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晴れ男の本領発揮

 我ながら凄いなと思うのだが、先日までの天気予報では全滅だった私の台湾旅行中の天気だが、今のところ見事に持っている。

朝の台北市内

朝の台北市内

 多少パラツキ加減の時間はあったが、天気予報から言えば格段の差である。

 振り返れば旅行中に大雨に降られた記憶はほとんどない。

 逆に行きたくない用事の日は逆に雨が来たり台風が来たり難を避けられる。

 つまり以前に書いたと思うが、正確に言うと晴れのではなく天気好運人間なのである。

 この天候に関する強運っぷりは今後も大事にしたいものである。

勇気を与えてくれる「運命」

 以前、テレビで音楽評論家だか誰かがベートーベンの曲は勇気を与えてくれると言っていたのを思い出した。その中でもやはり「運命」が最高だと。
 あらゆるクラシック曲の代名詞ともいえる、ベートーベンの交響曲第5番だが、あまりにも一般人も含めてポピュラーな曲となっているため、ある意味マイナーであることを誇りとしているインテリなクラシック通には少々人気がない面もある。

 まあそれはそれだけこの曲が人々の印象に残る曲であることの裏返しであり、多くの人に受け入れられる何かをもっているということであろう。

 とはいえ冒頭のジャジャジャジャーンがあまりにも有名で、それ続く疾走するような第1楽章の旋律もかなり知れわたっているはずだが、そのあとの第2楽章以降はどのくらい聞かれているのだろうか?

 「運命」は全曲を聴き通すとおよそ30分くらいかかるが、この曲の長さがクラシック音楽を多くの人々がクラッシックに馴染まなくさせている理由の一つでもある。

 つまり現代の生活の中ではそんなに長く音楽をじっくり聞く時間が取れないのである。
 故に5分程度で聴き通すことのできる第1楽章だけであれば、広く市民に浸透することが可能だったわけである。

 でもこの曲に限らないがクラシックでもポップスでも音楽はやはり最初から最後まで聴き通すことが基本で、この曲も実はじっくり通して聴くことができれば第一楽章以上にもっと格好いい面が見えてくるし一曲を聴き通すことに意味があるとわかってくる。

写真はイメージ

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 この曲は多くの評論家が評するように苦悩の暗から喜び明へ走り抜ける楽曲構成が非常に気持ちよく、未来に対して明るい希望を与えてくれるところに最大の醍醐味がある。

 つまり前へ進むこと勇気を与えてくれる曲構成になっている。

 多くのポピュラー曲がそうであるように、クラシック音楽では暗なら暗、明なら明と一つの雰囲気で曲が包まれているわけではなく、途中で次々に曲調が変化していくところに決定的な違いがあり、それをうまく導ける音楽を構成しているというところにこの作曲家の凄さがある。

 故に例えばモヤモヤした状態でこの曲を聴きはじめると、冒頭のジャジャジャジャーンという音楽動機でまず心が揺さぶられ、その後の不安定かつ圧迫されるようなメロディとリズムによって心理学的用語でいう同質効果で、実は心が安定し始める。

 そしてそのまま緩徐楽章である2楽章で心の平静を取り戻し、3楽章でそろそろと再稼働をはじめ、4楽章の歓喜の音楽の希望へとつながる。

 実はこういった雰囲気運び、心の導きのうまさがこの曲の価値を決定づけている。

 故に聴き終ったあとに気持ちがスッと晴れ元気になれ、そういった面でこの曲は人類に勇気を与える最高の名曲であると評されているのであろうと思う。

 普段の生活の中で、思い悩みイライラする心のモヤモヤから脱出したいときはぜひ恥ずかしがらずこの曲を聴くことをお勧めしたい。勇気を与えられ心の健康を取り戻すことができると思う。

ぜひ「運命」を信じてみてください。^^b

カンパニーの語源

 昨年の話になるが、久米宏さんのラジオ番組で「カンパニー(company)=会社」の語源の話をしていた。

 それによると、カンパニーの語源というのは「com=一緒」と「pan=食べるパン」という言葉が合わさったもので、パンを食べるためのお金を一緒に稼ぐための組織が「カンパニー」ということになるらしい。

 つまり、会社で働く者はある意味運命共同体の意味を持ち、一緒でなければ「パン」をお互い食べられないという意味を含んでいる。

写真はイメージ

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 実はコンパニオンという言葉も語源が一緒らしいが、何故コンパニオンという言葉が現在のような接客業の女性を指すようになったのかはよくわからないがやはりそういった「食べる」ための組織を意味しているという。

 こういった意味から考えると、中国の会社のように一人のラオパンがふんぞり返って従業員をこき使うよう組織形態は、会社とは言えてもおよそカンパニーとは言えないようだ。あまりにも収入の格差と権限の差が大きすぎるからだ。

 つまり近代的なカンパニーとは、社長からヒラまで、立場や責任の重さ、賃金の額に差はあっても、それはあくまでもロールプレイング(役割演技)として相対的なものであり、中国のような絶対的な権力の差ではなく、カンパニーとしての運命共同体的意味は変わらないというものである。
 そういった意味で、近代的なカンパニーにおいて資本家と労働者は相対的な意味でしかないということにもなる。

 ちなみに「会社」という日本語は単なる人の集まった組織という意味が本来の語源のようで、必ずしも経済単位としての企業を指すものではなかったらしい。

 さて、こういったカンパニーは「パンを食べるため」の組織であるからして、お互いにパンを食べるという同じ意識をもっているのが普通で、そこに同じ意識を持っていない人間が紛れ込めば、カンパニーがカンパニーとして機能しないのは自明の理であり、パンは食べられなくなるのが人の世の常である。

写真はイメージ

 明日のパンを食べるためにカンパニーとして仕事をする。カンパニーの誰かがサボったら明日からパンが食べられなくなる。

 つまりは死んでしまう。

  当たり前のことなのに実は理解していない人がいることに最近驚かされる。

人気者「鳩山さん」の巡り合わせの強さ

昨日の大相撲の表彰式に登場して拍手喝采を浴びた鳩山さん、選挙の圧勝から国連の演説まで今や日本中の注目の的で、今度はオリンピック招致演説にまで借り出されるという凄い人気者になった。

 政治家がここまで人気者になるというのが果たしてよいのかと意見の分かれるところだが、まあ人気のない政治家よりはよっぽどましである。この人気ぶりは小泉元首相を思い出す。言葉の歯切れのよさと内容の分かりやすさ、それと懐の深さが人気の秘密であろう。

今年の流れを振り返ってみると、今年の初めの時点で、民主党の党首は小沢さんであった。

もし西松建設疑惑が発生してないなければ、民主党は小沢さんが党首のまま衆議院選挙に臨んでいたはずで、恐らくそれでも民主党が選挙に勝ったであろうと想像されるが、その場合そのまま「小沢総理」が登場していたはずである。

 どのくらい民主党が勝利していたかにもよるが、まあ本人には悪いが「小沢総理」であったなら今回のような国民的人気が出ていたとは考えがたい。
 国連の演説にしても同じように出席しても台詞が言えたかどうか分からない。そのくらいキャラクターが違う。

 民主党の党首選挙で争った岡田現外相も然りで、彼が党首選挙に勝っていたら、やはりまた違ったタイプの首相になっていただろう。

そうやって考えると、鳩山さんがこうやって日本の首相になって世界で一目おかれる存在になっている現状は、何か不思議な因縁めいたようなものにも見える。

 予め決まっていたこととは言え、首相に就任した直後に国連などの重要会議が巡ってきて、そこで存在感を示せる場があったというのは彼の持っている運命のがそうさせているようにも思える。もちろん、自民党の歴代の首相にも同じようなチャンスがあったのかもしれないが、それを生かせた人物は思い当たらない。そうするとこれはやはり彼の実力ということになるのか?

 こうやって彼の今の運命の強さを考えていくと今度借り出されるオリンピックも、彼の言葉で「東京」へ引き寄せてしまうような気がしてならない。そんな期待を抱かせる彼の今の存在感である。