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学生の好奇心

 しばらく前のことになるが、ある一介の学生から知り合いを通して「上海のスラム街を見てみたいのですがどこかにありますか?」との問合せがあったことがある。

 私はこの質問を受けて答えに窮してしまった。

 確かに現在の中国の貧困の差は激しく、高級車が信号待ちをしている脇で大八車を引っ張る夫婦がやはり信号待ちをしているといった風景が当たり前のように広がっている街であり、日本人から見たら貧民街ともよべるような古臭いボロボロの家に住んでいる人も決して少なくない。

 そうはいっても、私も中国で働く身であり、もちろん同僚に中国人がいる。彼らがボロボロの家に住んでいることはないと思うが、同じ中国人の住む居住エリアをあそこは貧民街だといって、外国人に指さされたらいい気分はしまい。

 日本人の興味本位の視点で自分達の街の一部を貧民街として見られたら彼らだってとても恥ずかしいように思えるのだ。

 学生からすれば、広く世界を知りたいという好奇心というか、視野を広げるための勉強のつもりでそういう行動をとろうとしたのだと思うが、上海で暮らす私にとって、同僚の中国人が恥ずかしいと感じるかもしれない状況を日本人に対して貧民街として指さすことはやはり心苦しい。

壊された古い住居

壊された古い住居

 そのときの学生の好奇心をつぶすつもりはなかったが、結局きちんと答えてあげることが出来なかった。

ただ「自分の足で歩いて街を見て探してください」とだけ答えたのである。

 やはり、日本人は心のどこかに総中流意識というか、平気で「スラム街をみたい」という言葉を口に出して貧困層を上から見下ろしている視点がどこかにある。確かにそれだけ平均的に豊かな暮らしを得ることが出来ているのが日本という国であるし、中国のような超大金持ちもいないが、どんなに貧乏しても生活保護などの制度が整備されており学校に通えない子供はいないことになっているのがかの国である。

 故にそんな中で育ってしまえば本当の貧困とはいかなるものかを知りたくなる学生の好奇心もわからなくはない。ただその好奇心そのものが実際貧民街で暮らすものにとっては侮辱であろうという気もする。

 何故ならばその好奇心には、自分はその貧民街で暮らすことはないであろうという自信というか優越意識がそこに見え隠れするからである。もし、何かが起きれば明日は我が身かという危機感があればそんな好奇心にはならないであろうに思う。

 まあ今回の学生の好奇心を責めるつもりはないが、社会の姿を学んだり教えたりするというのはなかなか簡単なことではないなと感じてしまう。

貧しさと寂しさを輸入する中国

先日、上海のある日系の牛丼屋に入って思ったことがある。

いかに一人で食事をする中国人が増えたことか。

 中国における食事といえば英語でチャイニーズスタイルといわれるほど、大皿に盛られたおかずを大勢でつつくスタイルが伝統的で一般的な家族の食事スタイルだという認識が私にはあった。

 もちろん中国人だって一人ごとに盛られた欧米スタイルで食事をすることはあるだろうが、それは出稼ぎ労働者であったり、学生だったりして、共同で皿をつつく状況にない時に発生するスタイルであり、それとて食事そのものを一人で食べるというケースはそう多くはない。多くの場合は必ず同僚やクラスメートと食事をするのが普通であったように思える。

 逆に一人で食事をとる場合は、まあお腹を満たせればそれでよいので、中国で言えば饅頭ひとつでもお腹が膨れればそれでよかった。
つまり、一人の食事はそれほど豪華な食事などにはする必要がなく、しかも町の食堂で出される「一人分」の食事にはそれほど豪華な食事も存在しなかった。

 何故なら一人でとる食事は楽しくないし、何を食べてもそれほどおいしくないからである。

だから逆に豪華なもの、美味しいものを食べるときは必ず大勢で出かけるものと決まっていた。

美味しいものを食べるお金はみんなで食べに行くときに使えばいいし、みんなと一緒に美味しいものを食べることが楽しみだったのである。

ところがである。

日本やアメリカの牛丼チェーンやファーストフードチェーンの進出によって、中国人は安くて美味しくそして一人で食べられるものを手にしてしまった。
大勢で食べなくても安上がりかつ美味しく、一人で食べていても恥ずかしくない外食産業が中国人の食生活の中に入り込んできたのである。

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 これによって何が起きたか?

 従来美味しいものを食べるには大勢で店に入るしかなかったものが、数人あるいは一人で店に入っても十分美味しいものがそこそこの値段で手に入るようになってしまったのである。

 もちろんこれらの店に大勢で入店をしてもよいのだが、こういった類の店は5人10人といった大人数の受け入れにはあまり向いておらず、逆に拒絶気味の構造となっていて、自ずと少人数での入店に分割されていく。

 元々集団の人間の結びつきというのは時には拘束されて煩わしいという厄介な面もあるので、少人数でも十分美味しい食事が取れるとなれば、人々の食生活行動単位は徐々に細分化され少人数化していくのが自然の成り行きなのである。
 
 ところが、この食生活の細分化は、単に食事人数の少人数化だけでなく元々食事の時間で結び付けられていた人間関係の距離を少しずつ遠ざける効果を持ち始め、それは同時に人の心の寂しさを生んでしまっているように思えるのである。

 つまり「おしいいものを食べに行く」のその一言が人と人を近づける口実になりづらくなってきたのが今の社会なのだ。

 このように外食産業の進行が、人が人と食事をするという豊かな時間から、食事で結び付けられてきた人と人の結びつきを切り離し、一人での食事の時間の増加へという貧しい状況へと貶め、心の寂しさをも生んでいる。

 つまり中国は外食産業とともに、食事の貧しさと寂しさをも輸入してしまった。最近私はそう感じざるを得ないのである。

社会の見方

 世の中に色んな考え方、信条の人がいるのは当然のことだが、思ったより社会の動きを見極められない人が多いということに気付かされる。

 まあ、自分がそれほど抜き出ているとは思わないが、どうやら私は小さい頃から他人よりは少しばかり社会が見えているらしい。インフルエンザや民主党が世間を賑あわせているときも結構冷静に世の中を見ていた。

 そういえば小学校から「社会」の成績は飛びぬけて良かった。自慢になってしまうが小学校の社会のテストで偏差値80などという結果が出たこともある。社会の教科の成績イコール世間の見方ではないが、まあ社会的なモノの見方は小さい頃から長けていたようだ。

 こんな私であるが故に、社会ウォッチングは常に自然なスタンスで行っており、世の中を見てきた。

 世の中にはきれいごとな建前から、きれいごとでは済まされない本音の社会関係、人間関係があり、人々の職業一つ取っても先日の映画の「おくりびと」ではないが、納棺師や火葬場の火守のような社会を下支えするような、一般的なサラリーマンのような概念の枠にはまらない社会の動きを支える色んな職業の人がいる。

 夜の水商売なども決して日の当たる場所ではないが、社会の必要悪的な要素として世の中に存在する。
 それをきれいごとばかりを言って疎んでもばかりもいられないのが社会というものである。

 また大企業の社長であろうが、派遣切りされた末の浮浪者であろうが、同じ人間として赤ん坊として生まれたはずだが、、、いや生まれるということは一緒でも、親に望まれない子がいたり親が出産と同時に亡くなってしまうケースもあるし、先天性の病気を抱えて一生を過ごす人もいる。そういった様々な環境や事情を抱えた人々が一緒に生きているのが社会であり、現実である。

 しかし、日本の社会に生きていると、そういった社会問題はどちらかというと、偏った平等意識のために蓋をかぶせられ気付かないでいてしまうことが多い。

 しかし中国へ来ると、包み隠さずそこらへんに貧富の差が存在し、頭で分かってはいても直接目の当たりにするとちょっとドキッとする。
 ここ中国では否が応でも社会の底辺の広さを感じ取らざるを得ない。

 先日、日本でも平均年収の半分以下の人間の人数を表す貧困率が世界の中でも15.7%と深刻であるとの数字が先日厚生労働省の統計で出ていた。

 しかし困ったことに、この数字を目にしても日本人の多くは自分のこととしてとらえられないでいる気がする。明日は我が身という危機感を感じていない人が多い気がする。

 1億総中流意識などという言葉がかつてあったが、その意識がそうさせるのだろうか?どこか自分だけは安全な場所にいると思いこんでいるようだ。その意識が競争意識を失い国全体の地盤沈下を招いている気がするのである。

 私はたまたま社会の捉え方に敏感であったが、それ以上に日本社会が自身の社会の現実の姿を捉えられないような構造になっていて危機に鈍くなっている。
ここが実は今の日本の深刻な病巣であると思う。