Monthly Archives: 8月 2009

名刺10万枚、訪問3万軒のすごさ

 今回の選挙で小池百合子元防衛庁長官を破って当選した江端貴子さんの選挙活動について記事を読んでみた。

 元東大准教授でマサチューセッツ工科大学のMBAを取得したというものすごいキャリアウーマンだが、1年7ヶ月前に民主党の公認候補になってからの選挙活動はひたすら地味ともいえるあいさつ回り戦術であったという。

 その訪問先数は延べ3万軒近くにのぼり、配った名刺の枚数は10万枚以上だという。

 1年7ヶ月というのは日数に換算すると約580日ほどだが、その期間に10万枚の名刺を配るというのは尋常なことではない。

 1日あたり200枚ほどの名刺をコンスタントに配らなければ到達できない数字である。

 私も営業であるので夜の会合や営業先で小まめに名刺を配っているが、1ヶ月に200枚ほどがやっとであり、1年半ほどで恐らく4000枚弱を配った計算になるが、彼女は私の30倍、つまり私の1か月分の枚数を1日で配っていたことになる。

 一日10時間の活動とすれば、1時間あたり20枚の計算になり、3分に1回名刺交換したことになる。
 もちろんティッシュ配りのようにただ配ればよいわけではなく自分を覚えてもらえるように配るのだから、一人ひとりに丁寧な対応を要求される。

 普段自分が名刺交換という行為をしていて、一日200人の初めて会った人と挨拶をして名刺を交換するという行為が、どれだけ疲れるか想像できるだけに、これを1年半以上も続けた彼女の馬力にはほとほと感心する。

 私はこの選挙区の地元ではないので彼女が地元で従前にどの程度の知名度が有ったかは知らないが、政治家としてはほぼ無名に近かったはずであり、その彼女が知名度として全国区である小池議員を破ったというのは、こういった地味な選挙活動の力が非常に大きいと思う。

 彼女の得票数はちょうど配った名刺と同じ10万票余りで、単純に言えば配った名刺の数がそのまま票に生きたともいえる。

 確かに今回の選挙では「民主旋風」といわれる追い風が吹いたと言われているが、この江端さんに限らず当選した無名の新人議員さんのエピソード記事を読むと皆さん非常に地味な選挙活動を長期間にわたって行なっている話が伝わってくる。

 たとえ落下傘候補と呼ばれる地元に縁のない人でも、地道に挨拶周りを続け、地元の人脈を広げる活動を続けることによって、地元の人間に馴染まれ選挙に勝利できることが可能だというのが今回の結果であり、単にその場限りの旋風が民主党に勝利をもたらしたと考えるのはいささか浅はかであるような気がする。

 そう考えると解散時期をここまで先送りして選挙期間を後送りにしたこと自体が、結果的に野党側の候補にこれらの地道な選挙活動時間を与えることになってしまい、敗北の原因となったともいえる。

 まあ日本の選挙の結果はともかくとして、地道に顔を広め、つなぎ続けるという行動が、地縁を超えて信頼に繋がっていくということがわかり自分の上海での活動にも勇気を与えてくれた。

 私にとって上海という場所自体がもともと何の縁もない土地であり、完全なよそ者である。

 しかしながら、知り合った人との関係を一つずつ大事にしていくことによって中国人の友達も増えてきた。

 また日本人に対しても、元々それほど縁の深くない県の県人会でも、こまめに顔を出し顔を繋ぎ続けたことによって、一つの商売の芽に繋がりそうな関係も作れつつある。

 石の上にも3年という言葉があるが中国に来てもうすぐ丸3年になる。

 さすがに名刺10万枚を配るまでにはまだまだ相当時間がかかるかもしれないが、今後も地道に顔を広げ、それを繋げる活動を続け、それをいずれ何かの力に変えられる日が来るように頑張りたいと思う。

 

そもそも責任者のとる責任ってなにか?

 これを書いている時点でもう選挙当日になってしまい、いよいよ未来4年間の日本の行く末が決まる。

 だからこのテーマで書こうと思ったわけでもないのだが、首相をはじめ、党首、社長、委員長、学長などなど各組織のTOPはよく責任者などと呼ばれ、何かことあれば責任を取る必要があると言われる。

 しかし、この「責任を取る」って行動って果たして何だろうと時々思う。

 まず思い浮かぶのが「辞める」という行為である。責任を取るのだから当然といえば当然だが、それはただ地位や収入を失ったことに過ぎず、本人にとっては社会的マイナスが生じるかも知れないが、例えばその責任者の行為によって第三者に間接的、直接的に被害を与えたとしても本人が辞めただけでは、被害者にとって何の補償があるわけでもなく、責任をとってもらったようには見えない。

 しかも国の首相などの政治家であれば、政策の失敗により失業者が増えたり国の借金が増えて子孫に重い税負担が残ったりするが、本人は失策であることを認めず、視点を変えて実績であるといった言い方をする。

 また会社の社長なら経営の失敗により従業員が解雇されたり株主が大損したりするが、これをその責任者が辞めたところで第三者の損失が埋まるわけではない。

 まあ民間企業に関しては最近になってようやく経営者の責任について株主代表訴訟などが行われ、いい加減な経営から生まれた損失に対するきちんとした経済的補償を責任者に求めることも可能になった。
 しかし社員の側にはそういった経営者の責任を追及する場は少なく経営が悪いと社長を訴えたところでほとんど補償金をもらえるわけでもない。

 さらに、国の首相レベルや大臣レベルの失策に関してはもっと深刻だ。確かに失策があれば政権交代という社会的地位の格下げなどの可能性はあるが、例えば失業者が何人も増えたところで、失策と事実の因果関係をはっきり証明することができなければ、首相などを直接訴えて財産補償などを受けられる確率はほぼゼロに等しい。

 特に国費の無駄なバラマキにより借金を増やしてしまったような失策は、例え首相を個人的に訴えて認められたところで、首相自身が個人的に補償出来るわけでもなく一度行われた政治に関しては覆水盆に返らずなのである。

 故に国家レベルで首相や大臣が責任をとると言う意味は、実はその下にぶら下がる人々にとってはほとんど無責任といってもよく具体的な行為や補償など中身のある言葉ではないのである。

 そこをよく考えてみえれば、某政党のいう責任力という言葉がいかに無責任な言葉であるかがわかるし、逆に政権交代に過度な期待や責任を期待することも禁物であることもわかる。

 責任者のいう責任とは結局はかなり無責任であり、頼りきってしまうことは危険で、なんとか自ら身を守るしかないようである。

枝葉の議論に時間を費やすな

 世の中には会話大好きな人がいて、大事な会議をしているときも、違う論点や枝葉の部分の議論を持ち込んで議論の本筋ではないところに時間を費やす人がいる。

 本筋ではない論点が持ち込まれると、さもやその論点が一番大事な論点であるかのように思わされ、時間を費やされてしまう。

 先日も例に出した、「国立メディア芸術総合センター」を今回も例に取ると、これは政府の第2次補正予算として急浮上したものであるが、「意味がない」「無駄である」という反対派の意見に対して、出される意見というのは「これはアニメの殿堂ではない」「ゲームやアニメは立派な文化であるという」という主張が出されてしまう。
 すると議論はその是非を論点を中心に進んでしまう。

 しかし、ここで議論されるべき本当の論点は補正予算で組むものとして必要であるかどうかである。

 いうなれば今回の補正予算は低迷する景気への刺激策として組まれたもので、その建物を建てることによって有用な景気刺激策となるかどうかが論議されるべきであって、アニメやゲームの文化性を議論することは予算の目的から言えばなんの意味も持たない。

 本予算としての国の施策を議論を要する場合は必要な論点かも知れないが、緊急を要する補正予算ではその目的に純粋に沿っているかどうかを議論すべきであり、枝葉の議論に時間を費やすべきではない。

 しかし現実には国が借金をしてまで行おうとしている施策にもかかわらず、予算の本来の目的を忘れ、とうとうとアニメの文化性を語る人が現れてたりして枝葉の議論に膨大な時間が割かれている。

 しかしこれは国だけの問題ではなく、企業内でも時々同じようなことが起こる。

 ある一つの新規プロジェクトの進行に関して本来は「成功させためのボトルネックはどこか」「マーケティングはどうか」「スムーズな業務フローを行えるか」など本来はこういうことに時間を割いて考えることが大事なのに、時々プロジェクトの本筋ではない枝葉の部分に時間が費やされたりする

 たとえば商品に書かれるキャラクターのディティールについてこだわったりするような場合である。そのキャラクターのディティールが、そのプロジェクト成功の鍵を握っているような場合もあるが、単に装飾の一つで全体から見れば枝葉であるような部分である場合もある。
 キャラクター好きや話し好きの人が加わったおかげでそこに時間を費やしすぎて、肝心のマーケティングが疎かになったりプロジェクト全体の進行が遅くなるようなことはよくある。

 このディティール議論のようにどの部分が大事かどうかの判断はプロジェクト責任者のコントロールセンス一つにかかっているのだが、結局はどんな議論をしていても時間は平等に過ぎていく。

 何がプロジェクトに必要な本質的な議論であるかを見極めることを忘れて、枝葉の部分にこだわっても時間を費やして結局はプロジェクトは成功しない。
 であれば枝葉の部分と幹の部分を見分けるスキルを身につけ、枝葉である部分の議論に時間を費やさないようにするのがビジネスとしての成功の鍵とも言える。

「枝葉の議論に時間を費やすな」である。

「日本選挙祭り」のようだ

海外からだとネットツールなどを通してでしか情報が得られないので、実際のところがどうなのかわからないが、どうやら今回の選挙は政権交代の可能性も高いと見られるだけに非常に盛り上がっているように見える。

 特に伝えられている写真だけをみると8月という季節柄もあって選挙という「お祭り」が行われているように見えてしまう。

 今回は帝国議会選挙以来の8月投票らしいのだが、実は8月の選挙だから盛り上がっているのではないかという気がした。
 8月は日本全国お祭りの季節であり、いろんなことに活気がみなぎり盛り上がる季節である。

 国政の行く末を決める選挙をスポーツに例えては不謹慎だが、格下が格上に接戦を演じて打ち破って上昇していくという図式が非常に好きな国民であるだけに、ずーっと横綱を守ってきた与党をぐんぐん成長してきた新進気鋭の野党力士が破る姿を見るのは痛快であり非常に盛り上がる。
 かつての貴花田関(後の貴乃花)が大横綱千代の富士を破った一戦もそんな盛り上がりの中で行われたのはまだ記憶に残るところである。

 また8月は高校野球の季節でもあり、人々が白熱の戦いを演じる季節である。有力伝統校がすんなり優勝するより、それを粘り勝ちで無名校が破る試合を、暑さの中の観客は見たがる。

 そんな番狂わせを望む観客が多い8月の舞台、普通のスポーツの試合は選手が戦うだけだが、選挙は観客ならぬ有権者がその勝敗の鍵を握っているだけに余計に不利だ。

 それでなくても与党側は平均年齢が高く、暑さの中の選挙戦は体力の面で不安があり、8月の戦いは非常に厳しい。

 故に今まではそういった体力不安の面や、選挙戦が盛り上がっては困るという与党側の思惑で8月の選挙は避けられてきたのではないかと思うほど、長いこと8月の選挙は行われてこなかった。

 そう考えると、解散のチャンスを幾度と無く先送りしてきた与党は、結局最も分の悪い「8月の熱く盛り上がる選挙」を選択してしまったことになる。
 この8月の「日本選挙祭り」、いよいよあさってクライマックスを迎える。

10月にサーチャージ復活の模様

原油市場の値下がりを受けて、今年の7月にようやく廃止されたはずの燃油特別付加運賃(サーチャージ)、再び原油費が上昇したのを受けて10月にまた復活するとの報道が流れている。

 手元の計算だと、基準となるシンガポールケロシン航空燃料市場の5月~7月の燃油相場の平均価格は1ガロンあたり169.5ドル、これをサーチャージ算定の基礎となる1バレルあたりの金額に換算すると71.2ドルとなる。

 この額を日本航空さんの基準にあてはめると、わずかながら70ドルを上回ったために70~80ドルのゾーンBとなり、中国線は日本販売のチケットで片道1500円、往復で3000円の加算となる。

 よってせっかくサーチャージが廃止されたと思っていたのに廃止期間はたった3ヶ月で終わってしまうことになる。

 まあこの程度で収まってくれるなら、航空券価格の季節変動の範囲の中に吸収されてしまうレベルなので、それほど気にすることではないとも思えるが、単なる値上げとはちょっと違う要素がこのサーチャージには存在するので気持ちは複雑だ。

 つまりこのサーチャージは上がった分、搭乗客にとってはマイルに換算されるわけではないし、チケットを販売する旅行代理店にとっても販売手数料増加につながらないのにもかかわらず、値上がった事に対してお客様から文句を言われる役割だけを押し付けられるととっても不評なのである。

 しかも現在も燃料相場価格は高留まっており下落の傾向は見せてくれない。 ちなみに8月の昨日までの平均は1ガロンあたり188.1ドル、バレル換算で79ドルちょうど程度でサーチャージ設定基準でさらに上のゾーンを窺う状態になっている。

 原油の値上がりのついては原因を分析していないので今後の見込みはわからないが、海外に住む我々にとっては生活に直結する見過ごすことの出来ない問題なのでこれ以上値上がりすることのないように祈りたいものである。