1000年前の日本人と会話が出来るか?

今日、インターネットでニュースをチェックしていたら邪馬台国関連のニュースが出ていて、遺跡の発見によって近畿地方の畿内説がさらに有力なったとのこと。

 ふーんと思いつつ、その後興味の赴くまま九州説と畿内説の論点についてざっと目を通したが、そういう資料を目にしているちに、今もしタイムマシンがあったらこの時代に戻って調べてみたいなぁとふと感じた。

 しかし!

そこで言葉が果たして通じるのかと心配になった。

まあ常識に考えて恐らく言葉は通じないであろう。

 同じ日本人としてその歴史の積み重ねの末端にいる自分であるが、その時代の間には言葉は相当変化しているはずであり、文法すらも違ったものであったかもしれない。
 日本古来の「ヤマト言葉」とされている「やま」などの発音くらいは通じて欲しい気もするが、それだってそのまま通じるとは思えない。

 じゃあ、何年前の日本人まで会話することができるのかと非常に気になった。

 いろいろ調べてみるとこれは非常に難解な学術的テーマらしい。

何故かと言うと、昔から口語と文語は乖離しており、文献は当然文語で書かれており、口語で語られたものを録音するような技術がない昔のことなので、口語がどう発せられたかを知るすべがないからである。

 漢字の筆談であるならば、単語の使い方さえ気をつければ、平安どころか聖徳太子の時代くらいは意志の伝達が可能かもしれないが、口語となると全く以ってわからないと言うのが実のところのようである。

 個人的には江戸の中期くらいはイメージ的に落語などの文化の発生した時代と考えれば会話は成り立ちそうだが、ならば戦国時代の織田信長とは話ができるのか、源義経と話が出来るのかと遡れば遡るほど自信がなくなる。
 聖徳太子くらいになるとやはりお手上げのような気がする。10人の言葉の前にまず私は言葉が聞き取れないに違いない(笑)

 さてどこが境界線かはさておき、今からちょうど1000年前というテーマに絞って考えると当時は平安時代真っ只中で、俗に言う摂関時代である。

 藤原道長などが巾を利かせていた時代であり、この頃すでに表音文字としての「かな」は完全に独立していたようである。

 かな一つ一つの発音は今と違っている面もあるようだが、当たらずとも遠からじで文章を読む発声の範囲では私にも聞き取れるのではないかという気がしている。

 会話が成り立つほど聞き取れるかどうかは分からないが、今上海で上海語を聞くような範囲で部分部分で単語は拾えそうな気がする。まあ単語そのものが難しいかもしれないが古文朗読の訓練を少しすれば何とかなりそうな気がする。
 そう考えるとちょっとわくわくする。

 ちなみに会社の中国人に、1000年前の中国人と会話ができるかと質問したら絶対無理だと言っていた。筆談なら可能だが会話は無理らしい。
 清代あたりを境にだいぶ言葉が変わっているらしく、今の言葉は古代の言葉に比べてかなり口語的になっており、漢字一つ一つの意味も変わっているようだ。

そう考えると同じ漢字文化の源泉を持ちながら、「かな」という表音文字を持てた日本語を話す文化にいるということが、ひょっとすると1000年前の人と会話できる可能性を持たせてくれていることが、ちょっと得した気分にさせてくれる。





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