Tag Archives: 会話

韓国語の勉強をまたはじめた

まあ特に大きな理由があるわけじゃないが、将来に関する漠然とした不安もあって韓国語の勉強を始めている。

中国語だってまだまだ中途半端ではあるのだが、この3ヶ国語ができるとアジアでは割と便利である。

実は韓国語は以前もかじったことがあり、文字は読めるし発音はできるので挨拶と自己紹介くらいはできる。
それに韓国料理は無茶苦茶すきだ(関係ないか、、、)

 故にとっかかりはゼロではないので根気さえ続けば、日常会話くらいはできるようになるんじゃないかとタカを括っている。
まあ年齢が年齢なので苦労するのは確実なのであるが中国語でさえ勉強を始めたのは34歳のときなので怖がる理由もない。

 幸い(というか確信犯的にだが)、以前日本で勉強していたときに初級の教科書は中国に持ち込んでいるので、当面は学習教材は何とかなりそうで独学で頑張ってみようかと思っている。韓流ドラマのDVDもたくさん売っており、そういう教材もたくさんある。

韓国語は発音に関しては中国語ほど面倒くさくないし、とりあえずニュアンスは掴んでいるのでそこで苦労はしない気がしている。単語は一つ一つ丁寧に覚えるしかないが幸いにも韓国語は中国語と日本語の中間のような存在でさらに英語などを語源とした外来語がたくさんあり、結構覚えやすい。

問題は文法だがよく言われるように語順が日本語に似ているので、ここを根気良くやれば会話にはなんとかなりそうな気がする。

まあ会話が成立するレベルに達するまで半年はかかりそうだが、会話の練習がしたければ、知り合いの朝鮮族の人や龍柏の韓国料理街など練習場所はたくさんあり、練習場所には事欠かないので上海は恵まれた環境である。

 とりあえずは足繁く韓国料理屋に通うことになりそうだが、あまりキムチ臭くなりすぎないようにだけ気をつけたい。

1000年前の日本人と会話が出来るか?

今日、インターネットでニュースをチェックしていたら邪馬台国関連のニュースが出ていて、遺跡の発見によって近畿地方の畿内説がさらに有力なったとのこと。

 ふーんと思いつつ、その後興味の赴くまま九州説と畿内説の論点についてざっと目を通したが、そういう資料を目にしているちに、今もしタイムマシンがあったらこの時代に戻って調べてみたいなぁとふと感じた。

 しかし!

そこで言葉が果たして通じるのかと心配になった。

まあ常識に考えて恐らく言葉は通じないであろう。

 同じ日本人としてその歴史の積み重ねの末端にいる自分であるが、その時代の間には言葉は相当変化しているはずであり、文法すらも違ったものであったかもしれない。
 日本古来の「ヤマト言葉」とされている「やま」などの発音くらいは通じて欲しい気もするが、それだってそのまま通じるとは思えない。

 じゃあ、何年前の日本人まで会話することができるのかと非常に気になった。

 いろいろ調べてみるとこれは非常に難解な学術的テーマらしい。

何故かと言うと、昔から口語と文語は乖離しており、文献は当然文語で書かれており、口語で語られたものを録音するような技術がない昔のことなので、口語がどう発せられたかを知るすべがないからである。

 漢字の筆談であるならば、単語の使い方さえ気をつければ、平安どころか聖徳太子の時代くらいは意志の伝達が可能かもしれないが、口語となると全く以ってわからないと言うのが実のところのようである。

 個人的には江戸の中期くらいはイメージ的に落語などの文化の発生した時代と考えれば会話は成り立ちそうだが、ならば戦国時代の織田信長とは話ができるのか、源義経と話が出来るのかと遡れば遡るほど自信がなくなる。
 聖徳太子くらいになるとやはりお手上げのような気がする。10人の言葉の前にまず私は言葉が聞き取れないに違いない(笑)

 さてどこが境界線かはさておき、今からちょうど1000年前というテーマに絞って考えると当時は平安時代真っ只中で、俗に言う摂関時代である。

 藤原道長などが巾を利かせていた時代であり、この頃すでに表音文字としての「かな」は完全に独立していたようである。

 かな一つ一つの発音は今と違っている面もあるようだが、当たらずとも遠からじで文章を読む発声の範囲では私にも聞き取れるのではないかという気がしている。

 会話が成り立つほど聞き取れるかどうかは分からないが、今上海で上海語を聞くような範囲で部分部分で単語は拾えそうな気がする。まあ単語そのものが難しいかもしれないが古文朗読の訓練を少しすれば何とかなりそうな気がする。
 そう考えるとちょっとわくわくする。

 ちなみに会社の中国人に、1000年前の中国人と会話ができるかと質問したら絶対無理だと言っていた。筆談なら可能だが会話は無理らしい。
 清代あたりを境にだいぶ言葉が変わっているらしく、今の言葉は古代の言葉に比べてかなり口語的になっており、漢字一つ一つの意味も変わっているようだ。

そう考えると同じ漢字文化の源泉を持ちながら、「かな」という表音文字を持てた日本語を話す文化にいるということが、ひょっとすると1000年前の人と会話できる可能性を持たせてくれていることが、ちょっと得した気分にさせてくれる。

会話のない親子

 今日、夕食を食べに行ったお店で、日本人と思しき親子4人組みを見かけたのだが、実はそこでちょっと気になる光景を目にした。

 その家族はお父さんとお母さんと小学3、4年生と思しき兄弟の4人で、家族のいない私からすると、なんとも羨ましき光景であるはずだったのだが、彼らは注文を終えると何と自分勝手にばらばらの本を読み出したのである。お父さんとお母さんは店に置いてあった週刊誌を、子供たちは漫画をそれぞれ読み始めたのである。

 家族そろっての食事の時間であるはずなのに、なんとも奇怪な光景である。

 毎日ずっと一緒に暮らしている親子だから、食事の時間だからといって改めて特別な会話は無いのかも知れないが、4人とも会社や学校などそれぞれのフィールドがあるはずなので、そんなにいつもいつも4人で過ごしているはずでもないに違いない。

 つまり食事を一緒にとる時間というのは一日のうちでも何分の一の貴重な時間であるはずだ。
 しかしながらそれにもかかわらず会話もせず、親子それぞれで別の本を読んで料理を待つというのはなんとも不思議な光景である。

 よく、中高生の子供を持つ親御さんが子供の気持ちがわからないなどという言葉が伝わってくるが、もしこの親子と同じ状態で食事の時間を過ごしてきたとしたら、子供の気持ちが分からなくなるのも当然のように思える。

 世界の親子が食事時にどの程度会話をしているのかわからないが、少なくとも中国に来てからこのように食事の時間中にそれぞれが違う本を読んでいるような中国人の親子を見かけたことが無い。
 恐らく子供がそんなことをしたら親に張り倒されるに違いなのが中国だ。故に親から率先して本を読んでいた姿には驚かされるのである。

 どうしても読まなければならない本であるなら後で読めばいいと思うし、ひとつの食事をするためにひとつのお店に入れば、そのお店内装やメニューなどを題材にしてそれなりの会話があってもいいはずだ。

 しかし、この親子は料理が出てくるまで結局本を読み続けた。

 実は私の家族は両親ともB型であり、弟も含めて4人ともB型の家族であったが、自分勝手なB型といわれる私の家族でさえもここまでの光景は無かった。
 親が飲食店を経営していたため普段の夕飯を一緒にする機会も多くもなかったのだが、食事時にテレビをつけることはあってもそれぞれが本を読むなどということはまず無かった。

 人と人というのはお互いに分かっているようで、なかなか細かいところまで理解しあうのが難しいのが人間である。ましてや会話が無かったらお互いにの理解なんて有り得ないように思う。ずっと会話が無ければどんどん考え方がずれていってしまい、最後には相手の気持ちが全く分からなくなったという結果になってしまうのである。

 例え喧嘩ごしであろうとも会話をしているうちは相手の気持ちの片鱗が見えてくるので、100%相手の気持ちが分からなくなることはない。でも会話がなくなってしまったらもうお手上げである。

人と人の関係において会話は大事である。つとにそう思う。