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豆乳に見るコスト感覚

 昨日の豆乳の件で思い出したが、かつて中国かぶれになってしまった知り合いが豆乳は原材料費に1元もかかっていないから、街中で豆乳を1元とか2元とかで買うのは馬鹿馬鹿しく、自分で機械を買って自分で作っているという話を思い出した。
 
そのとき私は

「はぁ?」

と思ったが、あまりにも力説するのでその時はその人に何も言わず黙って聞いていた。

 しかしである。

 もしその人の言うとおりに豆乳の原材料費が1元に満たないのだとしても、その人が手間をかける分のコストは幾らだというのだろうか?

 恐らく安く見積もっても日本人なら1時間50元は下るまい。

写真はイメージ

写真はイメージ

 仮に豆乳を作るのに30分かかったとしたら、1時間50元の人間が取り組めばコストは25元かかることになるが、豆乳はまあ30分では作れないだろう。

 豆乳は、豆を購入するところからはじまり、豆を水に浸し・煮て・絞るなどかなりの手間暇をかけないと豆乳は作れないのである。

 つまりおおよそどんなに頑張って見ても、作り始めから飲める状態になるまで丸一日以上かかるし、作業にかかる時間だけに絞ってもとても30分では作れまい。

 さらに細かいコストを言えば、水代、電気代、ガス代などがこの間、僅かだが少しずつ上乗せされる。

 こうやって考えていけば、家庭で作る規模の場合は豆乳1杯あたり1元以下で抑えることはほぼ不可能であり、工場製の街で売っているものを下回ることはまず無理であろう。

 もちろん毎日家族で飲むからということで、家で作りたいという気持ちも分からないではないが、それは安全上など別の理由によるものや趣味的思考の問題であって、少なくとも豆乳に関してコストを理由に自家製にするのはちょっと説得力が無いことになる。

 またコスト面で直接の出ゼニを抑えることからメリットがあるんだといった理屈も有り得なくはないが、その人が豆乳を作らずに他の事に時間を使えば得られるはずだった対価を考えれば、やはり自分で豆乳を作るという行為はコスト的におトクとは言えず、結局は趣味的な問題に帰結してしまう。

 実はこういうコスト感覚に勘違いをしているおじさんやおばさんは世の中に少なくない。

 僅かな出費をケチるために膨大な時間を使って懸命な作業を行い、市販されているものやサービスと同様の結果を得て満足しているような人たちである。

 豆乳に限らず内装や家庭菜園など自分でやれば出ゼニを抑えることができることは少なくないが、そのためにどれだけの時間コストがかかり、その時間の分だけ何かが犠牲になっている可能性があるにも関わらず、その人たちは出ゼニを抑えた差額の分だけ「トクをした」と喜んでいるのである。

 まあ私はそのことを直接非難する気はないが、その努力は決してコストのためではなく本人の自己満足の世界でしかないことに是非自分で気が付いて欲しいのである。

 自分にも他人にも時間コストがかかっているはずなのに、人は意外とそれを忘れがちなのである。

原文

貯金のできる仕事をする

 給料が高い仕事を探すとかそういう話ではない。

 日々の仕事を単なる一回限りの一過性のものとしてやっていたのではいつまでも成長できないという話である。

 つまり、一つの仕事をするとき単に右から左へ仕事を流しているだけでは、何年その仕事を続けてもその仕事から得られる利益は変わらない。
しかし、ここに貯金として使える仕事を見つけることが出来れば後々、それらは利益となって帰ってくる。
 例えばイベント開催のように、一回きりの仕事は、どーんと利益が入ってくる可能性は大きいが、結局はその契約それっきりであり、その仕事が終わったらまた新しい契約を探さなくてはならない。これは利益が大きいようで実は効率が良いのかといえばそうとも言えない。

 それよりも、新しい商品を開発する、新しい店舗を開くなど後々長期的な利益を生むものを確実に作り出すことが出来れば、利幅はそれぞれ大きくなくても 継続的に利益を生むことができる。
そういう仕事を探すことが貯金のできる仕事を探すということである。

 もちろん、これは事業規模の話だけではなく、日々の仕事にも同じことが言える
例えば、一つの新しい仕事をするときは、必ずその経過や連絡した相手先などを記録して、後々別の仕事にも活用する。

こうすれば単に目先の仕事を処理したときの利益に留まらず、後々自社のノウハウや人脈としてストックしていくことが出来る。

これを一過性の仕事として、何も記録に残さなければ、例えば担当が替わったり時間が経ったりしたときに同じ仕事が来ても、また一からやり直さなければならない。

このような作業は非常に無駄で、効率が悪い。

 つまり、日常の仕事の中で無駄を省くことというのは、一度やった仕事を二度やらずに済むように一度目の仕事をやるということに他ならない。
これが後々貯金として帰ってくる。そういう仕事を探さなければならないと日々思考中である。

右脳と左脳と音楽

 よく人間の脳は左右で働きが違うといわれ、右脳は感性や情緒的な部分をつかさどり、左脳は論理的な思考をつかさどるといわれている。
この理論に立てば、人はする作業の内容によって使っている脳が違うことになり、私も最近その理屈を日常で実感するようになった。

 実際に自分の仕事に当てはめてみると通常のデスクワークに関して言えば、圧倒的に左脳的労働が支配的で、理屈にしたがって目の前の仕事を処理している。
まあアイデアをひねるような時は右脳を働かせているのかも知れないが、仕事の95%の部分は左脳的処理をしている。

 それが証拠にほぼ左脳的労働だけで処理できてしまうような作業をするときは、右脳を刺激する音楽を聴いていても全く邪魔にならず、苦にもならない。
 むしろ両方が適度に活性化して作業がはかどる。

 ところが、ブログなど個人的な文章を書いたり、創作的な作業をする場合はちょっと事情が特殊である。
 
 文章を書くという作業自体は左脳の領域といわれていて、一般的な会社の業務処理などはその左脳領域でおさまってしまうのだが、ブログとなると、ブログを書く元になるインプレッションは右脳の領域になる。

 まあ、見たまま感じたままそのままストレートに文書をぶつけられれば、左脳領域はあまり使わず文章を書けるのかもしれないが、私はそのあたり頭の構造が不器用に出来ているのか、左脳できちんと論理的に組み替えなおさないと文章として表現できない。

 つまりブログを書くときも左右両方の頭脳を使っていることになる。

故に、日常で仕事で左脳を酷使したあとでも、右脳は疲れていないのでブログに書きたい題材を拾ったり閃いたりすることがあるのだが、やはり文章にしてくれる左脳が働いてくれずとても筆が動かないので、文章が書けなくなる。言い訳になるが最近ブログがちょっと滞っていたのは題材や時間がなかったわけはなく、左脳が仕事で疲れていて文章にするエネルギーが落ちていたからである。

 まあ左脳のパワーが落ちているときは、脳を活性化しようと音楽を聴きながら作業してもあまり意味がない。
音楽が刺激するのは右脳であり、疲れているのは左脳だからである。つまりこんなときは右脳を活性化させるのではなく左脳を休ませることが必要なのだ。

 しかももしこのとき聴く音楽が右脳のインプレッションとマッチングしていなければ右脳が混乱を起こし、余計に悪影響を与えてしまう。
 これは例え音楽ネタのブログでも同じことである。

 では、こんなとき音楽の存在は脳に対して全く無意味かというと実はそんなことはない。

 音楽を右脳だけで聴き左脳を一定時間休ませてみるという行動をすれば左脳の疲労が回復する。

 ヘッドフォンなどで外界を遮断し、どっぷりと音楽の世界に浸るのである。このように音楽を聴いている間は働いているのは右脳だけなので左脳を休ませることが出来る。

 日常の生活ではなかなか左脳を休ませる時間をとることが出来ないから、実際に音楽を感じ取るのは右脳かも知れないが、休ませてくれる機会を与えてくれるという点で、左脳にとっても音楽の与えてくれる功績は大で、貴重な存在である。

 こうやって見ると忙しい時こそ、音楽を聴く時間は必要なんじゃないかなと最近思うようになった。 
 いまさらながら音楽の凄さを見直した。