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英語はもう話せない

上海生活も3年を超えてくると、上手下手は別にして中国語で話すという習慣が身についてくる。
母国語以外の外国語といえば中国語という状態になった。
まあ当然といえば当然で、中国にいるのだから必然的に中国語を使って生活している。

しかしこうなってくると時々厄介なことが起きてくる。英語の会話が全くできなくなったのである。
まあもともと英語は学生時代から大変苦手な教科で、お世辞にも上手とは言われない私の英会話であるが、これでも曲りなりに英語を使って一人でスペイン旅行をしてきており、最低限の意思疎通は行なって旅行をしてきたのだから、英語を少し話すことはできたわけである。

しかし、今となってはそれは全く過去の栄光となった。

今はもう英語を話すことが出来なくなった。とはいえ全く忘れてしまった訳ではなく、ヒアリングや読解に関しては、分かる単語量は多くないが、結構早口の英語を言われてもそれなりに相手の意図を拾うことが出来る。
しかし話すことに関しては全く出来なくなった。

何故なら英語を話そうとしても口の中から自然と中国語が出てきてしまうのである。

”Are you Japanese?”という英語の質問に”対”(dui4)とつい中国語で反応してしまう。

運よく英語で話し始めることができても、結局最後は
“7 O””clock的時候(de shi2 hou4)”
(7時頃)
と中国語になってしまう。

先日、
She is 我的(wo3de)  friend!
(彼女は私の友達)
と言われ、違和感なく英語として受け取ってしまったが、当然のことながらこれは英語では無い。

こんな状態私だけかと思ったら英語話せない病は、上海に来ている多くの日本人共有の悩みとなっているようだ。

もちろん両方悠長に使いこなす人はいるのだが、私のような中途半端な人間は結局どんどん英語から遠ざかっている。
もちろん中国語がどんどん上達しているのならそれもありだが、どちらも中途半端な状態になりつつあるような気がしてしまう。

 せめて母国語の日本語だけは忘れまいとこうやってブログなどで日本語に接している上海生活の毎日である。

原文

ずれていく言語感覚

外国にずっといると、日本の言葉感覚とずれが出ることが非常に怖くなってくる。

もちろん日本語そのものを忘れることはないのだが、カタカナ言葉の使用を急激に控えている自分に気がつく。

日本語のわかる中国人と会話をする時の癖がしみついているのである。

 日本語のできる中国人は、頭が良いほうの部類なので、たいていは英語も少しは理解できるのだが日本のカタカナ英語は、英語の意味も発音もなしていないので彼らには通じないのである。

 日本語で広く流通している言葉であればカタカナ言葉であっても彼ら彼女らも学習しているので理解しているが、日本人が気軽に感覚的に使っている言葉は彼らは理解しない。
 故に平易に日本語な置き換えなければならないことになる。

 例えば「ポジティブに」を「積極的に」とか、「リアルだ」を「本物のようだ」とか細かいところに日本語の中にカタカナ英語は存在するので非常に気を使う。

 一方で日本のテレビや、ネット情報を見るとカタカナ用語がますます増えてきている。

 間接的にテレビやネットを見ていても、そこに暮らしていない私にとっては接する頻度が圧倒的に違うのでずれを生む原因となる。
 どうしても日本国内で使われている言葉のニュアンスや感覚と外国で暮らしている自分の感覚がずれていくので、そういうところが非常に怖いのである。

 実は私の周りに、中国やその他の欧米系の国に長く住んでいた人が何人もいるのだが、それらの人々の言語感覚もまた、日本に生来住んいる人のものとも私の感覚とも違う。
 日本語の普通教育を受けて、基本的な会話や相互理解には問題ないはずなのだが、文章を書かせてみるとすぐにわかってしまうのである。

 同じ概念に対する言葉や単語の選択や、同じ言葉から受ける意味が私やおそらく日本の人々の平均であろうと思われる感覚からずれているようなのである。

 欧米的思考や中国語的思考から発せられた言葉だなと気づけば、理解は出来るがやはり違和感は感じる。
 日本国内にいるときは、同じ日本語で会話すれば相互には共通理解ができると思っていたが、文法や語法が同じでも単語のニュアンスがずれていけば、同じ日本語という言語圏の中でも文化が分離していく可能性は否定できないと感じるようになった。

 かつて韓国と北朝鮮と中国の朝鮮族は同じ民族で、同じ言語を持っているはずだったが、地理的歴史的分断により、言葉として相互理解は出来るが文化が違ってきていて、自国以外の人間と話すと相手がどこの人間かはっきりわかるという。

 イギリスとUSAの英語もはっきり違うのも有名な話である。

 いずれ日本語にもそういう時代がやってきてもおかしくはないのだが、日本語は言葉の言い回しやニュアンスを大事にする言語であるだけに分化によってその良さが失われることのないように願いたい。

中国人どうしでも日本語のほうが便利らしい

昨日、ある会合に参加したときの話である。

日本滞在歴6年と8年の中国人女性同士の会話の輪の中にいたときだが、彼女たちは中国人どうしなのに何故か日本語で話していた。

 日本人がほとんどの会なので彼女たちも基本的には日本語を使いこなせるというのは理解出来るが、だからといって中国人同士のときまで日本語で話すのは不自然に感じた。

「中国人同士なんだから中国語で会話すれば?」と私は笑いながら伝えた。

すると、彼女たちはもう既に頭の中の思考回路が日本語で回ってるし、日本語でなければ表現できない言葉がたくさんあるので、どうしても日本語のほうが便利でついつい日本語での会話になってしまうと答えた。

 確かに中国語では、あまり細かい表現が出来ない。

 細かいニュアンスを伝えるのにも苦労する。
 それ故、中国語は日本人にとって学習が比較的楽な部類に入ると思うが、やはりある程度会話能力を身につけても思ったような表現が出来ない。

 それは自分の能力の問題もあるとは思うが元来中国語には表現の幅が少ないのも一因のように思う。

 狭い島国の中の狭い社会の中で熟成されてきた日本語と、広い大陸の中で常に幅広い異文化との接触を繰り返してきた中国語では、自ずと要求される表現の幅が違ってくるのは当然のことで、とにかく共通言語を持つことが最優先なので中国語の語彙数が限られてしまったのは仕方のないことのように思える。

 しかし、現代になって社会が熟成してくると、この語彙の少ない中国語に表現の限界が見えてきたことは否めなく、中国語にもどんどん新しい言葉が生まれているとは言われるが日本語の持つ表現の幅にはまだまだ追いついておらず、日本語を堪能になった彼女たちにとっては、日本語のほうが便利だと思うのは仕方ないことであろう。

 このような話を聞いてこんな言語を持てた日本人としてちょっと誇りに思えた。

ただ理屈として納得してはみたものの、やはり中国人同士が日本語で話す風景はどこか滑稽だ。

原文