Monthly Archives: 10月 2013

田舎者ほど自動車はカラフル?

 昨日バスに乗っていて気がついたのだが、最近上海の一般乗用車もシルバーの車両が増えてきたようである。

 以前はもっとカラフルな色の車両が多かったはずだが、最近は日本同様にシルバーが主流になった気がする。

近所で見つけた紺色の車体は安徽省ナンバー

 ただ上海ではシルバー同様に、黒の大型車も多く、威厳を示す為なのか高級車は黒い車体が多いようである。

 もちろん赤や黄色、青といった色付の車体も時々見かけるが数としては多くなく、やや薄汚れた手入れの行き届いていない車両が多い印象で、よく見るとそれらの車両は安徽省や山東省といった地方ナンバーが多い感じがした。 

 気になって車両のナンバーと車の色の相関関係を注意深く観察してみたところ、やはり上記の印象を裏付ける一つの傾向が見えてきた。

 僅か1時間にも満たない短時間での観察の傾向ではあったが、やはり上海ナンバーを付けている車両は圧倒的にカラフルな車両が少なく、黒・シルバー・ダークシルバー・ホワイトの車体だけでおおよそ全体の7~8割を占めるのではないかという印象であった。

 特にシルバーと黒が多く半数を超える。

 逆に赤、青、黄色などといったいわゆる色付の車体はほぼ決まって地方ナンバーであり、安徽省、山東省、浙江省などといったところが非常に多かった。

 上海ナンバーでもカラー塗装を見かけない訳ではないが、割合いから言えばややひねくれ者的存在になっており、少なくとも主流ではない状況になっている。

 日本でも地方の人ほど派手好きな傾向があるが、それは中国でも同様で、地方ナンバーほど派手な原色塗装の車が多く、逆に上海のような都会では重厚感は求められても派手なカラフルな塗装は安っぽく見られるためかあまり好まれず、洗練され落ち着いたシルバーが好まれる傾向のようである。

 つまり日本同様に、中国の中でも特に高齢化社会の進む上海では街を走る車の色の傾向も似てくるということのようである。

 まあ、そんな中、上海ナンバーにもかかわらずで色付き車体を持つ人というのは、まだ目立ちたい子供っぽさを持った意識のような印象でもあり、そこも日本同様の傾向のような気がする。

 街の自動車の色を見ているだけで社会の状態が見えてくるから不思議なものである。

原掲載

大気汚染は気候のせいではない

 中国の最近の大気汚染のニュースを見ていて、気になる記述が時々ある。

 それは風が弱いなど気候が要因で、スモッグが街を覆っているという専門家の分析コメントである。

 あたかも気候がスモッグを発生させている一因かのようなコメントとなっている。

 確かに、スモッグを街に停滞させている環境要因はそこにあるかも知れないが、風が弱かろうと強かろうと、大気を汚染している物質総量は変わるわけではなく、汚染物質が汚染を起しているわけで、気候が汚染を起している訳じゃない。

 以前にも書いたが、例えば風が吹いて大気が拡散して北京の天気が晴れあがったとしてもそれは北京上空にあった汚染物質がどこかへ移動しただけであって、汚染物質が消えてなくなって問題が解決したことにはなっていないのは皆が知る通りのはずなのであある。

 それなのに「風が弱くて汚染物質が拡散しにくい状態」だのと言っている時点で、まず環境に対する認識がそのものが間違っているだろうに思う。

 まあ中国で起きているマナーの問題は、全てが環境問題の認識レベルに直結しているような気がしており、街中での便にまつわるマナーや、喫煙や吸い殻のポイ捨てなどは、ゴミとして捨てたり水に流したりしても、やがて自然が土に返してくれるといった古来からの生活様式のスタイルが抜けないという気がする。

 中医学の様な伝統にばかり恋々としているような発想からまだ抜けられないのである。

 しかしながら、既に中国も工業製品が出回るようになり、昔のように無責任に投げすただけでは自然に還ってくれない世の中になっている訳だから、そのことを誰かがきちんと教育すべき必要があるのだと思う。

 つまり、大気汚染が起きたらまず「どこが発生源か」「拡散ではなく浄化する手立てはないのか」を考える思考回路になるべきだろうと思うのである。

 まあ環境認識問題に関しては日本も原発汚染水などを抱えてあまり他国を注意できる立場ではないが、大気汚染に関しては解決法が先進国によって既に道筋が付けられている訳であるから、あとそれに取り組むか取り組まないかだけの状態であるだろうに思うのである。

 くれぐれも風で拡散したしないで一喜一憂してほしくないという気がしている。

中国から「おじさん」がいなくなる日

 先日、ラジオを聞いていて興味深い話を耳にした。

 これは中国のことではなく日本の事情について話されていたものであるが、今や日本から「おじさん・おばさん」という存在がいなくなりつつあるという事である。

 もちろん中年の男女が減っているという意味ではなく、両親のお兄さんや弟、或いはお姉さんや妹が存在しない人間関係が増えつつあるという意味であった。

 つまり少子化によって一人っ子の家庭が増え、その一人っ子同士が結婚して子供が生まれても、その子供にとって両親はいても両親の兄弟姉妹はいないわけだから当然「おじさん・おばさん」の存在はいないことになり、更にその子供の従妹などという存在も有り得ない社会となる。

 まあ突然蒸発していなくなるとか、そういう後発的要因が無いにも関わらず、おじさん・おばさんという人間関係が最初から全く存在しない中で、人が育つ社会になっていることになり、人の社会関係が大幅に変化している状況になっているのが現代の社会だというのである。

 この「おじさん・おばさん」というのはある意味身内でもあり、一方で完全に家族の人間であるわけでもなく、言わば家族と世間の中間にある存在で、一つの家族が社会から完全に孤立しないように繋いでくれる、社会と家庭内の風通しを行なう窓の様な存在である。

 更にそのおじさん・おばさんに配偶者がいれば、その配偶者の親兄弟の存在を通じて社会への繋がりをさらに広げ、自らの家庭と社会を繋いでくれる役割となる。

 それ故にある面では時々内側まで踏み込んでくるその人間関係は鬱陶しくもあり、ある面で身内の情で助けられたりしてきたのが、一人っ子時代を迎える前の社会の姿であった。

 しかし、最近のようにこういった「おじさん・おばさん」という存在がなくなりつつある人間関係というのは、家族の外はいきなり公衆・公共の場となり、そこは単なる法律的・社会的ルールにのっとった社会平等的な関係しか存在しない場所であり、そこに親戚の情というものはなく、自らが積極的に人間関係を築く努力をしなければ、社会のルールにのっとって粛々と処理される人間関係のみが存在するようになる。

 故にこういった「おじさん・おばさん」の存在なしに育った子どもというのは、親戚が大勢いる環境で育った人間とは社会に対する接し方が大幅に変わってくるという気がする。

 こうやって考えると、この一人っ子社会がもたらす親戚構成の変化は、人の発育段階に対する社会環境の劇的変化といって良い気がするし、ひいては社会そのものが単なる人口減少論に留まらず、人間関係や社会の基本的枠組みに劇的な変化を与える可能性があるのはないのかという気がする。

 つまり、これまで親戚という血縁関係が担ってきた社会の連帯的役割部分がなくなり、今後は全てを公共的な行政機関などが担わなければ社会が成り立たない時代がやって来るのかも知れないということを意味するのである。

 で、ここまで書いたのは日本の状況についてであるが、法律で一人っ子政策が定められた中国は状況はもっと深刻であろうに思う。

 最近の中国ではいわゆる失独家庭と言われる一人っ子を失った家庭の老いた夫婦の問題が、大きな社会問題になっているが、まあそれは過渡的な瞬間的な一つの事象に過ぎず、問題はもっと別の大きな部分にあるのではないかという気がするのである。

 ご存知の通り、血縁主義の強く残る中国の人間関係においては、血縁の関係が何よりも重視されるほどに非常に強い繋がりとなっている。

 しかし、この一人っ子政策によって、単に人口減少や少子高齢化のみならず、中国人社会を強く結びつけてきた血縁社会の断絶をもたらすという気がするのである。

 当たり前だが、上述のように両親に兄妹が沢山いればその兄弟の数だけ配偶者がおり、その配偶者たちを通じて血縁関係が結ばれるわけだから、兄弟が多ければ多いほど親戚は増えることになり、その関係が何代にも渡れば結びつきはさらに深くなるのであって、そうやって中国人達の社会は結びついてきたと思うのである。

 しかし逆に最近のように両親の兄弟が少なければそれだけ親戚関係が狭まることになり、血縁を結ぶ絆の数も減ってくるわけで、最低限2人兄弟いれば親戚は存在することになるが、一人っ子同士だと全く血縁の広がりがないことになり、代を重ねるうちに血縁関係がやがて断絶することを意味する。

 つまりこれは血縁関係で成り立ってきた中国にとって実は目に見えない革命的な社会の変化であろうという気がするのである。

 その変化の大きさ故に、一人っ子時代の進行のその結果によってこの国の人間社会がどう変化していくのか、現時点では全く分からないのが正直なところである。

 今後の中国人社会は血縁社会から地縁社会に移行するのか、或いは公共ルールに基づく人間関係しか存在しなくなるのか?中国から「おじさん・おばさん」が全くいなくなる日、その日を考えるとちょっと怖いものがある。

原掲載