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不適切SNS投稿事件はアルバイト頼みビジネスの必然

 日本でアルバイト店員の不適切な画像などのSNSへの投稿によって、企業幹部が謝罪を迫られるという事態が相次いでいる。
 企業側では民事訴訟など、法的措置を辞さない姿勢を示しているが、それはそれでどうなのだろうかという気がしている。

もちろん再発抑止という意味では、損害賠償の請求は意味があるのかもしれないが、これらの不適切投稿は、企業側の教育不足によるところの責任も大きいのではないかと思われるからである。

 そもそも、例えば旧来の寿司店であれば、職人に育て上げるまで10年程度かかると言われ、その間には寿司の握り方などの技術のほかに、社会人としての振る舞い方や世の中の仕組みなど、人間性の教育も親方から指導を受け、それらを経て一人前の寿司職人としてデビューするのである。

それに対して大手すしチェーンなどでは安価なアルバイトに頼るというビジネススタイルを選択している。

調理など大方の作業を機械化して、接客やネタ乗せなどごく簡単な部分な作業だけを人間が担うだけで料理を提供できるシステムとなっている。
これらのなかで、人間が任される作業はほんのわずかだけで、そこに客の目を感じる瞬間もなければ、自分がお客の満足度の重要な部分を担っているという意識も得難い。
 そんな役割しか担わされず、賃金も安い人間に、企業全体のイメージの一部を担っているという意識を持たせるのはとても無理なのである。

 そんな責任感の希薄なアルバイトたちが、お客に提供しない食材を使って遊んでSNSに投稿したところで、企業全体のイメージダウンまで発想が及ばないのは無理もないという気がする。

 またコンビニとて、販売員はマニュアル上の業務をこなしているだけで、社員教育と言えば、販売や品出しの研修を数日間実施しただけで、業務がスタートしてしまう。
 その短期間の間では、社会人としての自覚など教育されようもない。

 これが普通の大手企業の社員であれば、大よそ1年くらいは指導員がついて、きっちりと業務及び社員としての振る舞い方などを教わる時間が与えられるし、一人前の社会人として成長するまで育ててくれるのが普通である。

 このような状況を考えると、一連の不正投稿事件は、流動性の高くて責任意識の低いアルバイト頼みのビジネス戦略の悪い面が出たとも言え、企業としてはある意味自業自得な面もあると言える。
 在野の教育が行き届いていない人材を性善説でアルバイトとして使い、コストを抑えてきた長年の日本のビジネススタイルが、どうやら綻びてきたのが一連の騒動だという気がするのである。

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会社の内側に向かって仕事をする上司

 上海に来る前に読んだマンガの課長島耕作の中で、今も印象に残っている言葉がある。

 主人公がアメリカ滞在中の時の話で、その時の上司が出世競争にばかりに気を取られ幹部受けの良い仕事ばかりに熱心で、大して業績に結び付かないことに一生懸命取り組んでいる人を称して「この人は会社の内側に向かって仕事をしている」と表現した言葉である。

 つまり出世競争のために、実質的な中身の無い実績作りに懸命で、ロクに大した企画も無いのに居場所確保のために「やったフリ」のポーズをとっていると判断されたようである。

 まあこういう人は傍から見ると酷い上司だが、実は日本の社会はこういう人が多いと言われており、先日日本のラジオ放送で聞いた話によれば、日本の企業は現場は優秀だが大企業で出世する人ほどロクでもない人の集まりになるとも言われ、その結果、大会社の経営陣ほど、使えない人材が多くそれが企業の停滞を生む原因になり、現在の日本経済の停滞になっていると言っていた。

 つまり、会社の内側に向かって仕事をしてきた結果で出世した人が多いため、それが結局は会社の発展の阻害となっていることのようである。

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 まあ普段あまりそんなエライ人たちと接する機会も少ないので、実際どれだけ使えないかは分からないが、確かに以前いた会社でも何故この人が管理職になれたのかという疑問を感じるケースも少なくなかったような気がするし、思い出してみればそういう人は上司に対するヨイショがうまかったような気がする。

 それにヨイショするほうもする方なら、される方もやはり同じ穴のムジナでヨイショに弱く、結果そういった内側に向かって仕事をする人の連鎖が延々と繋がっていくことのようである。

 もちろん企業はビジネス社会と言っても、結局は人の社会なので、コミュニケーションの一つとしてのヨイショの存在も悪いわけじゃないが、会社の内側にばかり向かって仕事をする人は、きちんと外部の顧客と向き合って仕事をしている側から見ると厄介な存在である。

 実績が上がらないだけならまだしも、明らかに効果の上がらない仕事にお金と労力をつぎ込んで、やったフリの実績とするのはお金も時間も無駄なのであり、マイナスの存在であるはずなのである。

 実際冒頭の課長島耕作では、主人公が上司の仕事により住民から苦情が出たため、それをフォローして実績の一部を取り消して尻拭いをしているシーンがあったのである。

 しかし、そのやったフリを見抜ける上司や経営者がいないと、結局はそれが実績の如く取り上げられ出世の材料にされてしまう面があり、マイナスなのに功労者として評価されるという不思議な現象が起きる。

 こういった状況は一方で周囲の社員の不満や外部からの不評を招くことになりかねない。

 会社の内側に向かって仕事をする人を見抜けなければ、結局は色んな意味で会社が食いつぶされてしまうことになりかねないので、「やったフリ」を積極的にアピールする人には注意する必要がある。

どう転んでもナベツネさんの負け

 例の巨人軍内紛問題で巨人軍と読売新聞社が清武さんを訴えたというニュースが飛び込んできた。

 まあこの内紛劇、今後清武さんの側からも訴訟を起こすことになっているようなので訴訟合戦となるのは間違いなく、いよいよ闘争は法廷の場に持ち込まれることになるようだ。

 ただまあ、今回それぞれの訴訟内容が微妙にずれているので、それぞれ2つの裁判で別の結論が出る可能性もあり、さらに裁判上の結論というのは手続き論の問題であるので、勝ったほうに正義があるのかと言えば必ずしもそうはなっていないのが日本の裁判のような気がする。

 特に事の発端となった巨人軍GMの人事権限について言えば、裁判の結論がどっちに転ぼうともナベツネさんの負けであることは明確である。

 何故ならばGM制度というのチームの編成権の責任を一手に負うのがGM制度であり、そうでないならばGMではないからである。

 つまり一般的なGM制度ではGMが決めた人事はオーナーといえども覆せず、もし覆したければGM自身を換えるというのがGM制度の基本であり、その観点から言えば清武氏の主張が正しいことになる。

 逆にもし、巨人軍側が社内規則を盾にGMという役職にそこまでの権限を与えていないとして今回のようにナベツネさんや本社の介入をOKとする解釈をするならば、ナベツネさんの側は何も本来のGM制度を理解していないことを露呈することになる。

 あるいは名前だけ恰好だけ言葉だけのGM制度をつくったことになり、本質的には何も変える気が無く単なる見栄を張るためだけの形だけのGM制度を作ったという志の低さを露呈することになる。

 故に今回の裁判で巨人軍の中でのGM制度の位置づけという論点になった場合、具体的にGM権限の記載が規則にないという時点でナベツネさん側に理があるという結論が出る可能性があるが、これは同時に逆にその時点でそんな意味のない役職をGMと呼んで立てていたことが確定することを意味し、ナベツネさん側の自己矛盾を露呈するのである。

 よってこの論点での争いは裁判でどっちの結論が出ようとも、争った時点でナベツネさん側は愚かさを露呈することになり負けは決まっているのである。

 ただまあ繰り返しになるが日本の裁判というのは理屈の中身ではなく単なる法律上の手続き論の中での争いになる場合が多く、名誉棄損とか、実は本来は本質から外れた理屈が手続きの上で勝ってしまう可能性もあり、外部から見ればおかしな結論がでる可能性もある。

カンパニーの語源

 昨年の話になるが、久米宏さんのラジオ番組で「カンパニー(company)=会社」の語源の話をしていた。

 それによると、カンパニーの語源というのは「com=一緒」と「pan=食べるパン」という言葉が合わさったもので、パンを食べるためのお金を一緒に稼ぐための組織が「カンパニー」ということになるらしい。

 つまり、会社で働く者はある意味運命共同体の意味を持ち、一緒でなければ「パン」をお互い食べられないという意味を含んでいる。

写真はイメージ

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 実はコンパニオンという言葉も語源が一緒らしいが、何故コンパニオンという言葉が現在のような接客業の女性を指すようになったのかはよくわからないがやはりそういった「食べる」ための組織を意味しているという。

 こういった意味から考えると、中国の会社のように一人のラオパンがふんぞり返って従業員をこき使うよう組織形態は、会社とは言えてもおよそカンパニーとは言えないようだ。あまりにも収入の格差と権限の差が大きすぎるからだ。

 つまり近代的なカンパニーとは、社長からヒラまで、立場や責任の重さ、賃金の額に差はあっても、それはあくまでもロールプレイング(役割演技)として相対的なものであり、中国のような絶対的な権力の差ではなく、カンパニーとしての運命共同体的意味は変わらないというものである。
 そういった意味で、近代的なカンパニーにおいて資本家と労働者は相対的な意味でしかないということにもなる。

 ちなみに「会社」という日本語は単なる人の集まった組織という意味が本来の語源のようで、必ずしも経済単位としての企業を指すものではなかったらしい。

 さて、こういったカンパニーは「パンを食べるため」の組織であるからして、お互いにパンを食べるという同じ意識をもっているのが普通で、そこに同じ意識を持っていない人間が紛れ込めば、カンパニーがカンパニーとして機能しないのは自明の理であり、パンは食べられなくなるのが人の世の常である。

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 明日のパンを食べるためにカンパニーとして仕事をする。カンパニーの誰かがサボったら明日からパンが食べられなくなる。

 つまりは死んでしまう。

  当たり前のことなのに実は理解していない人がいることに最近驚かされる。

会社が合併するという大変さ

日本でゆうパックとペリカン便の統合で配達に遅延が生じ、話題になっている。
会社の合併というのは上層部が机上で考えるほど現場にとっては容易なことではない。

しかも今までの業務を一旦止めてリセットできるならまだしも、今までの業務を止めずにスムーズに移行するなどというのは、あれだけの規模の企業同士では至難の業である。

画像はイメージ

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 以前金融機関の合併の大変さが報道されていたが、金融機関の場合はデータ処理やシステムなどのいわば内部的な処理が大半であり、合併といっても大半はシステム会社の仕事となる。

 しかし、今回のように物流企業の合併では、実際にモノが動きが変わり人の動きが変わるのだから、その転換の大変さは金融機関の比ではないはずだ。

 私も日本時代、3社同時合併というのを体験した。

そして3社の給与の体系の統合とシステム構築を任された。
もともと別の体系で動いていた給与を統合し、それを一つのシステムの中に反映させる。

 別のシステムだった給与計算を、正式な平行ラン無しで一発統合開通させるという無謀なものであった。

 もちろん数字の間違えは許されない。

 3社のうち、一つの会社のシステムをベースにしたものの、合併に伴う制度のすり合わせのための暫定給や職位による多彩な給与体系など処理は複雑を極めた。有給休暇や勤務システムも同時に含まれるのだからたまらない。

 800人もの対象者の計算結果をぴたりと合わせなければならない。

 当然この間も、従来の一社の給与計算もオペレートしつつである。

 これをほぼ半年で概ね一人でやった、というか半年かかった。

 合併を成功させるにはそれくらいの時間がかかる。

 給与計算のプレッシャーは担当したものでなければわからない独特のものだ。

 何故なら従業員一人ひとりの生活がかかっているからだ。

 1円でも間違えればすぐに文句の電話がかかってくる。

 だから今回、お客さんを直接相手にしている現場のプレッシャーもよく分かる。

 上層部の机上の論理でうまくいってても、実際にお客さんを相手にするのは現場だ。

 上がなんと言おうと目の前にいるお客さんが大事である。

 現場の人々は腐らず是非頑張っていただきたい。