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東京ブギウギを再評価する

 先ほど日本のラジオで、笠置シヅ子さんの「東京ブギウギ」がリクエスト曲として流れていた。

  「♪東京ブギウギ、リズムうきうき、心ズキズキワクワク~」のあの歌である。

 まあこの曲は非常に古い曲で、鈴木勝作詞・服部良一作曲の私が生まれる前どころか私の母親が生まれた年に発表された曲で、戦後間もない時代の曲である。

 もちろん私も以前から何度も耳にしたことがあるし、聴いたことがなかったわけじゃなかったが、今回ラジオで流れた放送を聴いて、古いくせに全然色褪せない良い曲だなという印象を改めて持ったのである。

 発表から70年近くもたっているのに歌詞にモダンさが保たれており、明るくノリもいいのである。

 実際、私がわざわざここで取り上げるまでもなく、日本の歴代の主だった歌手はこの歌をアルバムなどのリストに入れており、実は日本人の歌手にとって定番の曲となっている。

 例えば、古くは美空ひばりや雪村いづみ、石川さゆり、山崎ハコ、小林幸子、福山雅治、氷川きよし、そして最近ではAKB48など、幅広く歌われており、こちらが想像していたより遥かに多くの歌手たちが取り上げている。

 さらにサッカーのFC東京の応援歌としても使われており、東京ブギウギは私の認識を反省しなければならないほどに東京に染みついている曲となっている。

 ところで、このブギウギ(boogie-woogie)というのは、調べたところブギというのがジャズのリズムの一種で、シャッフルのリズムを繰り返す演奏スタイルとなっていて、それに合わせて踊る踊りをブギウギというようである。
 最もこのブギウギの踊り方に対して、本来のジャズではなくロックンロールの音楽を使われるケースも多く、ダンス競技ではロックンロールの曲を使って激しく踊ることが好まれるため、言葉として厳密な定義とはなっていないようである。

 まあ、そういった音楽の歴史はともかく、「東京ブギウギ」は東京の定番曲といっていい気がするのに意外と活躍の場が少ないという気がするのである。

浅草の仲見世

浅草の仲見世

 そこで、考えるのは2020年の東京オリンピック・パラリンピックのことである。

 以前にもオリンピックにふさわしい曲としてSMAPの「世界に一つだけの花」とか喜納昌吉さんの「花~すべての人の心に花を~」などを取り上げたが、これらはまあ世界の祭典向けという面では遜色ないものの、東京というローカル色は若干不足している。

 じゃあ、東京ローカルの代表曲って何があるかなといろいろ考えてみたが「東京五輪音頭」や「東京音頭」「TOKIO」などそれなりに曲数はあるが、どうも夜のカラオケが似合いそうな曲が多く、あんまりオリンピックにふさわしい明るい曲は少ない気がするのである。

 外部サイト:地名のつく歌

 そういった観点で絞っていくと、この「東京ブギウギ」という曲は、やはり明るさとノリ、浸透度という意味ではピカ一であり、東京を代表するご当地ソングと言っていいのではないかという気がする。
 
 残念ながら昨年行われた「世界に誇る日本の歌!」ベスト100には選ばれていないようだが、この曲がかなり幅広く浸透しているのは間違いないと思うのである。

 まあ、「東京ブギウギ」をオリンピックのテーマソングにしろとまでは言わないが、直前のPRソングへの活用など、この曲の価値を再評価してもっと使ってもいいのではないか、そんな気がした今日のラジオでの再発見である。

D案の朝顔のエンムブレム候補

 昨年大騒ぎになった2020年の東京オリンピック・パラリンピックのエンブレム問題だが、先日ようやく新たな候補作品が4作品が発表され、間もなく正式なロゴが選出される段階になっている。

エンブレム候補作品

エンブレム候補作品(引用元

 まあ私もこのエンブレム問題については何回かブログで触れているので、こういうことを言ってしまうと矛盾があるだが、そもそもエンブレムなどオリンピックにおいて主役でもないので、騒ぎすぎるのもおかしいという気がしている。

 つまり元々はそんなに力を入れて選ぶものでも無いのであって、盗作とかよほど恥ずかしい作品でなければ特に気にする必要はないのである。

 参考までに過去のオリンピックのエンブレムを振り返ってみたが、確かにどれも記憶にはあるが、強烈に印象に残るような名作があるわけでもなく、つまりその程度の存在でしかない。

歴代オリンピックエンブレム

歴代オリンピックエンブレム(引用元

 そういった意味で言えば、まあ今回の候補作品も招致ロゴほどインパクトはなかったものの、どれも無難である印象である。
 それ故に、この候補作品の中からどれが選ばれても恥ずかしいものとはならないはずなので、後はどれかを選ぶだけであり、もうこの問題が長引くのは良くないと感じている。

 それよりは聖火台や神宮球場問題など、解決しなきゃいけない問題が噴出しているのだから、納得いく形でどんどん手際よく進めてほしいのである。

 と、書いてはしまったが、ネットであのように4点の候補作品が並べられてしまうと、やはり私も気になってしまう。
 私が、かの候補作品の中で気に入ったのはD案の「朝顔(あさがお)」モチーフの作品である。

 その理由としては、やはり花がモチーフであることが大きい

 さらに朝顔は江戸文化の象徴でもあり、夏の花の代表格の一つ(俳句としての季語は秋らしいが)でもある。

 故に夏のオリンピックの象徴としては夏に咲く朝顔はとっても似合う印象なのである。

 もともと私は以前からブログで書いているように今回の東京オリンピックには「花」が切っても切り離せない存在であるという印象を持っており、やはりエンブレムにも花を描いてほしいという希望があった。
 そこに、この朝顔モチーフの候補作品が登場したのだから、私個人としてはほかの作品は選択肢としてなくなったのである。

 もちろん日本の代表的な花と言えば桜が一番であり招致ロゴも桜を取り上げていたのだが、今回は夏のオリンピックであり、桜のイメージ自体もの実は明治政府の恣意的な姿である可能性もあるわけで、桜では相応しくないという印象も持ち始めていた矢先であったから、なおのことこの朝顔がしっくり来た。

 また朝顔は品種も豊富でそれぞれが個性豊かで、色とりどりである花であることも、単一種のソメイヨシノよりオリンピックに相応しい花である印象となっている。

 しかも朝顔はその名の通り朝咲く花であり、今回真夏に行われる東京オリンピックでは恐らく日中を避けて早朝に実施される競技もあるはずで、そういった意味でも似合う花と言える。

 また東京周辺の多くの人が恐らく小学校の時に朝顔を育てた経験があるはずで、非常に親しみのある身近な花でもある。

 そういった花だからこそ東京オリンピックに朝顔のデザインが使われるのは意味があるという気がする。

 まあ一部の意見では、朝顔は中国原産だから日本ぽくないのでエンブレムに相応しくないという人もいる。
 確かに中国でも朝顔は「喇叭花」と呼ばれあちらこちらに普遍的に咲いているが、しかし中国ではそれほど特別な存在の花になっているわけではなく、沢山ある花の一つでしかないという気がする。

 それに比べ江戸にとっての朝顔は江戸時代に二度もブームが起きるほど品種改良が盛んだったと言われ、着物や浴衣の柄にも良く取り入れられているほど象徴的な花なのである。
 さらに夏に暑さを凌ぐために簾に朝顔の蔓を這わせ、自然の遮光壁を生み出す知恵は見事であり、古き良き江戸の風景をも作っていた存在なのである。

 こんな江戸文化に深く関わっている朝顔を是非オリンピックでも東京を象徴する花として、エンブレムにもやはり使ってほしいというのが今回の私の強い個人的希望となっている。

ソメイヨシノ桜は明治政府のプロパガンダの名残?

2011年4月上野公園(花見)

2011年4月上野公園(花見)

 東京で開花宣言が行われ、上海でも各地で桜の花が綻びる季節となった。

 この桜の代表格とされているのが日本のソメイヨシノであるが、先日ラジオでちょっとビックリするような知識を聞いて驚いた。
 それはまず日本のソメイヨシノというのは1本の元木から挿し木で増えてきたクローン種でどれもDNA的には全く同じものだというのである。
 これに対して一般の山桜や大島桜などの品種は、人間の各個人のDNAが違うように系統はあっても全てが別の遺伝子を持つ存在とのことである。

 つまり、日本全国にこの季節に咲き誇るソメイヨシノは全て同じ元木のクローンであり、それ故に全国で同じ場所の桜は同じ時期に一斉に咲き一斉に散るという現象が発生し、日本の春の桜の風景となるようだ。

 しかし、ソメイヨシノはこういった独特な品種であるため自然繁殖出来ず、ソメイヨシノであり続けるには永遠に人の手で挿し木を行っていかなければならないという。

 逆に自然繁殖では別の品種と交配するしかないので、似た品種は出来ても同じものにはならないとのこと。

 ソメイヨシノはこんな特殊な品種にも関わらず、全国津々浦々の学校などに植えられて日本を象徴する風景と呼ばれる状況になっている。
 しかしよくよく考えれば南北に長い日本でこういった同一品種が全国に同じように植えられているのはちょっと不自然とも言える。

 実はこういった日本の桜の風景が生まれたのは明治以降の話らしく、それ以前は同じ桜でも山桜系など多様な品種がそれぞれの地域に、それぞれ自生しており江戸時代までは全国一様の桜の風景ではなかったようなのだ。

 それが今のようにソメイヨシノが桜の大半を占めるようになったのは、明治政府が積極的に全国の各学校や公園に植樹したからだと言われる。
 日露戦争の戦勝記念とか、天皇即位とか皇子誕生とか結構国家行事に絡んだ場面で植樹されていったようなのである。

 このあたりの詳しい経緯は調べ切らなかったが、恐らく日本の国民が天皇の臣民とされた明治において、江戸時代から分権的な藩政国家でなく「日本」という中央集権国家のイメージを醸成するために、ソメイヨシノという桜が選ばれたのではないかと考える。

 すなわち、同じ時期に一斉に咲き一斉に散るというイメージを共有させることによって、「日本」という郷土は一体なのだというイメージを固めるのに役立ったのではないかと思われるのである。

 さらに、ソメイヨシノが一つの品種のクローンであることは、天皇の下に等しく仕える臣民であれというようなイメージと共通するような面があり、そういった意味で戦前の政府は積極的にソメイヨシノを全国に展開していったのはないかという気もする。

 逆に言うと、多様性を生み出すようなその他の桜の品種の植樹は望まれなかった訳であり、多様性を排除する状況がソメイヨシノの拡大にあったとも言えるのである。

 このソメイヨシノの拡大の結果、実際例えば「同期の桜」のような軍歌に代表されるように、桜は軍人たちや日本の心のように謳われることになる。
 散り際の潔さや美しさが、桜の咲く土地に生きる日本人の心だと感じ、心を打つというようなイメージになったのである。

 しかしながら、こういったソメイヨシノが拡がった時代の背景を考えると、ソメイヨシノに代表される日本の桜の風景は、戦前の国家プロパガンダと強く結びついた影響の名残ということになり、それ故に意図的に演出された日本のイメージだということもできる。

 昭和になり戦争は終わったが、そういった桜によって意図的に演出された「日本」というイメージは現代にも続いていて、戦後も積極的にソメイヨシノが植樹され、ますます桜による「日本」のイメージ演出が加速する。
 故に戦後生まれの私もそういった「日本」のイメージの中で暮らしてきており、桜は日本のイメージとして生活をし愛着を持ってきたのである。

 しかし、この当たり前のように毎年咲くソメイヨシノの桜の風景が、実は明治政府の富国強兵や軍国主義的なプロパガンダの演出の名残かもしれないと知ると心は結構複雑である。

 もしかすると明治政府が何もしなかったならば、本来の江戸以前から続く多様な桜の風景があったのかも知れず、現代に多くの人が考える「日本」だの「日本人の心」だのと言われる部分も、もっと違うものになっていたかもしれないからである。

 まあソメイヨシノに罪はないが、全国で一斉に同じ花が咲くという風景は考えてみればちょっと異様な光景であり、不自然な演出された風景だということに気づく。

 そしてこの不自然さに気づいてしまうと、どうもソメイヨシノではない桜の風景を取り戻すべきではないかと考えてしまうのであり、明治政府の影響を排除した日本本来の自然な多様な風景を探したいと言う気がするのである。