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結局に和食にたどり着く

 日本の和食が世界無形文化遺産に認定されるとのニュースが耳に入った。

 認定の理由として、日本文化の年中行事と密接に結びついているだの、自然を尊重した旬の食材を使うとか、美しい盛り付けなどが取り上げられており、まあ我々としてはどれも当たり前のことでしかないのだが、日本人としてはいつも食べているものが素晴らしい物だとして再評価された訳で、無形文化遺産そのものの必要性は感じなくとも、評価されて悪い気はない。

 それに無形文化遺産という評価は別にしても、和食というのは考えれば考えるほど、素晴らしい食文化だという気がしてくる。

 以前も同じような事を書いたかもしれないが、中国ではよく漢方の考え方で、医食同源などという言葉が仰々しく取り上げられ、やれ夏にはこれを食え、冬にはこれを食えなど学問的に押し付けがましい態度で教えを説いて来るが、実は和食はこれらの考え方を既に内包しているのではないかと思うのだ。

 つまり、中国のように今更わざわざ学問的に健康を押し出さなくても、和食では季節季節で旬の素材で献立が組み立てられており、旬の時期に旬の美味しい物をバランスよく食べるだけで中医学などでいうところの季節に必要なものが取り入れられ、自然と栄養バランスが整うようになっているという気がするのである。

 もちろん、この和食の成立過程にはこういった中国の食文化の考え方を取り入れてきた経緯もあるかもしれないが、今となってはそれらを見事内包して完成されている気がしており、敢えて栄養サプリの如く無理やり健康に良いとされる食材を取り入れなくても、自然な形で季節ごとの献立で摂食するだけで健康な食生活になるように整えられているのが和食だと思われる。

 まあ学問的に細かい検証を行なったわけではないが、伝統医学などと形式ばって学ばれているものは実はほとんど和食の中に存在しそうで、旬に採れるものを使った季節の献立そのものが健康を保つ食事となっている印象である。

 つまり敢えて「健康のため」と力まなくても健康を保てる食事、それが和食だという気がしており、そういった健康に関する食の知恵が無数にちりばめられている和食はやはり素晴らしいということになる。

 私も物好きなので世界の各国の料理を口にしてきたが、生まれ育った食事だということを別にしても結局最後は和食にたどり着きそうだという気がしている。

富士山が世界遺産登録

 日本の富士山が世界文化遺産に登録が決定したという情報が今朝のコンフェデ杯の中継の合間のニュースで何度も流されていた。

 まあ、世界遺産に登録されようとされまいが富士山の価値は不変であろうと思うが、今まで登録されていなかったのが不思議だと言われるくらい、シンボルオブジャパンとしての存在感を持っていたのが富士山であり、わざわざ語るのが野暮なくらいその姿が世界に広く知れ渡っている。

今年の正月に撮った写真(手前はスカイツリー)

今年の正月に撮った写真(手前はスカイツリー)

 恐らくその知名度たるや、自然景観で言えば米大陸のナイアガラの滝や豪大陸のエアーズロックに比肩するレベルであり、建造物のピラミッド自由の女神などにも負けない浸透度と思われるが、その富士山が今回ようやく世界遺産に求められることになった。

 そして今回注目すべきなのは、自然遺産ではなく文化遺産として登録されている点である。

 つまり富士山は自然としての貴重性ではなく、浮世絵を初めとした数々の絵画に見られるように信仰や文化面における存在価値を認められての登録となっている。

 確かに、初富士などの言葉にも見られるように自然信仰としての富士山の存在は大きく、私も今年の正月に富士山を拝んだことを記憶している。

 そして富士山のあの雄大な存在感は、自然の畏怖を我々に与えてくれ信仰心の薄い私でも拝みたくなる存在であり、向かい合うだけで他の山では感じない程の懐の深さを感じずにはいられず、身の引き締まる思いになる。

 そう思うと世界文化遺産だと言われることにしっくりくる。

 まあ直接富士山の見えない西日本や東北の人にとっては、富士山が日本のシンボルと言われることについてどういう意識を持っているかは分からないが、もし「日本人としてのアイデンティティ」をどうしても一つ求めなければならないとすれば、この富士山は最もふさわしい気がしており、例えば難癖の付きやすい国歌なども、文部省唱歌の「ふじの山」に制定すれば、誰からも文句の出ようもないという気もしている。

 今回世界遺産に登録されたからというわけではないが、金儲けやつまらぬ意図をもった人から富士山を守ることが現代に生きる我々の使命でろう。
 

中国人の世界遺産に対する勘違い

 まあこれは中国に限ったことではなく、日本でもその傾向があるのだが、世界の中でも特に中国では「世界遺産認定」を観光地価値のための単なるランク付けと認識している人がかなり多いという気がする。

 しかし、ユネスコによる世界遺産認定と言うのは、本来は建物などを人類の普遍価値の遺産として後世に残していきましょうという、その「遺産価値の保護」にこそ趣旨があるのだが、現在各地で申請が行われている動機を見ると、どう見ても観光開発のための世界的お墨付きが欲しくて申請している地域がほとんどのような気がする。

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 もちろん、世界遺産=観光地となるのが世の中の常なので、観光地としてお墨付きがつくのは必ずしも悪い事ではないのだが、中国の場合は特に経済的モノサシが最優先で世界遺産を求めているような印象である。

 このような中国人達にこの勘違いを起こさせている理由の一つが、中国の国家の定める旅遊景区認定いわゆるリゾートランク制度であると思われる。

 これは観光スポットごとにAAAAA級(5A級)などのランクを与えて評価する制度で、まあこの基準はどちらかと言うと最初から観光地の経済的価値の正当評価をランク付けするために作られた制度の様であり、そのランクを利用して観光PRをしたり経済的PRを行なうものとしては間違った制度ではない。

 さらにホテルの星級ランク同様に価値の無い物を価値があるかのように勝手に喧伝することを防ぐ目的もあるようで、つまり観光地の価値評価プラス施設整備程度などの評価点を勘案してランク付けを行ない評価するものであるから、観光地の評価のための制度としてはおよそ目的に適った制度となっており、つまりどちらかと言えば観光開発を奨励するような制度となっている。

 故にこういった制度のある中国において、ご当地の中国人たちが「世界遺産認定」という制度に対して、この旅遊景区認定と同様に観光開発のための国際的プレミアムバリューを与えてくれるものと考えてしまうのは無理もないことではある。

 しかし、それはやはり彼らの大いなる勘違いである。

 世界遺産認定制度はあくまでもその保護を目的としているものであるから、観光化を否定している訳ではないが特に奨励をしているわけでもなく、保護すべき対象として認定しているだけである。

 保護すべきとされているからには、本来過剰な観光開発などは避けるべきなのだが、中国では世界遺産のお墨付きをいいことに観光開発をガンガン行っていると聞き、世界遺産認定を受けた時の雰囲気をすっかり失くし世界遺産としての価値を失ってしまったような場所さえあるという。

 こうなってしまうと本末転倒で、遺産としての価値も失ってしまうように感じられる。

 まあこういった場合はユネスコの方で遠慮なく認定取り消しなど厳しい措置を取ってもいいというような気がしており、実際ドイツなどでは渓谷に橋が出来たため取消しされた例もあるという。

 これらの点、日本でも世界遺産を観光客誘致のきっかけとしたいとの動機で申請する動きも確かにあるのだが、日本の世界遺産候補地の場合は、既に日本の国立公園・国定公園に指定されている場合がほとんどで、日本の国立公園・国定公園の法律は中国の旅遊景区認定と違って、自然保護を目的とした厳しい法律になっており、地熱発電所のような公共的施設の類でさえ開発が容易ではない状況になっている。

 故に、そういった場所が仮に世界遺産に認定されても、観光乱開発が突如として起こることはまずあり得ない状況になっており、観光誘致が目的だとしてもそれほど憂慮することではないという気がしている。

 しかし中国は世界遺産の数だけはやたら多いが、どうも日本のように国の下で保護が行われている印象がなく、開発だけが優先している印象が強い。

 つまり世界遺産の保護というは、各国家の責任に依るところが大きいとも言え、そのあたりの中国の自然保護の法律制度がどうなっているか知らないが、本気で世界遺産の観光価値を高め観光収入を得たいと思っているのなら、観光開発より原状保護を強める方がはるかに大事で経済的価値を生むものだという気がしている。


国費外国人留学生は宣教師的役割を負う

猫ひろしさんのオリンピック出場資格問題が世間を賑わしている。

 まあこれはどう見てもカンボジアという国と猫さん双方の売名行為にほかならないような気がする。

 特にカンボジアは、世界に対してというより日本に対して自国をPRしたいという意図が見える。

 何故ならばきっと猫さんよりももっと早いマラソンランナーが、ケニアなどにはいるであろうにも関わらず、わざわざ日本人の猫さんに国籍を取得させたというのは、明らかに猫さんが経済大国日本の日本人で、有名人であるからにほかならないからである。

 つまり猫さんはカンボジアという国にとって日本に対する宣伝塔という位置づけで国籍を取得したことになる。

 当たり前の話だが、国家が一外国人に対して何か便宜を図るということは、その国にとって何らかメリットが存在するから便宜を図るのであり、何の意図もなしに外国人に便宜を図るようなお人よしの国は世の中にあるまい。

 つまり、便宜を受ける外国人はそれだけ相手国の思惑を背負わされているわけである。 

 これは今回の件に限らず留学生に対する奨学金なども同様だと見ることができる。

 例えば日本政府は日本の国費で外国からの留学生を大量に招いているが、これは当然国際貢献などという表面的な建前では終わらず、将来的に日本がその国へ経済進出するための人材的な基礎固めの意図が存在する。

 よって日本に招れた留学生たちは、例え明文化されたり義務化されていないにしろ、日本文化の伝播を背負う宣教師的な役割を背負うことが求められる。

 そうしてODA事業をやりやすくしたり、国連などの様々な国際舞台の上で親日的立場の国を増やし、日本の経済進出にとって地ならしをしてくれる立場を期待されるのである。

 このように、言葉は悪いが日本も留学生を使って国力拡大の努力を行なっているわけである。

 逆に言うと、我々日本人が外国の国費で留学をさせてもらうような機会が与えられた場合には、単に相手の国のお金で勉強させてもらえるなどという綺麗ごとでは済まない訳であり注意する必要がある。

 相手の国の立場に立って考えてみれば、何のメリットも目論見もなしに外国人にお金を出して学ばせるようなことはまずあり得ないからである。
 つまり今回のカンボジアの猫さんに対する対応と同様に、外国の人間に留学費用を国費で出すなどということは、その外国人の母国へ対する何らかの戦略的意図がそこに存在するからお金を出すのであり、そういった目論見なしにお金を出すはずがないのである。

 故にもし便宜を受け取ってしまったものは当然その時点でその国の目論見を背負わされることになり、例えば母国へ対しての広告塔や宣教師的な役割、極端な場合はスパイ的役割を担うことになる。

写真はイメージ

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 従って相手国の意図を考えず国費外国人留学生の選考に合格し「自分は選ばれた!」などと自慢すればそれは完全にピエロであるし、分かった上で便宜を受け取るなら相当したたかな生き方ということになる。

 もちろんこれは相手国の思惑がどこにあるかにもよるが、例えば中国は世界文化遺産への中医学の申請でもわかるように、世界に対して薬品権益の拡大を狙っている面がある。

 つまり何とか中国の薬剤を日本で売れるようにしたいらしく、それに必要な人材を育て日本へ売り込む戦略を立てているようでそのために国費留学生で人材を招いている。

 最近気が付けば、日本のテレビやマスコミに対して懸命にそういった人材の露出を図る姿が多く見られるようになり、日本人がテレビ番組や講演活動などで文化の売り込みを必死に行っている姿が目に付いているが、これらはまさに育てた人材の宣教師そのものの活動ということになる。

 つまりそういった意味での商売をしやすい環境づくりのために、国費で外国人留学生を受け入れているわけであり、いうなれば自国の営業マンや宣教師として働いてくれる人間を育てているのである。

 よって、そういう風に外国の国費を使って学んできた人と相対するときは、相手は国家の思惑や特命を何かしら背負っているため、表面上の部分だけで話を鵜呑みにしてはいけないし、また逆に己にそういった外国からのオイシイ話があっても、うかつにそれに乗ってしまえば何らかの国家の思惑を背負わされ、さらにその後他人から色眼鏡で見られる人生になる可能性があることを肝に銘じて行動するべきであろう。

 つまり普通の人にとっては外国からお金をもらって育てられた人を同じ国の人として素直に信用するには抵抗があるし、さらにそこにはその外国に対する国家観が非常に大きく影響するからである。

 まあ国家への帰属意識のあり方は人それぞれだが、今回の猫さんのようにどこに帰属意識があるのかはっきりしない人間は、いずれに国からも信用されなくなるというのが人の社会というもので、彼にベトナムに骨をうずめる覚悟が無ければ、外国の思惑は背負うべきではなかったというのが私の意見である。

文化遺産にすがる中医学の価値?

 ちょっと前のニュースになるが、中国の伝統的学問とされている中医鍼灸が人類無形文化遺産リストに登録されたというニュースが流れた。

 中国国内のニュースではこのことに関して、これで中医薬の世界的普及に拍車がかかると喜んでいる向きもあるようだが、私としては「はて?」と思う。

 文化遺産に指定されて、世界的普及??

 物凄い論理の飛躍に笑ってしまう。

 そもそもよく考えてみて欲しい。
 認定されたのは「遺産リスト」である。
 動物で言えば絶滅危惧種と指定されたのと同じようなものである。

 つまり、放っておけば滅んでしまうかも知れないから皆さんで後々まで大事に保護しましょうというのが、この世界遺産のリストの趣旨である。
そんなところに自ら申請するなんぞ、私たちは競争力がないから皆さんで守ってくださいとすがりついて頼み込んでいるように見える

 よく西洋医学と東洋医学、あるいは中医学などという対比の言い方をされ、西薬と中薬はどっちが良いかなどという話題も中国国内では良くされる。
 しかし、そもそも人の命や健康を考えるという意味において医学に西洋も東洋もあるはずもなく、それをことさら強調して差別して競争意識を働かしているの中医学のほうである。
 
 それに加えての今回の文化遺産申請である。

 中医学に関わる人たちは今回の認定を世界に認められたと喜んでいるらしいが、果たしてそれはどうなんであろうかと思ってしまう。

 私から言わせれば、世界的普及どころかもうすぐ滅びそうだと認められてしまったのが今回の認定であるような気がする。

 もしそれを喜んでいる人たちがいるのなら全くおめでたい頭としか言いようが無い。

 よく考えてみて欲しいが、現在西洋医学とされている分野を学んでいる人間が、自分の学んでいる医学を後世まで残したいから「人類無形文化遺産リスト」に申請するといったらどう思うであろうか?

 特に先進の研究分野にいる人間は、そんなカビの生えそうなレッテルを貼らないでくれと思うのではないだろうか?

 日々進歩している医学の分野においてそんな時間が止まったような評価は必要なく、寧ろ邪魔だと思うような気がしてならない。
そんな無意味な保護をされなくても医学の分野は成長を続ける、そう考えて日々研究開発に切磋琢磨しているに違いない。
 (もちろん研究開発費は必要だろうが、、)

 私自身は中医学といわれている分野の考え方についてそれ自体を蔑むモノではないが、世界遺産という大義名分にすがりつき、それを権威主義的に名誉を振り回す人々の勢力の姿には退廃的な印象を感じてしまう。

 まあ今回の遺産リスト申請には、韓国医学との東洋医学の宗主国争いの中に生まれた産物といった面もあるようだが、結局はそれ自体がナンセンスである。
 そんな過去の起源で争っているようでは結局未来の進歩は無く、それこそ保護されなかったら滅んでしまうだけである。

写真はイメージ

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 もし現在の西洋医学の社会の中でそんな過去の起源をやっきになって争っていたら、きっと笑われてしまうであろう。
 そんな中医学などという言葉にアイデンティティを感じすがっている暇があったら、もっと人の命そのものに真剣に向き合って欲しいものである。

 中医学の看板や権威にすがるといったそんなアマチュア根性を、どうも今回の世界遺産申請には感じてしまう。
 そんなアマチュアな人々に果たして人の命が守れるのだろうかと現在の中医学関係者の姿勢にはどうも疑問を感じざるを得ない。