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夏休みの自由研究がオタクを生む?

 日本では小学校の夏休みの宿題として、自由研究というものが実施されている。
 私が小学校の時にもそれなりの研究に取り組み、当時の恩師や両親の協力を得ながらそれなりの研究に取り組み、運よく夏休み後の学校代表などになったこともあった。

 まあ、今考えればたわいもの無いものばかりではあるが、今にも生きる貴重な雑学を吸収するきっかけとなった時期とも言える。

つまり、学校で習う勉強以外のものとして知識を拡げるいいきっかけになったのである。

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 ところで最近こちら中国で、小学生の子供を持つ親御さんに事情を聴いたところ、どうやら中国では自由研究に該当するような夏休みの宿題は出されていないようである。
夏休みの宿題として漢字の書取りや算数の計算問題ドリルのようなものはあるようだが、自由研究らしきものは特に無いようである。

 じゃあ他の国はどうなんだと調べてみると、欧米は学年の境目の年度替わりということもあって、夏休みの宿題自体が存在しないようだった。

 語学力が無いのでアラブの国までは調べきれなかったが、かの国たちも夏休みの宿題が存在するイメージが無いので恐らくきっとないんじゃないかという気がする。

 結局まあ恐らく夏休みに宿題が出るのは東アジアの日中韓だけで、韓国も読書感想文などはあるらしいが、自由研究などは見当たらないのである。

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 つまるところ雲をつかむような課題である自由研究を夏休みに子供に与えているのはおよそ日本だけということになる。

 ほかの国でも学校単位では行われている可能性はあるが、国全体で実施されているのはやはり日本だけのようである。

 この自由研究について、いつ始まったかは定かではないが大正時代に一部の学校でおこなわれていたものを戦後に授業として定められたものらしい。
 由来はともかく、この日本特異とも言える夏休みの自由研究課題は日本独特の文化を生んでいるような気がするのである。

 その一つとして考えられるのが、日本独特のオタク的文化である。

 オタク的文化といっても、何もアニメや漫画だけでなく、ありとあらゆる分野にわたり、例えばラーメンのスープへのこだわりや、今や世界一とも言われるスイーツ、世界に比肩するワインなどありとあらゆる場面でも、一つのものを深く掘り下げ研究する土壌が日本には存在する。
 いつぞやテレビで言っていた話だが、日本には世界中の料理を日本人が持ち帰って研究し、現地の本場よりうまいものを作り上げてしまう文化があり、ベルギーのワッフルなんかも本場以上においしものをつくりあげてしまっているとも言われるそうだ。

 しかもいずれもそのレベルはいずれも世界トップクラスに比肩し、例えば香港には日本のラーメン大好き香港人がおり、日本のラーメンが世界一だと絶賛しているのだという。
 このようにありとあらゆるものに研究根性を発揮し、世界の中でも類まれに見る研究熱心な国民性をもつのが日本人の国民性のようなのである。

 で、その国民性はどこから来たのかと考えると、やはり小中学生への自由研究教育がその一端を担っている役割は小さくないのだという気がするのである。

 もちろん、こういった自由研究教育が始まる前からも日本では伝統的に農耕民族の勤勉な国民といわれており、文化の面でも中国の漢字からカナ文字を生んだりと、本国とは違う独自の工夫を生み出す土壌はあったと言える。

しかし、そうった日本人の「研究気質」を国民性として火をつけたのがやはり小学校の夏休みの自由研究課題であるという気がしており、我々日本人は研究する楽しみ、研究対象を見つける楽しみというものを日本の子供の頃に植え付けられてきたのだと思う。

 まあ親が丸抱えで子供の自由研究の肩代わりするようなことは論外だが、例えある程度他人が用意した研究の方法・・・朝顔の観察などでも、人から知識として教わるのではなく自分で変化を見つけて記録していくという作業は非常に好奇心を刺激するものであり、研究意欲を湧き立たせるには十分な行動なのである。

 そういった研究の楽しみを知った子供が大人になるにつれて、独自の研究対象を見つけてそれぞれ深みにハマっているのが、日本の総オタク文化とも言える状況になっているのだろう。

 一概にオタク文化と言ってしまうとネガティブなイメージになりやすいが、身近な事象の研究による発見や、分析能力、あるいはのめり込み能力は世界でも類稀なものがあり、例えば気象観測技術、鉄道運営技術、お菓子作り技術、店舗運営技術などは日本人の研究気質の結晶だと思われ世界に誇れるものとなっている。

 先日、日本書籍のお店に中国ビジネスコーナーを見つけたが、かなりの種類の本が出版されているのを見つけた。
この数をみるだけでも、日本人は中国ビジネスを随分熱心に研究しているのがわかる。
しかし、このとき同行していた中国人に聞いたところ日本ビジネスを研究した本はこんなには出版されていないのだという。

 恐らく本の数の差ほど彼らが日本に興味はないわけではないだろうが、研究を好む国民性かどうかがこの本の数の差にあらわれているのだろう。

 このような状況を見るにつれ、「夏休みの自由研究」とは単なる小学生のための夏の風物詩では終わらない重要な日本の貴重な文化の担ぎ手でありビジネスなどの訓練の場であると私は最近確信しつつあるのである。

日本人の博士は使い物にならない

 先日、日本のラジオ番組で社会学者の宮台真司さんが言っていたことだが、日本では政府が一時博士号取得者を増やすべく努力を行なったのだが、ほとんど効果が得られなかったということを言っていた。

 何故ならば、日本の企業が博士号取得者をあまり使いたがらなかったたため、博士を育ててもそれを受けいれる土壌にならなかったということが大きいらしい。

 では何故日本企業が博士号取得者を受け入れないかというと、はっきり言えば日本人の博士は企業であまり使い物にならないからだとのこと。

 諸外国では必ずしもそうでもないということらしいが、日本の博士号取得者の多くはグループワークに取り組む訓練を経ていないため、組織の中での協調性がなく共同作業に向かず、企業として扱いにくいのだとしている。

 さらにその博士号をとった能力に関しても、あまりにもピンポイントな自分の研究課題にこだわるため、つぶしが利かず企業としても余程マッチングしなければ研究者としても受け入れがたいのだとしている。

 そして実際受け入れられた後でも、彼らは博士号を取ったというプライドが高すぎて、頭でっかちに理屈を振り回し企業内では持て余すケースが多いということらしい。

写真はイメージ

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 実はこの状況は博士号だけでなくMBAという修士取得者にも同様の傾向が見られ、やはり企業社員としては持て余すケースが多いようだ。

 まあ、皆それぞれ称号を得るために能力を積み上げに相当の時間を使っているはずなのに、結局は使い物にならないというのは、なんという時間の浪費であろうか。
 非常にもったいないことである。

 これらの事の根本的原因は恐らく日本の教育体制にあり、グループワーク能力を育てないまま学力試験だけで評価をしてしまうが故に、社会で使いものにならない無駄な博士を生み出してしまうのだろう。

 結局は彼らは社会で受け入れられず、大学の研究機関で黙々と自分の殻に閉じこもってオタク化してしまうようなことになるらしい。

 まあ博士になるならないに限らずグループワークが出来ないのは現在の若い世代に共通することのようで、どうにかこの状況を打破しないと日本は朽ちてしまうのではないかと私も危惧を抱いている。