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18世紀のオーケストラの響き

 リコーダー奏者であり指揮者でもあるフランス=ブリュヘン氏が今年の夏に亡くなっていたのを先ほど知った。
 もうだいぶ高齢なのは知っていたので、どうしていたのかなと思っていたところにこの訃報の発見である。
 フランス=ブリュッヘン氏と言えば、やはり手兵の18世紀オーケストラで、私は彼の演奏会を来日公演で数回聞いたが、どれも良かったのを記憶している。
 18世紀の楽器で演奏する18世紀オーケストラは、かつて響いていた音を現代に再現してくれたオケであり、バッハなどのバロック調の音楽と現代オーケストラの機能的な響きの中間にあるような独特の響きを持っている。

 生の演奏会も悪くなかったが、彼の演奏で最も魅力的で凄いなと思ったのがCDで聴いたベートーベンの交響曲第1番である。
 第1番はその番号の通りベートーベン初期の最初の交響曲で、1800年という18世紀最後の年に完成した曲となっていて、若い時の曲らしく瑞々しさにあふれ、とても気持ちの良い曲である。
 18世紀オーケストラは、その18世紀最後の曲を当時の楽器で演奏するわけで、聞いているこちらはあたかもタイムスリップして18世紀に紛れ込んでしまったのではないかと思わせるくらい、不思議な感覚に引き込んでくれる。
 しかも録音に使用されたと思われるオランダユトレヒトのホールはビンビンと響いてその反響音がとても心地よく、まさに18世紀から19世紀という近代が始まったばかりの未来への希望を感じさせるイメージを伝えてくれている。
 
 9曲もあるベートーベンの交響曲の中ではこの曲は比較的規模が小さいという事で、相対的な人気度は「運命」や「第九」「田園」「英雄」などに比べあまり高くないが、私はほかの曲にはない愛着を持ってこの曲を聴いていて、実は一番のお気に入りである。
 それもこれも、恐らくこのブリュッヘン指揮18世紀オーケストラの演奏CDのお蔭であり、あの時代の躍動感を窺い知るに足る演奏だという気がするのであり、心に元気が欲しくなった時はいつもこの曲を聴くようにしている。

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中国人は音楽を聴かないで教養として理解?

 昨晩、自宅に帰った際にあまりにもやはりインターネットの接続が悪いので、何となくテレビをつけたところ、ベルリンフィルのコンサートを放映していた。
 グスターボ・ドゥダメルというベネズエラ出身の指揮者の指揮で、ベートーベン作曲の交響曲第5番、つまり「運命」の演奏が流れていた。

 まあこれらの演奏に全く興味が無かったわけではないが、しょせんテレビ放送を通しての音では音が悪すぎて感動もへったくれもないので、あまり集中できず流すように見ていた。
 以前から中国のこの手の放送には指揮者のプロフィールや曲目の概説などが、字幕スーパーで紹介されており、私はこれらがウザったく音楽に集中できないので、中国の音楽放送は好きではなかったのである。

 ところがである。

 昨日の放送はこれまでのものに更に輪をかけてウザったいものとなっていた。
 昨日の放送では、曲目の簡単な概要どころか、曲の楽譜が進むにつれて、やれここが提示部だ、ここが展開部だ、ここが反復部だといちいち曲が進む度に画面表示を加えて曲目の解説をしてきたのである。
 これには私もさすがにあんぐりとなってしまった。

 まるで、学校で音楽の授業を受けているかのような解説なのである。

 まあ音楽学校などの学校の教材としてこれらの解説が加わるなら理解できるが、少なくともこれでは音楽を音楽として楽しめない。
 この放送を見る限り、中国ではクラシック音楽を単なる教養としてしか捉えておらず、音楽を音楽として聴いていないのではないかという気がしたのである。

 しかも演奏が終われば、余韻など楽しむ間もなくあっという間に放送が終了する。

 音楽を音楽として受け止めるなら、こういった扱いは有り得ないはずで、単なる「西洋の教養」としてしかクラシック音楽を受け止めていない現実があるようである。
 音楽の知識は決して無駄だとは言わないが、音楽はまず音を聴いて心に受け止めるべきであり、その後から「教養」を探しに行っても遅くないのである。

 最近では、中国各地にお金をかけた音楽専用ホールも沢山出来てきたが、単なる教養サロンのような場所としてしかとらえてない人々に立派な音楽を聞かせるのは非常に勿体ないわけで、その場にいても音楽をロクに聴いていないような人達に幾らいいホールを作ってあげても無駄だという気がする。

 どうも昨日の放送に、中国の今の経済発展が未だイメージ先行の上っ面の物でしかない現実を見た気がするのである。

中国人は拍手が上手じゃない?

 昨日、突然昔の同僚に誘われてクラシックのコンサートに行ってきた。
 18時に電話があって、その晩の19時開演のコンサートに誘われたのである。(笑)
 無謀とは思ったが、無料のオケコンサートという言葉に負けて急いでタクシーで駆けつけてしまった。
 このコンサートは同済大学の礼拝堂で行われた学内招待コンサートのようで、オーケストラはミュンヘンから来たという「新ミュンヘンオーケストラ」?といった2005年に設立されたかなり若い楽団で、あの有名なミュンヘンフィルやバイエルン管とは違うオーケストラで私も知らなかったオケであった。
 まあプロの様ではあるが、言葉は悪いがアマチュアよりは上手ではあるものの水準としてはそれほど高くはなく、日本の大学オケなんかよりはちょっとうまいという感じのレベルだった。
 もちろんレベルの良し悪しに関わらず生の演奏を聴くというのは大変貴重な機会なので、そのレベルの見極めも含めて十分楽しんできた。
 演奏されたのは、ベートーベンのエロイカと、ショパンのコンチェルトである。
 (ブラームスのハイドン変奏曲は遅れたので聴けなかった。)
 で、まあ演奏はそういうことで十分楽しめたのだが、やはりというか、聴衆マナーは最低だった。
 日本のプロの演奏会では休憩中はともかく演奏中は絶対有り得ない事であるが、聴衆がスマホやタブレットを持ち込んで写真をパシャパシャとっており、中にはフラッシュを焚いて写真を撮っている人までいたのである。
 更に言えば会場の公式カメラマンでさえ、褒められた撮影スタイルではなく、普通はゲネプロの際に済ませておくべきような撮影を、本番で立ち上がって動きながら撮っていたのである。
 そのほか人が年中出入りするし、子供も遠慮なく駆けずり回っており、じっとしていられないのは仕方ないにしろ、もう少し親が静かにさせるべき酷い状態だったのである。
 要するに、皆コンサートに集まって来てはいるものの、「体験記念」の記録に忙しかったりしてロクに集中できず音楽を聴いていないのである。

 そういった観客の態度は拍手にも現れており、拍手をする人はマナー的な決まり事の意識でいかにも形式的な形で拍手をするし、逆にマナーを知らない人はヤル気のない拍手しか送らなかったりする。
 要するに、演奏者とのコミュニケーションとしての拍手の意味を理解していないので、拍手に慣れていないようだった。
 まあ中国の人達は、もともと知らない他に対してコミュニケーションや気配りをするという事には長けていないので、拍手もといった手段も権利主義的に要求される形式的な意味を外されてしまうと、実は上手な拍手が出来ないのかも知れない。

 そのように感じた昨晩の彼らの拍手だった。
 拍手の音一つとっても、民族気質の差が出てくるから人の社会と言うのは不思議なものである。