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日本人と中国人の時制感覚のずれ

 日本人と中国人で物の考え方が圧倒的に違うなというのは時間軸の捉え方のような気がする。

 中国語にはよく過去形がないと言われ、英語のように過ぎ去った動作に対する表現がうまく出来ないと言われる。

 動詞の後に「了」をつければ過去形になるように思われている人もいるが、これは正確でなく「了」は動作の完了を意味する完了形であって、過去形のように使うことはできても正確には過去形ではない。

 何故なら未来のことでも「了」をつけて未来完了形的表現をすることが出来るからである。

 そういった中国人たちの感覚の中にも日本人と同様に「過去」「現在」「未来」というカテゴリはやはり存在し、まあ基本的には意味もほぼ同じようなのだが、実は日本人と中国人ではその言葉の範囲がだいぶ違う気がする。

 中国人にとって過去とは、現在ではない過ぎ去った時間の全てであり、未来とは現在ではない未だ来てないこれからやってくる全ての時間ということのようだ。

 この「現在ではない」というのが中国人の時制感覚というか考え方の基本を捉える上で一つのポイントとなり、つまり現在以外は全て過去か未来であり、現在との関係を特に必要としないのが中国語と中国人の時間感覚であり、現在に直接影響するものは全て「現在」なのである。

写真はイメージ

写真はイメージ

 これに対して日本語においては「過去」というと実は時間軸上のある特定時期を指している場合が多く、同様に「未来」と言えば時間軸上のある特定時期を指している場合が多い。

 何年前とか何年後とか、数字そのものははっきりせず漠然としたものであっても過去や未来という言葉にはある範囲が意識されて存在する。

 そして、日本人にとって現在とその特定の過去や未来の時期との間には「時間」が存在し、その時間の間には「変化が存在する」ことをきちんと意識するのが日本人の感覚で、日本人の場合は「過去から現在」「現在から未来」といった具合に時間の流れを非常に大事にする

 特に過去に発生したことが現在に影響する場合、日本人は現在までの流れがどうなっているかを重要視し必ずしも現在に固執しないが、中国人たちは過去の流れはどうでもよく現在のみに固執するのがおおよその彼らのスタンスである。

 よく中国側から日本に対して歴史問題がふっかけられているが、あれは中国人達が現在において過去の事象を持ち出すことにメリットがあるから持ち出すのであって、過去の問題と言いながら実は現在の利益のための取引材料になっており、中国人そのものは過去にはあまり興味がないのが本質のような気がする。

 日本人にとっては、その過去(例えば戦争中)から現在までの時間の流れを見てもらえば、いかに日本人が過去を反省し真面目に平和に取り組んできた面があるかは理解できるはずだとアピールしたいところなのだが、上述のように途中の流れはどうでも良いのが中国人で、現在でもそのネタが使えるなら使って圧力をかけてくるのが中国人達である。

 未来に対しても同様で、日本人はある未来に向かって動いていることが重要で、未来のある時間まで現在の状況が続くこと(例えば勤務)を前提に、分割払いの約束などをすることができるが、中国では原則未来は信じておらず、信じられるのは現在だけのようで現在確定できる範囲でしか取引しないのが中国人達の習慣である。

 契約時点でどうかというよりも未来のことは未来になったときに判断されてしまう故に、物の取引は現金主義・物々交換が主流でどうなるか分からない未来に対する信用取引はなかなか浸透しない

 こういった日中間の時制感覚の違いは日常ここで生活して大分慣れてはきたが、やはり時々戸惑うことがあり、乗り越えにくい日中間の壁の一つである。

原文

過去の栄光は未来を何も保障しない

今回のW杯を前にスペイン代表の監督が語っていた言葉だが、まさに今回の南アフリカ大会はそのままを体現している。

かのスペイン代表も今朝の試合は勝ったものの初戦のスイス戦にまさかの引き分けとなり、苦労のスタートとなったことは周知のとおりである。
そのほか強豪国と言われる、フランス、イタリア、ドイツなどが1次リーグ敗退の危機にさらされている。

公式球ジャブラニ

公式球ジャブラニ(引用元

 日本代表の中でも同じことがあり、絶対的エースのはずだった中村俊輔選手が調子を落としてスタメン落ちしている。
 彼らのいずれも慢心でこの状況に陥ったわけでもないだろうが、まさに過去の名声は未来を何も保障してくれていない。
未来の名声は、今これから築くほかないのである。
 
 これは仕事上でも全く同じことが言える。
 過去に築いた栄光の上に胡坐をかいていたら何も進歩しない。それどころか堕落であるともいえる。

 昔人事の仕事をしていたとき、労務評価の方法として業務評価の減価償却なるものを考えたことがある。

 過去に大きな仕事を成功させて評価を受けた者に対して、ある一定評価点を与えるが、それは未来永劫積み重なるものではなく、購入資産のように年々価値が低減していくものと考え、未来へ持ち越す価値を減らして行き、常に新しい評価を積み重ねることを求めるといった評価方法である。

 もし新しい評価を積み重ねなければ、低減された過去の評価しか残らない。
 固定資産的に毎年6掛けしたらあっという間にその価値はゼロに近くなる。

 こうやれば過去の栄光にしがみつかれるのを防げるのではないかと考えたことがある。

 実際、世の中の大企業には過去の一度の実績にしがみついて出世している人も少なくない。
 しかし、過去の成功に満足して努力を怠ってしまったら本人も会社も未来などないであろう。

 逆に言えば、過去に栄光が無くても、努力次第これから栄光を築くことが出来るということだ。
 
 頑張れ過去の弱小国!(はてどこの国だろう)

一番幸せな時間を思い出す曲 ハイドンのトランペット協奏曲

 昨日、件のクラシックFMを聞いているときに不意に耳に飛び込んで、急に心を躍らされたのがこのハイドン作曲のトランペット協奏曲の第3楽章である。

 ラジオの中ではよく流れているので、決してこのとき初めて聴いた曲ではないのだが、昨日の夜は心に不意打ちを食らってしまった。
改めて聞いてみてこんなにネアカでワクワクする曲は他にないように思う。特に弾むようなリズムがとても気持ちいい。

 そもそもトランペットというのは、どんな大きなオーケストラの中あっても音が沈まないので、独奏楽器としての適正としては最たるものであり、協奏曲に向いていそうなものだが、実はこのハイドンのものとフンメルという作曲家以外のものは有名なものは少ない。

 何故か理由を考えてみたところ、この曲が作曲されたときのトランペットは今のものより構造が単純で、その分音が柔らかくオーケーストラに相対しても音が馴染みやすいのである。

 それに対してバルブを追加して改良された現代のトランペットは、出せる音域が広がりそれ故に表現の幅が広がったのはいいが、音質が若干硬質となり、オーケストラの音の厚みの中に馴染みにくくなった。それ故、独奏楽器としては理想的になったが、その反面「協奏」を求められる協奏曲の独奏楽器としては扱いにくくなってしまったということであろうに思う。

 そういった意味で、ナチュラルな音が自然に鳴るハイドンの時代のトランペット協奏曲は人の心に自然に響くように感じるのだ。

 まあこういった理屈はともかくとして、この曲は本当に気持ちがよく幸せになれる気がする。いや正確に言うと、幸せを感じていた時期の心の状態を呼び起こしてくれ心の中にその時期の感情を再現してくれたのである。ああ、こんな幸せを感じていた時代もあったのだと自分の心に驚かされる。

 過去形として思い出してしまうこと自体いかにも残念だが、未来に対しても自信を与えてもらい勇気がもてたような気がする。

 明日からの通勤もスキップしたいような気分かもしれない。また幸せな時間がやってくる予感がする、そんな曲である。