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先入観や固定概念は可能を不可能にする

先入観や固定概念は可能を不可能にする

 これは日本ハムに入団した大谷選手が言ってたらしい言葉。

 二刀流の挑戦や自身の野球に対する取り組みを表す言葉らしく、もちろん彼とてどこからか学んだ言葉だろうが、いい言葉である。

 初めから計算ばかりが立って未来を否定するともうそこで不可能が決定してしまうという意味である。

 まあ世の中は願えば全てが叶うほど甘くはないが、願わなければ最初から0%で不可能になり、願えば0%が0%でなくなるわけで、実現の可能性は生まれてくる。

 もちろん大人の経験則から言えば、今回の二刀流はかなり難易度が高いのは事実だが、実績がない競技を2つやりたいと言っているわけじゃなく、それなりの素質を持った彼にはそれを口にする資格はあろだろうし、その挑戦を今の時点で否定する理由は何もない。

 このことは何も大谷選手の話ばかりだけではなく、我々一般人の人生の中でも同様のことが言える。

 つまり物事を最初から先入観や固定概念を持って否定したのでは、何も前に進まないということ。

ファイターズスタジアム

ファイターズスタジアム

 特に最近の日本なんかは、ビジネスでも何でもアカデミックにルールが固定化され過ぎていて、先入観や固定観念で国が塗り固められている印象がある。

 故に安全を求めすぎて固定概念を突き破る勇気を持てない人が大勢いる。

 そこへ行くと、中国人の場合は教育が足りないのか固定概念に縛られず(というか知らないから?)、常に前向きな人が大勢いるのに驚く。

 その発展の急速な速度から、考えてから行動したのでは間に合わないのが今の中国であり、行動しながら考えるというのが今の彼らのスタイルとなっている。

 そのため失敗や周りに迷惑をかけることも多々あるが、少々の失敗にはめげないというか(反省しないというか?)、とにかく日本人から見ると驚くほどポジティブである。

 まあ日本人が持つ固定概念は今回の野球の件のように、先人たちが積み重ねてきた経験則から生まれてきたものだから、あまり軽々しく扱うことはできないが、さりとて100%縛られる必要はなく、前へ進むために突き破るための勇気をもつことは大事である。

 もちろんどこかで行き詰った時に断念する勇気を持つことも必要で、それがわかっていれば固定概念を覆す挑戦をしてみてもいいのではないかと思う。

 今回の大谷君の場合は人の2倍の活躍を目指すわけだから人の2倍苦労する可能性があり、我々が固定概念を突き破るには固定概念を作ってきた人以上の努力は必要になるのは当たり前で、突き進もうとする場合はそれなりの覚悟は必要ではある。

 そうは言ってもやはり現状に安住しているだけではいずれ誰かに抜かされ、負けてしまうので前に進む必要がある。

 だから前に進むためにも、

 「とりあえず、まずやってみる

 この心意気だけは、中国人に学んだ前向きな考え方である。
 先入観や固定概念は可能を不可能にするのである。


餃子に対する日本人と中国人の認識の逆転の驚き

 最近、餃子に関してちょっと気が付いてびっくりしたことがある。

 ご存知の通り中国人にとって餃子は主食の一つで、ご飯・麺と並ぶ三大主食といっても良いくらいの位置を占める

 故に餃子をおかずにご飯やラーメンを食べる日本人とは、餃子に対する認識が全く違い逆転を起こしている。

日本式の焼き餃子

日本式の焼き餃子

 まあ餃子を後から取り入れたのはほぼ間違いなく日本だから認識を逆転させたのも日本人ということになり、中国人から見れば餃子をオカズとして食べる認識のほうが間違っているとも言えるのだが、とにかく餃子の扱いが日中では正反対ということになってしまっている。

 しかし、日本人としては今更それは逆だと言われても、すでにその習慣が深く定着してしまったので、今後も中国流に戻すこともなく餃子をオカズとして食べ続けるに違いない。
 
 ただ、ここで中国人が餃子を主食扱いとして認識していることを知るとなると、日本人の餃子に対する認識のおかしさをもう一つ気づかされることになる。

 それは皮と餡の関係である。

 恐らく多くの日本人は餃子をオカズとして見ているから、餃子を食べるということは即ち中身の餡を食べることが主になり、それを包む皮は従ということになっているはずで、食べる側としては皮はどちらかというとオマケ的扱いになる。

 つまり日本人は基本的に餃子の餡が食べたくて餃子を食っているのである。

 しかしである。

 もし、中国人が餃子を主食として考えるとするならば、餃子における主役は小麦粉で出来た皮の方ということになり、肉や野菜でできた餡は従ということになってしまう。

 えーーーーー?

  その事実に気が付いた時はまさに青天の霹靂だった。

 そう、餃子の皮と餡の主従関係に対する認識が日本人と中国人では全く逆なのである。

 つまり中国人にとっての餃子は日本人にとってのオニギリと一緒で、餃子の皮は単なる餡を包む道具では無く主食として腹を満たすものであり、日本人がオニギリの中身を鮭やタラコを入れて楽しむように、中国人はでんぷん質の皮を美味しく食べるために餡に具材を入れるという発想で食べているのである。

水餃子のセット

水餃子のセット

 故に中国人にとっての餃子の皮は単なる包む道具ではなく、餅や米、パンなどと同等の存在だということになる。

 これに気が付いた時、今まで餃子の皮を単なる道具としてしか見ていなかった自分の文化認識の浅さに恥ずかしさを覚えた。

 うーん知らないというのは恐ろしいことである。

 まあこうやって考えてみると日本と中国では似たようなものに見えながら実は認識が全く違うものがまだまだ沢山あるのではないかという気がする。

 私の探究はまだまだ続きそうである。

日本人は経費を削る話ばかりをする。

最近日本からやってきた日本人と会話していると、一様に感ずる感想がある。

日本の国内全体の雰囲気がそういう雰囲気なのかもしれないが、あのコストはもっと削れるとか、ここを取り換えればもっと安上がりになるとか、どうも現状からいかにスリムにし利益を浮かせるかという発想ばかりでモノを考えている印象がある。

つまり、コレとアレを足せばもっと魅力的になるとか、もっと収益が見込めるとかといったそういうプラスの面の発想でモノを考えられなくなってしまったようだ。

経費を削っていかにコストを安く抑えるという発想はそれはそれで大事だが、それはベースになる魅力があって初めて言える話である。

別にアップル社を持ち上げたいわけではないが、あの会社の成功は経費を削って利益を生み出したわけではなく、既存の技術を独特の発想で組み合わせて魅力を生みだし、利益を生んできた会社である。

それは以前のSONYにも言えた話である。

もちろん魅力を生み出す裏で、アップル社が独特の販売戦略で経費を削ってきた面も各地で伝えられている通りだが、それは魅力を磨いたからこそ生きた経費節減なので、魅力がなければ単なるジリ貧の経費節減になっていたはずである。

新しい魅力が生み出すための努力、それを忘れたら単なるジリ貧である。

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私は故ジョブス氏のやり方や考え方の一つ一つは決して好きになれないが、新しい魅力、新しい価値を創造して前へ進もうとしていた姿勢だけは評価している。

日本のビジネスマンがアップル社から学ぶべきはiPhoneの使い方ではなく、新しい魅力を創造してビジネスを開拓していこうとするその姿勢であろう。

彼らが作った価値にまんまと魅了され、その商品を手に入れただけで悦に浸り、自ら価値を築くことを忘れてしまった愚か者がいかに日本にも中国にも多いことか?

私も日本人だが日本がなぜ停滞しているかわかったような気がする。

フルオート事業システム幻想

事業や経営を行う人なら恐らく誰でも持ったことがあるのだろうと思われるのがフルオート事業システム幻想。

 つまり、いったんシステムを作り上げてしまえばほとんど手をかけず、システムが自動的に利益を稼ぎ出してくれる事業形態のことである。

写真はイメージ

写真はイメージ

 まあ、確かにそんなシステムを築き上げられれば後は非常に楽で手間もかからず、経営者的には理想の形態である。

 経営者達がこれを理想と考える裏側には、「人を雇うということはコストも手間もかかるし、うまくいかないリスクも抱え込むことになる」などのそういった人に対する煩わしさから、「機械の正確性のほうが信用性が高い」というところに意識があるのだと思う。

 故に人の手を極力省いたシステム、究極的には事業そのものをフルオートメーション化したシステムを構築できれば、あとは全て利益になるのではないかと理想を抱く。

 しかし、そういった理想は結局幻想でしかないというのが人間の世の中だというのが私の考え方だ。

 まず第一の理由として、そのシステムが儲かるのなら必ず同じものを作ったり、それ以上のものを作る人が現れ、結局は人の手を入れなければ競争に負けてしまうこと。

 つまり余ほど真似のできないようなオリジナルの技術があったり、特許で保護されているものがあれば別だが、そうでなければシステムは作った瞬間から常に競争にさらされることになる。

 第二に人が働く部分をどんどん機械に置き換えていったところで利益をもたらしてくれる相手は機械ではなく、それは結局人間にほかならず、その人間の社会というものが常に不安定なものであるが故に、永遠に同じ動作で動くものは人間に飽きられてしまう可能性があるということ。

 結局は人が事業で儲けるためには、常に人が働きそこに日々常に新しい価値を注入し続けることが必要で、そうでなければ実は進化が止まることになり、世の中が絶え間なく進化している分だけこちらが歩みを止めた時点から相対的に退化していく存在になってしまうのが人の社会というものである。

 であるが故に、人がプログラミングした範囲でしか動作しないシステムだけを、いくら高度に積み上げていったところで永遠に利益に稼ぎ出してくれるシステムにはありえないのである。

写真はイメージ

写真はイメージ

 

もちろん、ならば永遠に価値を生み出してくれるようなシステムなどという幻想もまた生まれなくないが、新しい価値とは既存の物事を推し量るパラメーターでは計れないところに出現するから新しい価値なのであり、それを永遠に追いかけることはその時代の社会に生きる人間だけが成しえる業であり、たとえ3年でも5年でも過去になってしまったものの中からは生み出しえないものだと思う。

 そう考えていくと、やはり人がいるから価値が生まれ、事業というものが回るのであり、表題に掲げたフルオート事業システムなどは絵に描いた餅に過ぎず、やはり幻想なのだと思う。