貧しさと寂しさを輸入する中国

先日、上海のある日系の牛丼屋に入って思ったことがある。

いかに一人で食事をする中国人が増えたことか。

 中国における食事といえば英語でチャイニーズスタイルといわれるほど、大皿に盛られたおかずを大勢でつつくスタイルが伝統的で一般的な家族の食事スタイルだという認識が私にはあった。

 もちろん中国人だって一人ごとに盛られた欧米スタイルで食事をすることはあるだろうが、それは出稼ぎ労働者であったり、学生だったりして、共同で皿をつつく状況にない時に発生するスタイルであり、それとて食事そのものを一人で食べるというケースはそう多くはない。多くの場合は必ず同僚やクラスメートと食事をするのが普通であったように思える。

 逆に一人で食事をとる場合は、まあお腹を満たせればそれでよいので、中国で言えば饅頭ひとつでもお腹が膨れればそれでよかった。
つまり、一人の食事はそれほど豪華な食事などにはする必要がなく、しかも町の食堂で出される「一人分」の食事にはそれほど豪華な食事も存在しなかった。

 何故なら一人でとる食事は楽しくないし、何を食べてもそれほどおいしくないからである。

だから逆に豪華なもの、美味しいものを食べるときは必ず大勢で出かけるものと決まっていた。

美味しいものを食べるお金はみんなで食べに行くときに使えばいいし、みんなと一緒に美味しいものを食べることが楽しみだったのである。

ところがである。

日本やアメリカの牛丼チェーンやファーストフードチェーンの進出によって、中国人は安くて美味しくそして一人で食べられるものを手にしてしまった。
大勢で食べなくても安上がりかつ美味しく、一人で食べていても恥ずかしくない外食産業が中国人の食生活の中に入り込んできたのである。

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 これによって何が起きたか?

 従来美味しいものを食べるには大勢で店に入るしかなかったものが、数人あるいは一人で店に入っても十分美味しいものがそこそこの値段で手に入るようになってしまったのである。

 もちろんこれらの店に大勢で入店をしてもよいのだが、こういった類の店は5人10人といった大人数の受け入れにはあまり向いておらず、逆に拒絶気味の構造となっていて、自ずと少人数での入店に分割されていく。

 元々集団の人間の結びつきというのは時には拘束されて煩わしいという厄介な面もあるので、少人数でも十分美味しい食事が取れるとなれば、人々の食生活行動単位は徐々に細分化され少人数化していくのが自然の成り行きなのである。
 
 ところが、この食生活の細分化は、単に食事人数の少人数化だけでなく元々食事の時間で結び付けられていた人間関係の距離を少しずつ遠ざける効果を持ち始め、それは同時に人の心の寂しさを生んでしまっているように思えるのである。

 つまり「おしいいものを食べに行く」のその一言が人と人を近づける口実になりづらくなってきたのが今の社会なのだ。

 このように外食産業の進行が、人が人と食事をするという豊かな時間から、食事で結び付けられてきた人と人の結びつきを切り離し、一人での食事の時間の増加へという貧しい状況へと貶め、心の寂しさをも生んでいる。

 つまり中国は外食産業とともに、食事の貧しさと寂しさをも輸入してしまった。最近私はそう感じざるを得ないのである。



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