、早速演奏会が始まり響き方に注意して鑑賞していたところ、音が空間を回るような印象で、サントリーホールのような厚みと奥行きを持った響きとはちょっと違うタイプの空間であると感じた。
恐らく、天井やステージ裏の網込みのような部分が適度に音を吸収し、過剰な響きを空間に残さない工夫がされているのであり、客席裏の通路も扉無しで抜けた状態で、音を籠らせない工夫になっていた。

 結果として音が溶け合うわけでもなく薄味に仕上がっており、雑味がなく比較的素直な音響空間になっていると言ってしまえばそれまでだが、音が濃厚に響く空間を期待した私にとってはちょっと肩透かしを食らった印象であった。

上海交響楽団ホール

上海交響楽団ホール

 そんな空間の中、1曲目のリムスキーコルサコフの「皇帝の花嫁」序曲がさらっと演奏された後、いよいよ期待の木嶋真優さんの登場である。

 今回プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番という比較的珍しいプログラムで、私も1番は確かどこかで聴いたが2番は初めてという気がする。

ただこの曲はソリストの、魅力が最大限に引き出される曲であり、協奏曲と言いながらヴァイオリンの独壇場のような曲である。

しかも、今回の指揮者である台湾人の庄東杰さんは、コンクール優勝歴があるとはいえ協奏曲の経験が浅いのか意図的なスタンスなのか分らないが、オケ側がソリストに対して引き気味な演奏となってしまったため、ますますソリストが目立つ演奏となった。

 結局、リズムさえあまり噛み合わなかったような印象であり、情熱的に激しい演奏をする木嶋さんと、それに合わせず淡々と弾くオケ側の落差が印象的だった。
それを象徴したのが、本番中には珍しく楽章間で木嶋さんが指揮者に一言二言話しかける場面があり、恐らく演奏に関して何らかの要求があったのだと思われる。
 彼女には恐らくオケ側に対するイライラもあったのだと察せられたし、聴衆の私でさえ上海交響楽団という楽団の姿勢や力量に疑問を感じるほどおかしかったのである。

 まあそんなこともあっても木嶋さんの奏でる音は素晴らしく、私自身は彼女の演奏だけでも十分魅了された。
 音色が深い上に力強く存在感もあり、今後も彼女の音楽を聴いていたい、そう思わせるほど印象的な演奏だったのである。

 そして、そんな状態の協奏曲の後、休憩を挟んでラフマニノフの交響曲第2番がメインプログラムであったが、これはまぁまぁ普通の演奏が行われ、オケも良く鳴っていてあのコンチェルトの演奏はなんだったろうと思うくらいオケの演奏の質が違った。

 練習量の差なのかソリストとの相性の差なのか分らないが、同じ日の同じオケの演奏とは思えないくらい差があったのである。
 ただ、まあ個人的な理想を言えばラフマニノフならやはりもっと分厚いうねりが欲しく、やはり表現という意味では物足りないかなという演奏であった。
 上海交響楽団は上海という大都市のオケであり、そこそこ伝統もあるから恐らく演奏者の技術力は低くないはずだから、あとはシェフの味付けが必要なだけであろうに思う。
恐らくこのオケには情熱的な表現ができる、広上さんとか佐渡さんタイプの指揮者が必要かなという気がした。

まぁ、そんなことをうだうだ感じた初めての上海交響楽団の演奏会鑑賞だった。

オーケストラを分解する

 最近、といってもここ数年であるが私自身の音楽の聴き方が変わってきたように感じる。

 音楽を聴きはじめたころは聞いたことのない新しい曲の経験を広げることに精力を注いでいたような気がするが、最近は主要な有名曲は聴きつくしてしまっており、演奏会めぐりなどという金のかかる趣味人生も上海に来てから行きづらくなってしまったので手元にあるライブラリーを繰り返して聴く回数が増えた。

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 まあいくら聞いても音楽に飽きることがないというのが私の性分だが、ただ最近聴き方に変化が起きた。

 どう変わったかというと、同じ音楽に深さを見出すような聴き方に変化してきたのである。

 それは何かというとオーケストラの分解である。

 つまりオーケストラの音楽を総合的に聞き流すのではなく、楽器一つ一つにスポットを当てて音楽を聴くようになったと言えばいいだろうか。

 オーケストラには言うまでもなく数十の楽器があり、それぞれがある時はユニゾンでひとつの旋律を、或いは全くバラバラのメロディラインを奏で結果として一つの響きを作り出す。

 この楽器一つ一つの音を聞き分けながら音楽を聴くのが私の言うオーケストラの分解で、全体の響きの中に各楽器個々の音の響きを見つけるのである。

 そうやってきくと聴き慣れた曲に実に新鮮な発見がある。

「おお、この(聴き慣れた)旋律の中であの楽器はこういう音を出していたのかぁ」

など、オーケストラの響きの中に埋没しそうな一つの楽器の響きを発見する作業はとても新鮮である。

 特に木管楽器や金管楽器など、ソロ以外の部分でどう鳴っているかを見つけるのは非常に面白く、聴き慣れた音楽の流れに新しい発見をすることができる。

 もちろん、オーケストラとして鳴っている中で一つの楽器の響きを聞き分けるのは非常に集中力を要求される作業であり、特にファゴットやホルンなど、全体の響きを支えているような楽器の音をソロ以外の場所で拾い上げるのは非常に大変で、生演奏で聞いてもなかなか拾い上げるのは大変なのに、ましてや質の悪いCD録音や安っぽい再生装置ではどんなに頑張ってもなかなか聞き分けられない。

 でもこれらの楽器の音を響きの中に見つけた時は非常に嬉しいのである。

 この嬉しさはなんというか、一つの会社を支える平社員や事務方の頑張りを見つけたような、イベントで言えばスポットライトの当たってない裏方の高度な職人芸を発見したような、そん嬉しさなのである。

 そしてこうやって一つ一つの音が拾い上げられるようになると、オーケストラの中でどの楽器とどの楽器が絡んで一つの響きやメロディを作り上げているのかが分かってくるから余計に音楽を聴くのが楽しくなり、さらに作曲家の癖なり個性に近づくことが出来る気がする。 

 もちろん演奏している彼らや指揮者などはこの分解作業を毎回当たり前のようにやって音楽を作り上げているのだから実に敬服に値することを改めて感じる。

 こんな聴き方をしているものだから、実は先月日本に帰国した時にサントリーホールに行った時も、プログラムが著名なソリストが登場したコンチェルト(協奏曲)であったにも関わらず、ソリストそっちのけでオケ側の木管やホルンの動きや響きばかり気にしていた記憶がある。

 私にしてみればソリストの演奏が上手なのは当たり前で、それをどうオーケストラの一つ一つの音が支えているかに興味があったのである。

 このオーケストラの分解作業は実に止められない、まるで機械屋の機械いじりのような状態の現在の私である。

フィギュアスケートと音楽

 オリンピック競技の中で使用する音楽が競技に影響する種目は数多くない。
 思いつく限りでは新体操、シンクロナイズドスイミング、そしてこのフィギュアスケートくらいであろう。

 その中でもフィギュアスケートにおいて音楽の要素の占める割合は侮れないものがある。

 実際の得点上でも構成点として音楽の解釈に対して10点満点の配点が与えられ、さらに加重がかけられるのでSP、FS合計で男子で最大30点、女子でも最大24点の配点となる。

これまでの最高点が200点程度の現在のフィギュアスケートの採点方式の中では、この音楽の解釈に対する配点がいかに低くないかわかる。

 つまり音楽の使用方法いかんでは、10点差などすぐに上下するということである。例えば音楽に合わせずジャンプやスピンをばらばらに行えば、それらがどんなに技術点が高い技であろうとも、映像と音がシンクロしないという構成の面で点が低くなる。

 つまり音楽に合わせて演技しないと高い点がもらえないわけで、音楽のどこでジャンプを入れ、スピンを入れるかを考えて構成を組み立てる必要がある。もちろんスタートからフィニッシュまでどう盛り上げていくかも大事な要素となる。
 逆に言うと演技全体の流れを考えながら、場面場面でジャンプやスピンを入れやすい音楽を選ぶことが、フィギュアスケートの得点稼ぎの第一歩ともいえる。

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 また、採点に直接表れない部分で、音楽は競技者に影響を与える。
本来、音楽が表現する主たるものは感情であり、それらが演技者の心理状態や感情にも大きな影響を与えるからである。
 競技者はスポーツとしてスケートを滑っていても、人間が行うことであるからには、その心理状態が動きに大きな影響を与えるのは言わずもがなで、その心理状態を左右してしまうのがこの音楽という要素である。

 小気味よい音楽であれば心が軽やかになり、雄大な音楽であればたっぷり余裕のある心理状態で演技に向かうことができる。
 そしてその心理状態はそのまま技のキレになって現れる。音楽に気持ちが乗ることができれば、競技者は気持ちよく演技ができいい演技につながるのである。

 ただ音楽というのは競技者の性格との相性があり、さらには演技の特徴との相性の問題もある。故に同じ技術レベルの競技者が同じ音楽を使えば同じ心理状態になり同じ演技ができるというものでもない。

 ノリノリの音楽が好きな人が、情感たっぷりの音楽で演技しようとしても堅くなってしまうであろうし、逆に小気味の良い動きの苦手な人がビートの利いた音楽では、音楽に乗り切れずどこかぎこちなくなってしまうかもしれない。
 かのトリノの金メダリスト荒川静香さんも小気味良い細かい動きが苦手だったので、たっぷりとした曲を選曲していたとのことのようだ(ちなみにオリンピックのFSはトゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」)

 さらにこれらの音楽から感情的な影響を受けるのは競技者だけではない。
 審査員や観客も同じである。
 特に観客に音楽が与える影響は小さくなく、観客を巻き込んで盛り上げる演技が出来れば声援にもつながり、それらの声援が今度は競技者に勇気を与えさらには審査員の審査にも少なからず影響を与える。
 逆に個人の趣味に走りすぎたマニアックすぎる音楽は観客には受け入れがたく、競技者が会場から浮き上がってしまい、なかなか上位にはいきにくい。
 実際、上位に来る選手はほぼ例外なく観客に対して説得力のある音楽を使っている
 つまり音楽選びにセンスがなければフィギュアスケートでは上位にいけないことになる。

 ここがスポーツであるにも関わらず、音楽が多大な影響を与える「フィギュアスケート」の妙である。

 このあたり、フィギュアスケートの競技会を下位からずっと見ているとその差がよく分かる。私はスケートの専門家ではないが、演技が始まって10秒くらい動きを見れば大体どのくらい順位に属する選手かぐらいはすぐ見抜ける。

 下位に低迷する選手はまず音楽とスピードが動きがあっていないし、選ぶ音楽もスケートに向かないような音楽だったりする。そういう選手に限ってやはりジャンプなども転倒して尻餅をついたりする。体の動きが音楽に乗り切れていないためうまく飛べないのである。

 その点上位に来る選手はさすがであり、音楽にうまくシンクロして演技をする。さらにその中の数名の本当にきっちり音楽にシンクロできた選手がやはり表彰台に上る。このあたりテレビを見ていてほとんど予測を裏切られたことはない。そのくらい音楽で演技の良し悪しが見抜けてしまう。

 さてさて、今回のバンクーバーオリンピック、いよいよ女子シングルのFSを明日迎えるが、SPを見る限り上位二人のキムヨナと浅田真央の演技はさすがであった。
 小気味よくキレが良かった分だけヨナが少し上まわったという感じであろう。

 で肝心のFSの曲はヨナがガーシュウィンのヘ調のピアノ協奏曲に対して、真央がラフマニノフの前奏曲「鐘」という対決で、アメリカとロシアという全く対照的な選曲となっている。

 この二人、もう史上稀に見る高いレベルなので個人的にはもう言うことがないのだが、選曲の面だけで言うとガーシュウィンの曲はほとんどジャズといってよいくらいのリズム感を要求されるので音楽に乗り切れるかがポイントで、その点ラフマニノフはたっぷりした曲なので慌てず音楽に入れるのが安心要素である。

 まあヨナがリズムに乗れたらヨナに軍配が上がりそうだが真央がたっぷり大きな演技をすることができれば逆転の目は十分ある。
 どちらにしろこの二人の演技は見るべき価値があり、FSが楽しみである。

一番幸せな時間を思い出す曲 ハイドンのトランペット協奏曲

 昨日、件のクラシックFMを聞いているときに不意に耳に飛び込んで、急に心を躍らされたのがこのハイドン作曲のトランペット協奏曲の第3楽章である。

 ラジオの中ではよく流れているので、決してこのとき初めて聴いた曲ではないのだが、昨日の夜は心に不意打ちを食らってしまった。
改めて聞いてみてこんなにネアカでワクワクする曲は他にないように思う。特に弾むようなリズムがとても気持ちいい。

 そもそもトランペットというのは、どんな大きなオーケストラの中あっても音が沈まないので、独奏楽器としての適正としては最たるものであり、協奏曲に向いていそうなものだが、実はこのハイドンのものとフンメルという作曲家以外のものは有名なものは少ない。

 何故か理由を考えてみたところ、この曲が作曲されたときのトランペットは今のものより構造が単純で、その分音が柔らかくオーケーストラに相対しても音が馴染みやすいのである。

 それに対してバルブを追加して改良された現代のトランペットは、出せる音域が広がりそれ故に表現の幅が広がったのはいいが、音質が若干硬質となり、オーケストラの音の厚みの中に馴染みにくくなった。それ故、独奏楽器としては理想的になったが、その反面「協奏」を求められる協奏曲の独奏楽器としては扱いにくくなってしまったということであろうに思う。

 そういった意味で、ナチュラルな音が自然に鳴るハイドンの時代のトランペット協奏曲は人の心に自然に響くように感じるのだ。

 まあこういった理屈はともかくとして、この曲は本当に気持ちがよく幸せになれる気がする。いや正確に言うと、幸せを感じていた時期の心の状態を呼び起こしてくれ心の中にその時期の感情を再現してくれたのである。ああ、こんな幸せを感じていた時代もあったのだと自分の心に驚かされる。

 過去形として思い出してしまうこと自体いかにも残念だが、未来に対しても自信を与えてもらい勇気がもてたような気がする。

 明日からの通勤もスキップしたいような気分かもしれない。また幸せな時間がやってくる予感がする、そんな曲である。

ブラームスのコンチェルト

日本にいたときは、あれだけ夢中になって聞いていたクラシック音楽だが、中国に来て以降、AV機器の再生環境及び演奏会環境にあまり興味を惹かれるものが無いところから日々ネットラジオで聞くぐらいがせいぜいになった。
ネットラジオは24時間どんどん勝手に音楽を流してくれるので、ソフトを買い揃える必要もないので気楽に聞き流せて便利なのだが、その日の気分に合わない曲ばかり流れる場合もあり、必ずしもいつもいつも聞いていて気分の良い時ばかりではない。
 それにピンポイントであの曲、しかもあの演奏者指定で、なんという形で聞くことはできない。しかしクラシック好きの方ならわかっていただけると思うが、そのピンポイントを聞きたくなる時が時々ある。
今回は演奏者はともかくブラーブスのバイオリンコンチェルトが無性に聞きたくなった。
 DVD屋の音楽コーナーに行ってもコピー大国のこの国では売れ筋のものしか置いていない。どうしても聞きたければ日本から取寄せるか、ネットでダウンロードするしかないのだが、取寄せは1週間近くかかってしまうし、ネットだって満足する品質のデータをダウンロードするには、何時間もかかってしまう。その間に聞きたい曲の気分が変わってしまう、、、。

そんなジレンマを感じつつ中国で生活しているクラシックファンの今日この頃である。