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過去ブログのワードプレスへの移行作業

 現在合間を見ては、引っ越し前の過去のブログを少しずつ現在のシステムへ乗せ換える作業をしている。

 何故こんな手間のかかることをしているかというと、読み返すとなかなか我がブログながら興味深いことを取り上げていて、もう少しネット上で晒せる状態にしておきたいからである。 

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 現在の状態だと一応ネット上に公開されている状態とは言え、それぞれHTMLの単独ページで保管している状態なので、ほぼ倉庫の中に眠っている状態とあまり変わりなく、検索エンジンではあまり引っかからない状態になってしまっている。

 これをワードプレスのデータベースに載せることにより、プラグインを使って関連記事にその記事へのリンクを自動的に表示させたり、カテゴリ分類によるリンクで、閲覧者がそのページにたどり着きやすいルートを確保することが可能になるのである。

 また直接の閲覧だけでなく、ワードプレスで扱うことにより、カテゴリやタグの活用で、検索エンジンのクローラーが回りやすくなり、SEOという点でも非常に効果が出やすい

 ウェブサイトにとってはページ数のボリュームこそが一番のパワー源であり、SEOの強力な武器となるため、同じシステムに文章を載せかえることによって、ブログ全体としてまとまったパワーを持てるのである。

 さらにワードプレスで扱うことによって、そのボリュームパワーは加速度的に上昇が可能(うまく設定すればの話だが、、、)になるので、時間をかけても載せ換えることに意味があるのである。

 とはいえ、過去ページは数えてみると1300ページ近くあり、現在ようやく半分をちょっとを超えたような段階である。

 単純にコピペだけでも良いような物だが、いちおうSEOを考えて色々タグ付けなどの作業をしながら進めているので、思いのほか時間がかかる。

 しかも過去の自分の文章をいちいち読み返しながら自分の過去の歴史などを思い出しつつ作業をしているので、なかなか進まない。
 過去10年の自分の上海生活を振り返る気分になっている。

 誤字や文体のブレなども数多く見つかり、どうにも恥ずかしいので校正も入れつつやっているので、1文章あたり結構な作業量となるのである。

 さらに日付設定を忘れて過去文章が最新の状態などに出てしまうこともしばしばで、恐らく古いネタのタイトルで引かれてクリックしてしまった方も少なくなく、開いてくれた方にちょっと申し訳ないという状況も発生している。

 まあ個人作業なのでいつまでという期限はないものの、夏までには終えたいこの作業である。

文章疲れに砂糖

 国慶節の連休中、人に頼まれて翻訳だの何だの文章系の頼まれ仕事を引き受けていたら、結構頭がヘロヘロになってしまった。

 文章を書くというのは、翻訳であれ創作であれ結構集中力を要するので、何時間も文章をを書きづづけると頭が相当疲弊する。

 故に自分のための文章などをゆっくり思考する時間も気力も無くなってしまっていたのである。

 そんなわけでブログが10日も止まってしまったが、ヤマを越えたので再開しようとは思う。
 ところで、文章を書く上で脳みそをフル回転させるのに必要なものに糖が必要で、今回この糖に随分助けられた気がする。

 眠いから単に眠気覚ましにコーヒーを飲むときにはブラックでもいいのだが、脳を使って作業をしたい時には糖のエネルギーが必要になる。

 単純作業の場合は、砂糖が入っていなくてもいいのだが、どうしても頭を使って考えなければならない時にブラックコーヒーだけでは目は冴えても頭は働かない時があるのである。

 そんな時は、カロリー云々は脇に置いて甘ーい砂糖入りのミルクコーヒーの様なものを飲むと頭の思考が動きだし、物事を深く考えることが出来る。

 これは科学的にも実証されているようで、脳のエネルギー源は糖であるとされており、故に文章作業のように頭の回転を必要とする場合は糖の補給は必須といって良いようようなのである。

 もちろん、砂糖の取り過ぎはカロリーオーバーや糖尿病などに繋がるし、夜中に飲むと胃に悪影響を与えるので度をわきまえることは大切であるが、血糖値の上昇を恐れすぎると、実は頭が働きにくくなり思考が悪くなるというのが糖と言う存在のようだ。

 それ故に、大人も子供も変に糖分摂取を怖がらず、勉強や仕事の合間に若干の糖分を取ることは実は、能率向上の一つのコツなので無いかという気がしている。

自己陶酔的な形容詞

 中国語の文章を読んでいるとやたら出てくるのが華美な形容詞であるが、日本人の私はあれが苦手である。

 特に観光地の説明文章などにはそういった華美な形容詞がやたら目につく。

 どうも書いた人間が自己陶酔している感が伝わってきてしまい、ちょっと気色が悪く私には受け入れがたいのである 

 そういった華美な表現に含まれている形容詞の大体は主観的なもので、共感できない場合が多く、結局は物を見る判断材料としての現実を何も伝えてくれない場合がほとんどである。

 従って翻訳が必要な文章の中にそういった内容が含まれる場合、表現者には悪いがそのほとんどはカットすることになる。

 その代り一つの事実を伝える時はそういった主観的な言葉ではなく、なるべく必要最低限かつ不足のない客観的データを羅列し、受け取り手の頭の中で一つの像を組み立て易いような材料を提供するのが、中国語を翻訳して日本語で表現する時の心構えだという気がする。

 ただ、場合によっては言葉は主観的な表現をするからこそ意味を持つ場合もあり、その場合には、逆に敢えて幅がある形容詞を使うことに意味がある。

 例えば人と人のコミュニケーションにおける言葉であり、女性に対して「あなたは美しい」と褒める場合は言葉が主観的であるから意味があり、それを客観的に「目と鼻と口のバランスが素晴らしい」と褒められても言われた人は嬉しさが半減するため、曖昧さを含んでいた方がいいのである。

 しかしながら受け取り手が不特定多数の説明的文章の場合は、やはりこういった主観的なあいまいな言葉はなるべく排除するようにしている。

 まあ私自身が文章を書く際に、いつも気にするのは自分が感じている感覚をどう損なわずに同じように受け取り手に受け取ってもらうかであるが、そこに自己陶酔的感覚を感じられてしまったら、感覚の押し付けになりその時点でアウトだと思っている。

 こうやって考えると、中国語の自己陶酔的表現はいかにも一方的な押し付けという気がするが、中国語の文章の世界では当たり前のように氾濫している。

 中国人にはそれだけ自己陶酔している人が多いのか、或いは礼儀的な意味で脚色することが文化なのか、今の時点ではその理由は分からないが中国語の華美な形容詞にはいつもうんざりしている。

ダジャレは何故面白いのか

 「ダジャレは何故面白いのか?

 こんな命題に対して一生懸命に説明しようとして書かれた論文がラジオで紹介されていた。

 和歌など掛詞(かけことば)などは笑えないのに、ダジャレは何故笑えるのかなどいろいろ検証してるようだったが、番組の中ではどうもあまり納得するような結論に達しなかったようである。

 そこで私もおせっかいにもこのくだらない命題について自分なりに考えてみた。(笑)

 まあダジャレが面白いかどうかまで疑ってしまうと、話が始まらないので、一応面白いものとの前提で考えてみる。

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 思いつく限りの多くのダジャレを分析してみると、ダジャレはどうやら基本的に「A+B」という文章の構造を持っているようなことに気が付いた。

 さらに分析すると、このA+Bの文は文章として成立するのにもかかわらず、AとBに意味の上で共通項が成立するので、ダジャレとして成立しおかしさを感じるという気がするのである。

 例えば「布団がふっとんだ」は「布団が」と「ふっとんだ」という言葉に分けることが出来、この「布団」と「ふっとんだ」が発音が似ているにも関わらず、「布団が吹っ飛ぶ」という言葉の意味が通じるところに面白さがあるような気がする。

 同様に「ドイツ人はどいつだ?」も言うまでもなく、「ドイツ」と「どいつ(どの人)」の音が重なっているにも関わらず、ドイツ人はどの人だという意味で言葉が成立するので、ダジャレとして扱われるのではないかと思われる。

 また少しひねったところでは「猫はここにはいみゃぁよ」などと言う文も、「猫」と「みゃあ」は同じものではないが、「みゃあ」が猫の鳴き声であることは人々の共通認識としてあるので、「猫はここにいないよ」を「いみゃあよ」と言い換えたところで一応文として成立し、ダジャレとして成立するのではないかと分析してみた。

 そしてこのこじつけが強引なものが親父ギャグとして馬鹿にされていると整理される気がするのである。

 さて、こうやってダジャレを分析したところで、この法則で中国語でダジャレを作ってみようと考えたが、実はこれが中々難しい。

 とりあえず、「快給我一塊!」(早く一元くれ)

と言う言葉を作ってみたが、音は重なるもののどうも面白いものになってくれない。
音は重なり文として成立するのにあまり笑えないのである。

 どうして日本語はあんなにダジャレが作りやすいのに中国語は難しいのか?

 まあそれを考えて日本語と中国語をいろいろ比べてみたが、どうやら中国語がどうのこうのというより日本語が特殊であるのだというような気がしてきたのである。

 例えば一般的に日本語のダジャレの作りやすさの理由の一つに音素の数の少なさが挙げられ、さらに音訓読みなど同じ漢字に対して複数の読み方が存在することが挙げられる。

 さらにそこへ英語を代表とする多くの外来語なども混在しており、これらにより一つの意味に対して非常に多くの異音語、或いは一つの発音に対して非常に多くの異義語が発生しやすいという日本語独特の言語環境が生まれている。

 このような言語環境の中では、文として成立させながらも音や意味で共通項を持った言葉を探しやすく、ダジャレを成立させやすいのである。

 これに対して中国語も同音異義語や同義異音語もそれなりにあるが、日本語程こじつけやすい物ではなく、掛詞程度の物までは成立するがダジャレとして笑えるようなものにはなりにくいような気がする。

 或いは中国語は同義語の中で言葉の選択肢が少なく、シンプルな言語である面もあるのかもしれない。

 まあ、もっと中国語を極めれば中国語でも面白いダジャレが言えるようになるかもしれないが、まだまだ時間がかかりそうである。

嘘くさい文章

中国に来てからよく中国人の友達の履歴書など日本語チェックを頼まれる。

 その場合、意味の通じにくいところだけ説明して修正してあげるが、本人が書いた大筋は崩さず、ぎこちなさを残したままの文章で本人に返してやる。

 もちろん、こちらは日本人なのでもっと流麗な文章に直してやることも可能だが、そこまでやってしまうと、ネイティブが書いたようになってしまい嘘くさい文章になってしまうからである。

 もちろん本人にそれに近いだけの能力があれば別だが、残念ながらそこまで実力が無いのに流麗すぎる日本語の履歴書を先方に提出しても、後からがっかりされて恥をかくのは本人なので、あまり下駄を履かせすぎるのはよくないと思っている。

 まあ日本人の人事担当者の中には履歴書くらいは例えマニュアルを真似てでも綺麗な日本語を書いてくるべきだと考える人もいるかも知れないが私は全く逆である。

 私が日本で人事の仕事をやっていたときは、マニュアルそのまま的な文章を書いてくる奴がとっても嫌いで、テクニックばかりに走ってて、本人の中身が見えてこない気がしたのである。

 逆に言葉にぎこちなさがあっても、懸命に書いてきたような文章のほうが好感を持てていた。

 ただ当時の私には採用裁量権までは無かったので、私の意思で実際に採用を決めたりしたことは無かったが、上司の判断とはそんなに違わなかったような気がしている。

 そういえば先日某タレントが、部屋の大家でもあった大御所の女優に家賃滞納の詫びの手紙を送ったが、女優側が「自分の中から出てきた言葉というより、人に書けって言われたから書いたような手紙が来ました。」と反応したことがニュースになっていた。

 やはり型通りの綺麗な文章というのは、人の心に届かないということのようで、必要なのは言葉や型ではなく、伝えたいと思う本人の気持ちの様だ。

 もちろんビジネス文章と手紙の文章では、多少事情が違うと思うが、読むのが人である限り、型どおりの嘘くさい文章より、本人の心が現われているぎこちない文章のほうが読む人にとって気持ち良いものだと思っている。