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誕生日を祝う意味

 今日はある友人の誕生日である。
 その友人は物理的にそばにいる人間ではないので、おめでとうのメッセージだけ送った。

 若い頃はともかく歳を経てくると、誕生日を祝われることを遠慮する人もいるが、やはり誕生日を祝うということは大事な意味があり、祝うだけの価値があるのだと思う。

写真はイメージ

 それは「生まれてきておめでとう」という意味より、今年も「無事誕生日を迎えられてよかったね、また来年も無事誕生日を迎えられるようにまた1年頑張りましょう」という意味があるからである。

 例えばその友人も、決して体は強くなく幾つかの持病的なものを抱えていることを聴かされており、まあすぐに命がどうのこうのではないものの、常に健康問題には悩まされている。
 またつい10日ほど前に友人の祖母が亡くなったということで、相当気分が落ちこんだ状態のようだ。

 さらに、飼っている犬も老犬でかなり弱ってきているとのことで、もうそう長くはないだろうと言われており、これも気持ちを悩まされている要因となっている。

 このように命がある時は当たり前のように感じてしまう存在も、やがてはいずれ去り行くものと考えれば、無事誕生日を迎えられたことは、貴重な祝うべきことなのような気がする。

 私自身の周囲でも、同級生など同世代の人間がこれまでの人生の中で何人か亡くなっており、私が無事に今生き残れているのは、幸運だと感じている。

 また、恐らく自分の人生の折り返し地点は過ぎていると考えれば、自分の残りの人生とてかなり限られたものであるわけで、その1年1年が無事でいられるかどうかは神様のみぞ知るところである。
 そういった存在の当たり前さが当たり前ではないと気づけば、やはり誕生日は祝う意味があるのだと思う。

 誕生日おめでとう!


 

日本の国歌に「故郷(ふるさと)」を加えたらどうか

日本の法律では国歌として「君が代」が定められている。

まあこの「君が代」は日の丸とともに国旗・国歌の論争のもとになっている。

この「日の丸」「君が代」は長らく国旗国歌とされてきたが、実は法律として定められたのは1999年になってからで、それまでは慣習的に使われてきただけであった。

この法律ができてから、公立学校の入学卒業式では起立斉唱が義務のように言われるようになり、またそれに違反した教師が処罰され、それを不服とした教師が教育委員会を訴えるなど何かと社会問題化している。

個人的にはこの国旗国歌の制定については消極的には同意するものの、公立学校とて国が建てた学校ではないし、憲法が保障する思想の自由などから考えれば入学式や卒業式における斉唱や掲揚は強制されるものではないものと思っている。

起立斉唱を参加者に求めるのは、どう見ても権威主義的な軍隊教育のように見え、多様な人間が生きる現代社会での教育にはそぐわないと思えるからである。

ただ、今回はこの是非についてはとりあえず横へ置いておいて、日本の国歌というものについて考えたい。

まあそもそも国歌が必要なのかという議論も本来はしなくてはならないが、一応国家体裁として必要なんだという前提で、考えてみたい。
さて、現在国歌となっている「君が代」について、そもそも一体どのくらいの日本人が歌詞の意味を理解して歌っているのだろうか?ということに疑問を感じている。

正直言って、私もよくわかっていない。

一応日本語だから言葉の一つ一つの単語の意味は分かるが、全体として何を歌っているのか理解していないのである。

戦時中に、天皇の歌として扱われたこともあったようだが、どうやらそれも違うらしく、誰が何を思って詠んだ歌なのかは現代でもはっきりしない。
一説には平安時代の恋の歌だと解釈する説もあるが、それとて定まった説ではない。

つまり、われわれ日本人は歌詞の意味もはっきり分かっていない歌を、たぶん国のことを表した歌だろうと咀嚼せず適当に飲み込んで歌っているだけなのである。

このように「君が代」は国歌として法律で定めた割には随分根拠も内容のあやふやな歌であり、むしろ国体復古を目論んだ右翼系の「王政復古」の意図で法律定義したのが結局正解のような気がしてならない状況である。

故にそんなあやふやな「君が代」は、例えみんなが歌えたとしてもどれだけ日本人にとって意味のある存在かは不明であり、国歌として適当なのか疑問を持ってしまう。

これらのことから実は個人的には「君が代」より、「故郷(ふるさと)」のほうが現代の国歌にふさわしいと思っている。

この「故郷」はそもそも大正時代に長野出身の高野辰之氏の作詞、鳥取出身の岡野貞一氏の作曲によって作られた学校唱歌である。
唱歌であるが故に、誰にとっても歌いやすく、心に残りやすい歌となっており、実際多くの人に歌われている。

まあ歌詞については現代となっては多少古い言い回しにはなっているが、何を意味しているかは理解できるし、多くの人の心に通じるものがある点においては君が代の比ではないだろうに思うのである。

そして、心に染み入ってるからこそ、ふとした瞬間に不意に口をついて出る。

例えば戦時中に特攻へ出撃していったパイロットが機上で歌っていたという話もあり、日本人が共通して心の中に持っている歌は結局「君が代」ではなく、「故郷」ではないのかと思うのである。

故に国家を強制されない意味の国歌として「故郷」を強く推薦したいと思う。

さらにこの歌は決して国を限定しているわけではないので世界の人にも自由に歌ってほしいし、それぞれの「故郷」のイメージは違えど、故郷への思いは通じるものがあるのではないかと思っている。

まあ今の「君が代」を退かせたい意図があるわけではないので、法律定義としては並列でも良いが、国際スポーツ大会や卒業式はこちらを採用できるよう国歌に加えてほしいという気がするのである。

ダジャレは何故面白いのか

 「ダジャレは何故面白いのか?

 こんな命題に対して一生懸命に説明しようとして書かれた論文がラジオで紹介されていた。

 和歌など掛詞(かけことば)などは笑えないのに、ダジャレは何故笑えるのかなどいろいろ検証してるようだったが、番組の中ではどうもあまり納得するような結論に達しなかったようである。

 そこで私もおせっかいにもこのくだらない命題について自分なりに考えてみた。(笑)

 まあダジャレが面白いかどうかまで疑ってしまうと、話が始まらないので、一応面白いものとの前提で考えてみる。

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 思いつく限りの多くのダジャレを分析してみると、ダジャレはどうやら基本的に「A+B」という文章の構造を持っているようなことに気が付いた。

 さらに分析すると、このA+Bの文は文章として成立するのにもかかわらず、AとBに意味の上で共通項が成立するので、ダジャレとして成立しおかしさを感じるという気がするのである。

 例えば「布団がふっとんだ」は「布団が」と「ふっとんだ」という言葉に分けることが出来、この「布団」と「ふっとんだ」が発音が似ているにも関わらず、「布団が吹っ飛ぶ」という言葉の意味が通じるところに面白さがあるような気がする。

 同様に「ドイツ人はどいつだ?」も言うまでもなく、「ドイツ」と「どいつ(どの人)」の音が重なっているにも関わらず、ドイツ人はどの人だという意味で言葉が成立するので、ダジャレとして扱われるのではないかと思われる。

 また少しひねったところでは「猫はここにはいみゃぁよ」などと言う文も、「猫」と「みゃあ」は同じものではないが、「みゃあ」が猫の鳴き声であることは人々の共通認識としてあるので、「猫はここにいないよ」を「いみゃあよ」と言い換えたところで一応文として成立し、ダジャレとして成立するのではないかと分析してみた。

 そしてこのこじつけが強引なものが親父ギャグとして馬鹿にされていると整理される気がするのである。

 さて、こうやってダジャレを分析したところで、この法則で中国語でダジャレを作ってみようと考えたが、実はこれが中々難しい。

 とりあえず、「快給我一塊!」(早く一元くれ)

と言う言葉を作ってみたが、音は重なるもののどうも面白いものになってくれない。
音は重なり文として成立するのにあまり笑えないのである。

 どうして日本語はあんなにダジャレが作りやすいのに中国語は難しいのか?

 まあそれを考えて日本語と中国語をいろいろ比べてみたが、どうやら中国語がどうのこうのというより日本語が特殊であるのだというような気がしてきたのである。

 例えば一般的に日本語のダジャレの作りやすさの理由の一つに音素の数の少なさが挙げられ、さらに音訓読みなど同じ漢字に対して複数の読み方が存在することが挙げられる。

 さらにそこへ英語を代表とする多くの外来語なども混在しており、これらにより一つの意味に対して非常に多くの異音語、或いは一つの発音に対して非常に多くの異義語が発生しやすいという日本語独特の言語環境が生まれている。

 このような言語環境の中では、文として成立させながらも音や意味で共通項を持った言葉を探しやすく、ダジャレを成立させやすいのである。

 これに対して中国語も同音異義語や同義異音語もそれなりにあるが、日本語程こじつけやすい物ではなく、掛詞程度の物までは成立するがダジャレとして笑えるようなものにはなりにくいような気がする。

 或いは中国語は同義語の中で言葉の選択肢が少なく、シンプルな言語である面もあるのかもしれない。

 まあ、もっと中国語を極めれば中国語でも面白いダジャレが言えるようになるかもしれないが、まだまだ時間がかかりそうである。