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坂本九さんの残した音楽

 先日の太極拳とジャズの音楽のブログを書いた後に、「SINGSINGSING」の曲を何回かネット上のソースで聴いていたのだが、その冒頭のドラムのアタックを聴いているうちに、「あれこの曲に似たリズム感の曲がなんかあったなぁ」とある曲の断片が頭の隅をかすめた。
 
 果て何の曲だろうと思いながら、頭の中の記憶を引っ張り出し始め、あれこれ模索しているうちに、ようやく思い出したのは、実はフォークダンスの「ジェンカ」だった。

 そう、あのムカデのような隊列を組んで踊るあのジェンカである。

 ただ、この「ジェンカ」は日本人の間でかなり有名である割にはインターネット上での情報が非常に少なく、フィンランドの踊りだということしかほとんど情報がなかった。

 わずかに故坂本九さんの歌った『レットキス(LETKISS)』としての情報があるが、それとて曲が有名である割には、ネット上の情報などは心もとないほどしかなかったのである。

 私はもっと深い情報に出会えると期待していたのだが、その期待は裏切られてしまった。

 私の記憶だと、あの曲の冒頭には、「ズンチャズンチャ・・・・」とドラムで始まるバージョンの音源があり、私の学生の頃はそれを使っていたような記憶がある。

  しかし、ネット上で探す限りどうもそれらは見当たらない。

  結局仕方なく今回は耳に残っていたその音源探しは諦め、ネット上で拾いやすかった坂本九さんのレットキスを聴き、併せて坂本九さんの経歴などを改めてウィキペディアでひっくり返して読んでみることにしたのである。

 で、そこで気が付いたのが坂本九さんの現在にも身の回りに残る曲の多さである。

 「見上げてごらん夜の星を」「幸せなら手をたたこう」「明日があるさ」「上を向いて歩こう」など、彼の歌った曲は他の歌手によるリバイバルなど色んなルートを経て、現在の私の周りにも沢山残っているのである。

 正直言って、坂本九さんは私の年代の歌手ではなく、彼が亡くなった時に私はまだ中学生だったので、坂本九さんの名前と顔こそ知っていたが、私にとって特別凄い歌手という印象はなかったのだが、リアルタイムでほとんど聴いていないのにこれだけ歌を知っている歌手はほかにいなかった。

 しかも坂本九さんがかの日航ジャンボ機事故で亡くなって30年経った今でも、レットキスのジェンカを含め、上記の曲は単なる古臭い懐メロではなく、気軽に口ずさめる曲として身近な存在として残っているのである。

 確かに「上を向いて歩こう」は「SUKIYAKI」として米ビルボードチャートの週間トップになったという大ヒット曲であり、実はアジア圏では後にも先にも彼しか成し遂げていない大偉業なのであるが、そういった一発ヒットがあっても過去の曲になってしまった歌は幾らでもあり、かの曲のようにいつまでも歌われ続ける歌というのは非常に少ないのである。

 ほかにそんな歌手がいないものかと、色々考えてみたが、いそうでいない存在であり、昭和の歌姫の代表格と言える美空ひばりさんでさえ「川の流れのように」という代表曲はあるものの、やはりかの曲は彼女の曲であり、坂本さんの曲ほど普遍化している印象は少ない。

 こうやって考えると改めて感じる坂本九さんの日本の音楽界における偉大な足跡なのである。

 もちろん、こういう偉大な歌手の陰には、やはり優秀な作詞家と作曲家・編曲家の存在があり、それが永六輔さんと中村八大さんなのであるが、坂本九さんを語るうえで彼らの存在を忘れてはならないだろう。

 この六・八・九の組み合わせが、今にも残る歌を生み出したのである。

 そしてこのように活躍してきた坂本九さんの経歴を眺めているうちに、もう一つのことに気が付いた。

 彼が日航機事故で亡くなったのは43歳で、実は今の私と同年代なのである。
 というか先日彼の亡くなった歳を私は一つ追い越してしまった。

 つまり、私が今まで生きてきた時間と同じ時間で、彼はあれだけのものを生み出した時間を生きてきたのである。

 改めて坂本九という存在は凄いなと感じたと同時に、同年代になった人間として自分は全然いけていないことに気付き悔しさも感じた。

 残念だが坂本九さんは偉大すぎて追い付けない存在であるのであるが、その彼の歌が今の私をもまた慰めてもくれている存在となっている。

 「明日あるさ」と。

 「右!右!左!左!前に跳び、後ろ跳び、前へピョンピョンピョン・・・」

  彼の曲を聴いて今日も頑張りたい。
  

 

山城新伍さんの思い出

一昨日、俳優の山城新伍さんが亡くなったとの訃報を耳にした。

実は一昨日の「24年前の記憶」というタイトルのブログに、日航機墜落の翌日にハワイへ旅行に行ったことを書いたが、実はこのハワイ旅行というのは山城さんの司会するテレビ番組の優勝の賞品だった。
 つまり彼の司会するテレビ番組に出場し、優勝してゲットしたのが「ハワイ旅行」で、その旅行の前日に日航機が墜落し、あのような大惨事であった。

単なる偶然かもしれないが、24年前の記憶を思い出したその日に山城さんが亡くなっていたというのは偶然というには出来すぎなくらい因縁を感じる。虫が知らせたのであろうか?

 実は彼と私にはちょっとした共通項があった。それはここでは書かないが、それゆえ彼の司会する番組に出場したとも言えるし単なる一有名人ではない親しみを感じてテレビの中の彼を見ていた。

 結局本人に会ったのはそのテレビ番組に出た一度だけだが、多感期の思い出であるだけに、その記憶も先の日航機の墜落の事件ともに残り鮮明である。
握手をしたとき手が大きく温かったような記憶がある。おどけてひょうきんなキャラクターはテレビそのままで色んな意味で人間っぽい人だった。

 そんな彼が亡くなった。

24年といえばほぼ四半世紀で、まあ彼も私もそれだけ歳をとるわけで、時期が来れば順番に亡くなってしまうのは仕方のないことであるが、当時あったもの、生きていたものが徐々になくなって思い出だけが残っていくのは少し寂しい。

 故人のご冥福をお祈りしたい。

24年前の記憶

 もう24年も経ってしまったんだと改めてびっくりするが、忘れられない「事故」がこの日起きている。

 かの日航ジャンボ機墜落事故である。
 身内が亡くなったわけではないがその記憶は鮮明だ。

 翌日の海外旅行(サンフランシスコ経由ハワイ)を控えてうきうきで過ごしていた自分だったが、6時40分ごろニュース番組にニュース速報のテロップが入ってきた。

「羽田発大阪行JAL123便が消息を絶った模様」

 この瞬間の驚愕の気持ちはいまだに忘れない。
 その瞬間にえもいわれぬ悪い予感に襲われたのを覚えている。

 この文明万能の時代の、しかも日本で飛行機が行方不明になるような事態が起きるなど想像だにしなかった。

 東京―大阪間といえば日本の発展の象徴のような区間であり、そんなところで飛行機が行方不明になんぞなりようがないと信じていたからだ。

 それが現実に起きていた。

 そのニュース速報の瞬間からずっと焦燥感に襲われ続け、ずっとテレビにかじり付けになった。

まずなかなか機体が見つからなかった。バミューダトライアングルのようなミステリーも一瞬頭を翳めたが、そんなこと東京ー大阪間で起きようが無い。

 夜中に群馬と長野県境で何か燃えているという情報が入った。でもなかなか現場にちかづけず、どういった状況なのかまるっきり把握できなかったが、とにかく墜落したことは確かなようだ。

 ニュースで読み上げられる乗客名簿の名前に聞き入りながらずいぶん遅くまで、、、結局何時に寝たのか覚えていなく、、、完全な徹夜はしていないはずだがほとんど眠れなかった。

 そして朝になってテレビ中継でたった4人生き残った乗客が助けられる姿を目にした。

 そんな衝撃をそのまま抱えながら、サンフランシスコ行きの飛行機に乗り、ハワイでの休暇を過ごしたが、この事故で受けた衝撃はずっとひきずったままだった。

 くしくもこの1985年にはつくばで科学万博が行われ、「科学万能」さえ言われかけた年であるが、この事故は科学を持っても防げない人の命のもろさを知った出来事であった。犠牲者の冥福をお祈りします。